金曜日, 1月 16, 2026
ホームコラム故火野正平さんにまつわる旧筑波線藤沢駅の話

故火野正平さんにまつわる旧筑波線藤沢駅の話

【コラム・榎田智司】俳優の火野正平さん(本名二瓶康一)が11月14日、75歳で亡くなった。火野さんはかつて、土浦市藤沢(旧新治村)に住んでいたという話を聞いていたので訪ねてみた。

火野さんは、NHK-BSの番組「にっぽん縦断 こころ旅」を14年間続けた。790回目の2018年11月22日の放送でサイクリングロード「つくば霞ケ浦りんりんロード」の藤沢休憩所(土浦市藤沢)を訪れた際、「ここにいたことがある」と話していた。かつての筑波鉄道筑波線(1987年廃線)の常陸藤沢駅だ。番組で火野さんはつくば市小田から自転車を走らせ、藤沢休憩所でかつて商店を営んでいた宮崎照男さん(77)と出会う。NHKのウエブサイト「にっぽん縦断 こころ旅」のページには「なつかしい出会いがあった」と記されている。

りんりんロード沿いの藤沢休憩所。かつては筑波線の常陸藤沢駅だった

11月下旬、記者が宮崎さんに話を聞いたところ、火野さん自身は藤沢に住んでいたわけではないが、母親と弟が1964年から65年の2年間ぐらい藤沢駅近くに住んでいて、火野さんも買い物に来ていたという。宮崎さんはお婿さんだったため、当時直接会ったわけではなかったが、商店で育った奥さんはよく火野さんのことを見かけたと話す。

火野さんの父親は3歳の時に他界、叔父に育てられた。1964年頃、叔父は仕事の関係で大阪に引っ越したため、長男である火野さんだけが付いて行った。母と弟が引っ越し先を探し、転居した先が当時の新治村藤沢だった。その頃火野さんは大阪豊中に住み、高校生だった。

当時を知る宮崎さんの奥さんによると、高校生だった火野さんは、母親の家にたびたび遊びに来て長期滞在し、近くにあった旧宮崎商店を何度も訪れていたという。その頃火野さんはテレビドラマ「少年探偵団」(1962)の子役として有名だったので、つくば市下大島(当時筑波町)から「二瓶がいるぞ」(当時の芸名は本名)と言って見にきた人もいたと話す。

昭和60年当時の宮崎酒店(土浦市新治商工会提供)

宮崎さんは「番組で訪れた際は、懐かしく感じた景色だったのではないか。二瓶家が藤沢に住んだのも、当時は筑波線が通っており、比較的便利な駅前に居を構えたのだろう」と話す。

当時の新治村には坂田駅、常陸藤沢駅、田土部駅と3つの駅があった、その中で一番乗降者が多かったのは常陸藤沢駅で、当時は高校に通う学生だけでなく、住民の足として重要なものだった。藤沢駅前の唯一の商店だった旧宮崎酒店は毎日のようにお客さんが訪れた」と宮崎さんはいう。

宮崎さんは「火野さんのテレビに出たことから、いろいろな人に声をかけられた。当時の出会いは打ち合わせではなく本当に偶然のものだった」と振り返った。(NEWSつくばライター)

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