【コラム・奥井登美子】
「この前の道路、昔は霞ケ浦の入り江だったのよ。私が初めて土浦に来たとき、その風情がまだ少し残っていたわ」
「えっ、霞ケ浦から2キロも離れているのに」
「あの辺に柳の並木なんかあって、料亭・霞月楼に行くのに、阿見の人たちは船に乗ってやって来て、風情のある小道を歩き、料亭を利用していたらしいわ」
「その料亭、今でも残っているの?」
「そのまま残っていて、この間、霞月楼に伝わる絵や書の名品展が行われたの」
歴史のある料亭が昔の形で残っているところは、少なくなってしまった。しかし土浦には、霞月楼という老舗料亭が昔のままの形で残っている。
9月下旬、「湖都・土浦を語る」と題したトークセッション(29日)と、霞月楼に伝わる絵や書の写真展示会(24~29日)が行われた。トークセッションの講師の1人、高野史緒さんは娘の友達。もう1人の清水亮先生は、慶応大学の学生を連れて奥井薬局の展示コーナーに来てくださった。
私道を100メートル歩いて出勤
土浦市内の旧中城通りは昔の水戸街道。昭和のころには、鈴木薬局、奥井薬局、山口薬局、土浦薬局と、120メートルぐらいの街道沿いに薬局が4軒もあり、お互いにしのぎを削っていた。一軒置いてお隣の山口薬局さんとは、どちらが先にシャッターを開けるか、毎日競っていた。
私はそういう競争がアホらしくて、父母に店の引っ越しを勧めてみたが、「奥井薬局は、土浦城から出て、水戸街道にぶつかる一等地です」と。
徳川時代の一等地から離れようとしない父母が亡くなってすぐに、私は我が家の敷地の尻尾に薬局を移転してしまった。昔の霞ケ浦の入り江だったところである。家はそのまま昔の水戸街道沿いにあるから、毎朝、弁当やお花、飲み物など手押し車に積んで、私道を100メートル歩いて出勤する。
家(水戸街道沿い)と薬局(霞ケ浦入り江)のある場所は3メートルの高低差がある。手押し車にとっては、ちょうどいい傾斜を歩くことになる。江戸時代、街道を湖の高さから3メートル上げて造った道。土をどこから持ってきたのだろう。この辺りは低地だから、土砂を殿里あたりの台地から運ぶしかない。
人の手だけで運んだのだからすごいなあ。私は毎朝、江戸時代の人に感謝しながら歩いている。(随筆家、薬剤師)