金曜日, 10月 23, 2026
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地域でがんと向き合いたい 19、20日 つくばで「命のリレー」

【田中めぐみ】がん征圧・患者支援のためのチャリティーウォークイベント「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2018茨城」が19、20日の2日間、つくば市研究学園駅前公園で開催される。2011年から17年まで同イベントの実行委員長で、今年、副委員長を務める、つくば市に住む県がん検診推進協議会委員の宮本恭子さん(59)に運動への思いを聞いた。

宮本恭子さん

宮本さんが運動を始めたのは2006年のこと。知り合いからボランティアスタッフを頼まれたことがきっかけだった。宮本さんは20代の頃に祖母をがんで亡くした。祖母の介護を手伝い、見送った経験を通し、がんの辛さや苦しさを知ったという。祖母を思い出し、がん予防啓発の手伝いができればとボランティアを引き受けた。

患者の笑顔に衝撃

祖母のイメージから、がんは怖いもの、辛いものと思っていたが、イベントを通じて知り合ったがん患者の女性は、余命いくばくも無いことを笑顔で宮本さんに告白した。宮本さんは衝撃を受けたが、女性は「泣いても笑っても死ぬのなら、笑っていた方が周りのみんなを幸せにできる」と語ったという。

女性の人柄にひかれ、ブログやメールを通じてやり取りを続けるうち、ぜひイベントの実行委員をやってほしいと依頼された。しかし、がんと向き合って活動することに怖さもあり、自信が持てず、返事を濁したまま時は過ぎた。

その後、よく知っていた少年が白血病で亡くなった。若い命が尽きるのを目の当たりにしながら何もできず、やるせなさを覚えた。生前「僕を覚えていてほしい」と言われた言葉が胸に突き刺さり、微力でもいいからできることをしようと決意を固めた。

2009年、宮本さんを含む5人の女性ボランティアが集まり、本格的に「リレー・フォー・ライフ茨城」がスタートした。以来、2010年からは毎年欠かさずチャリティーイベントを行っている。

毎年必ず開催

決して順風満帆なわけではない。2011年には東日本大震災でイベント開催が危ぶまれたが、茨城の被災を心配する支援者の善意もあって、開催にこぎつけることができた。

毎年1度は必ず開催したいと思うのは、参加したがん患者の人たちから「来年も楽しみにしている」という声を聞くためだ。「来年も必ずここで会おう」などと互いに約束をして、それぞれの生活に戻る。闘病は辛く苦しいが「来年も必ず」という希望に応えて必ずイベントを開催しなければという思いがある。

昨年のイベントで開かれた「がん啓発セミナー」、筑波大学関根教授(腫瘍学)が講師を務めた

イベントではがんの当事者らと一緒に公園内を歩きながらがんについて語り合うほか、セミナーや体験談を語る「サバイバートーク」に参加してがんの知識を深めることもできる。アーティストによるパフォーマンスもあり、子どもから大人まで楽しみながら学べる内容となっている。

会場となる公園の遊歩道には希望の光「ルミナリエ」が灯され、様々な立場の人からメッセージが寄せられる。当事者の声、家族や友人、医療従事者からのエール、亡くなった人への追悼など、多くの思いが沿道を照らす。イベントは、当事者のみならず、家族や友人、医療従事者などが共感し合い、情報交換する場になっている。

イベントを通して集まった寄付金は、患者支援やがん医療の発展、がん検診の啓発など、がんに負けないまちづくりに役立てられる。

つくば市は2006年に日本で初めてトライアルイベントが行われた地であり、「リレー・フォー・ライフの聖地」と呼ばれている。宮本さんは、運動の火を消さないように、今後も携わっていくつもりだ。2010年には来場者は300人ほどだったが、昨年は2日で延べ約1700人が来場するほど大きな運動の輪となったという。

会場に飾られるエンプティテーブル。「あなたのいないテーブル」という意味で、がんで亡くなった人たちへの追悼のシンボルとなる=同

◆19日は正午から受付開始、20日正午までの開催。つくば市役所第3駐車場がイベント参加者のために開放される。詳しくは「RFLJ茨城」http://relayforlife.jp/ibaraki/

※メモ

【リレー・フォー・ライフ】米国で始まった運動で、がん患者やその家族の支援のほか、がん予防の啓発、がんで亡くなった人の追悼を使命として活動している。

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