【コラム・先﨑千尋】11月中旬、長野県佐久市で農業協同組合研究会の現地研究会が行われ、佐久総合病院に行ってきた。同病院は長野県厚生農協連が運営する農協病院で、茨城では水戸市や土浦市などにある協同病院と同じだ。
若月俊一元院長の教え
研究会では、同病院と、ドクターヘリが配置されている佐久医療センター、佐久市有機農業研究協議会の有機栽培農園の視察をした後、夏川周介名誉院長の「病院の歴史と若月俊一元院長の功績」に関する講演があった。
私の同病院との付き合いは、50年以上も前に私が当時在職していた農協で組合員の健康診断を実施しようと考え、当時の若月院長の指導を受けたことがきっかけだった。その後何度も同病院を訪れ、若月さんから農村での医療などについて教えを請うてきた。夜のパーティでは酒の呑み方も教わった。
同病院は現在、3つの病院と1診療所、2老健施設、7訪問介護ステーションなどを擁する一大地域医療ネットワークを構築し、1月の能登半島地震では被災者の救援・治療に当たるなど、長野だけでなく、わが国の医療体制を支える役割を果たす一翼を担う存在となっている。
同病院の今日の基礎を築いた若月さんは、敗戦間近の1945年3月、創立間もない同病院に赴任した。当時は農民や住民の健康状態が悪く、病院に来た時には既に手遅れだった。そこで、自ら出張診療に出向き、「予防は治療に勝る」と考え、予防治療と公衆衛生活動に取り組んだ。
若月さんは宮沢賢治の「農村演劇をやれ」という教えに学び、演劇を通じ、農民に健康の大切さを説いた。1959年には八千穂村(現佐久穂町)で全村健康管理による早期発見と予防に取り組み、病院では不治の病だった脊髄カリエスの治療法を確立し、病院給食の実施、精神科の設置、がん治療器の導入など、農村に最高の医療を提供するという実績を積み上げ、病院の規模も大きくなっていった。
さらに、農村医学会の設立、農薬中毒抑止対策、日本有機農業研究会の立ち上げ、研修センターの設立、高齢者ケアへの取り組みなど、わが国の農村医学をけん引し続けてきた。「農民とともに」という同病院を貫く思想は、今日「若月イズム」と言われている。
異色の医師・色平哲郎さん
今回の佐久行きのもう一つの目的は、同病院でも異色の医師・色平哲郎さんに会うことだった。彼は東大工学部をあと少しで卒業という時に中退し、日立市のキャバレーなどで働いたりしたあと、京都大学医学部に入学し、1990年に研修医として佐久総合病院に入り、今日までそこで診療に当たっている。
八ケ岳山麓にある南相木村診療所で10年、所長として、「土」の人たちの暮らしと命を見守っている。そういえば、名刺には「風の人 土の人」と大きく書かれている。風とは、外部から訪れる人、土とは、その地に根を下ろし、実践していく人のことだ。
色平さんと話をするのは久しぶり。佐久病院のことなどを彼から聞き、私は農業の現状や茨城での農村医療のことなどを話し、話は尽きなかった。同病院には現在230人の医師がいるが、「農村医療のメッカ」「若月イズム」が通底する病院だからこそ、彼のような組織になじまない医師もいるのだと思っている。(元瓜連町長)