【コラム・斉藤裕之】昨日1箱のマッチを使い切った。だから、今朝ストーブに火を入れるために新しいマッチの箱を開けた。ぎっしりと詰まった頭の赤い真新しいマッチ。随分前に買っておいたものだ。いつだったかははっきり覚えていないが、パイプの絵が描いてあってそれが気に入って買ったと思う。このマッチ箱には約800本のマッチが入っているらしいので、使い切るのに3回は冬を迎えなければいけない計算だ。
30年前のパリ。学生会館の同じフロアーにいたチュニジアの女学生の紹介で、フランス人の女学生と日本語とフランス語の交換学習をすることになった。小柄なバニーナという女の子はフレンドリーなパリジェンヌ。どちらかというと、ラテン系の顔立ち(後にご先祖様はスペインから来たということを聞く)。当時私は子供もいたので彼女からしてみれば、うだつの上がらないおじさんのジャポネだったと思う。
大抵は私の部屋で、ある時は彼女の自宅に招かれて、しどろもどろで自分の絵について説明したり、また日本語を教えること、日本語の難しさに戸惑ったのを思い出す。それから、彼女は日本の古い映画が大好きで、溝口健二だか小津安二郎だかの映画を一緒に見に行ったことがあった(多分これが映画館で観た最後の映画)。
ある時、バニーナがタバコを吸う時にマッチを擦りながら、「私、マッチ大好き!」(もちろんフランス語で)と、しみじみと言ったのを今でも印象的に覚えている。
グランメール…グランペール
かつて、どの飲食店にも電話番号の入ったオリジナルのマッチがあって(銀行でもマッチを配っていたなあ)、それはデザインとしても面白かったし、軸や頭の色、大きさなどマテリアルとしても工夫がされていて、お気に入りのものもあった。記憶に残っているのは、マッチでできていている繁華街の地図。地図にお店のマッチが貼ってあって、飲食店の入る雑居ビルなんかはそれぞれの店のマッチが重ねて積み重なっていて面白かった。
ある日のこと、「じゃあ次はグランメールを…」という言葉がバニーナの口から聞き取れたので、「これはマズイぞ! 次はおばあさん(グランメール)を連れてくるのか?」と焦っていたら、彼女はひとりで現れて胸をなでおろしたことがあった。「グランメール」ではなく「グラメール」つまり「文法」をやろうと彼女は言いたかったのだ。今では私もすっかりおじいさん(グランペール)になってしまったけど。
今度どこかの街に行ったら、スーパーかホームセンターで新しいマッチを買おう。しゃれたデザインのパッケージで、頭が茶色とかのマッチに出会えるといいんだけど。(画家)