【コラム・山口絹記】今、大みそかにこの記事を書いている。いつももっと早めに書いておけば、などと思うのだが、あたふたと文章を書いている時間も嫌いではなかったりするので、始末に負えないタイプのライターである。
私の書いた文章は、毎月第1金曜日に掲載される予定で、その週の火曜日には提出にすることになっている。実際に掲載される日は前後することが多いので、あまり時節にこだわった文章を書くことも少なくなった。なので、今回も年末とか年始とか、そんなことは関係ない、とりとめのないおはなしをしよう。
先日、ストリーミングサービスで適当に誰かの作ったプレイリストを流しながら本を読んでいると、ふと何語だかわからない曲が流れてきた。当然意味がわかるはずもなく、何度聴いても口ずさむことも出来ないのだが、不思議なくらい心に響いて、しみじみと聴きいってしまった。
音を伴わないことば
私たちの身体には、空気の振動をとらえ、意味とは別の次元で感受する能力が備わっている。歌詞の意味がわからないのにも関わらず、なぜか心を動かされるという経験は、きっと誰にでもあることだと思う。
音楽をやっている人間からしたら、至極当然のことなのだろうが、ことばという観点だけからみると、かなり奇妙なおはなしである。ことばというものの使い道は、相手に何らかの意味を伝えるものであるはずなのに、ひとたびそのことばが音として発せられ、メロディーになると、私たちはその純粋な意味だけに反応できなくなる。これは、とても不思議で、素晴らしく、そして恐ろしいことだと思う。
私の書いたこの文章は、音を伴わないことばとしてあなたに届くだろう。これが幸いなことなのかどうかは、私にはまだわからない。(言語研究者)