【コラム・斉藤裕之】辺りが薄明るくなってくると最初の1匹が鳴き始める。それに応えて「カナカナ…」と仲間のヒグラシが鳴き始める。サンダルを履いてなだらかな砂利道を下る。数メートル先を白く丸まったパクの尻尾が進む。しばらく行くと道は2つに分かれる。その先の田んぼから聞こえるのはフロッグコーラス。
本当にかの合唱曲のようなコンダクターがいて、最初の1匹が「キキッ、キキッ」というような少し高い声を出すと、続いて一斉に「ケロケロケロケロ…」と合唱が始まる。広い田んぼにはいくつかのコーラスグループがあるようで、こちらの合唱団が鳴き始めてしばらくすると離れた所の合唱団が輪唱で追いかける。
この夏も山口の弟の家で過ごした。山の中にある家を一歩出ると、メススリという小さなハエが鬱陶(うっとう)しく顔の周りを飛び交う。メススリという名前の由来の通り、人の涙をすすりにくるという。
湧き出る水辺にはイモリの赤ちゃんがいた。イモリはが脱皮するということも初めて知った。モリアオガエルの目は金色だった。薪(まき)小屋の上にたわわになっているサルナシの実を見つけた。初めて食べたのはチャンバラ貝。ふたの部分に刀のような突起がある。田んぼで白と黒の大きな鳥を見かける。もしやと思ったらやっぱりコウノトリだった。
日本海の小さな港。堤防から覗(のぞ)いた海面には葉っぱ? 黒く体の色を変えたイカの赤ちゃんの群れがぷかぷか浮いていた。
初めて訪れた中古レコード店。私の漠然とした要望にサクサクっと店主さんが選んでくれた数枚のレコード。どんな曲だろう。それから廃材でポストを10個余り作った。パクを皮膚病の治療もかねて瀬戸内海で3回泳がせた。あまり海も泳ぎも好きではなさそうだったが…。
それから山の中にぽつんとある「ロバの本屋」に行った。小さな納屋のような建物を改装した店内に入ると、犬のビクターが出迎えてくれた。必要最小限に手を加えられた内装や古い棚やテーブル、店主さんのセンスで選ばれた本や文房具、糸や布の手芸用品が並ぶ。ちょうど終わった作品展「かみさまのようなもの」の陶器のオブジェがそのまま置いてあった。
また絵を描きたくなった
還暦を過ぎた弟は潔く大工をやめることにしたらしい。私はといえば未練がましく絵を描き続けていこうと思っている。正直、足腰や目、歯、見てくれは年相応にくたびれてきたのを感じることもあるけれども、ときどき中身は若い頃とさほど変わっていないように感じることがある。無知で未熟なままの…。
木製の古い窓から真っ青な夏空の見えるカフェスペースで、べったりと寄り添うビクターを撫(な)でながらコーヒーをすすった。また絵を描きたくなった。ロバの本屋に訪れてよかったと思った。
夕方、アブラゼミやニイニイゼミに代わってヒグラシが鳴き始めた。今日も暑い1日だったが、山の中の家は夕方になると涼しい風が吹いて夜は布団を被(かぶ)らないと寒いくらいだった。何もしない夏は何もないわけでもなかった。(画家)