【コラム・田口哲郎】
前略
おかげさまで、このコラムも100回を迎えることができました。御礼申し上げます。散歩好きの文明批評家との肩書きをいただき、徒然(つれづれ)なるままに好きなことを書かせていただいたことは、とてもありがたく感謝しております。
大学院の博士課程にいながら、キョロキョロしながら街を歩いてコラムを書いています。すべてが遊歩の話題とはいかないのですが、今回は原点に戻って、散歩者から見た街について書いてみたいと思います。
先日、東京で開催された、とある学会に参加したとき、とある学者さんとお話しする機会がありました。その先生は、とある地方都市にお住まいです。出身地は知りませんが、大学は東京だったそうです。
先生は都心の街を眺めながら「東京は良いなあ」と何度もおっしゃるので、「何がそんなに良いんですか」と聞きました。すると「東京は良いよ、文化があるもの。私が今住んでいる街には文化がない」とぼやいていました。
学会のお昼休みに都心の繁華街に行ったのですが、小さな飲食店が並ぶいわゆる裏路地を歩いているときにも、「良いなあ」。入ったのはその街で何十年も営業している、風情のあるカフェでした。「文化があるなあ。飯もうまい」と、終始満足そうな顔をしていました。
その先生が住んでいる地方都市は住みやすいと聞きますし、文化ももちろんあるし、食べ物もおいしいところだと思います。「文化」をほめたたえる先生の真意はなんだろうと私は考えました。もちろん、個人的な好みもあると思いますが、東京が持つ「文化」とはなんでしょうか。
群集が街の文化をつくる
たしかに、茨城県南、土浦・つくば市と東京の繁華街を比べると、郊外と都心という違いがあります。土浦は歴史ある街ですし、アーケイド街もあるので都心の要素もあると思います。でも、圧倒的に異なるのは、昼間にも夜間にも人がたくさんいるということでしょう。いまの都心は人混みの程度が、インバウンドもあって大きくなっている気がします。
郊外のお店は混んでいないので入りやすいですが、都心のお店は席がなかったり、行列していたりする。しかし、それは人の通行量の違いがなせるわざです。
こう考えると、街の文化の礎とは雑踏、人混みなのではないでしょうか。前にも紹介しましたが、エドガー・アラン・ポーの「群集の人」という小説があり、その主人公の老人はひたすら街を歩き、カフェで休憩します。最後は雑踏に消えてゆきます。群集がいてこその街なのです。
コロナ禍では街に人がいなくなりました。それも終わり、人も価値観も元通りになっている。でも、コロナ後はコロナ前とは何かが違うはずです。遊歩者を自認する者として、人と街の関係について注意しながら文明を観察してゆきたいと思います。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)