【コラム・浅井和幸】人は争うものです。小さなことから大きなことまで。個人対個人から国対国まで。時には前向きに捉えられる争いもありますが、ほとんどの場合、誰も得をしないのではないかなと思う争いが多いものです。
私が国の争いに首を突っ込むことはできませんが、個人間や団体内であったり、団体同士の仲裁や整理に立ち会うことはあります。全く意見が対立していることもありますが、意外に多いのは、目的が一緒であるのにちょっとした順番や言葉の行き違いです。みんな不安でおびえているのかもしれません。
そして、相手の言動が意味することに対する推測が大きく間違っているのです。自分に対してこのような言動をするのは自分をつぶしたいからだと推測をしているが、実は相手は褒めてほしいだけ―など。
残念なことに、私たちは戦略的によく考えてコミュニケーションをとっていると錯覚しているだけで、単に感情的であったり、目的に即した言動よりも思い付きでの言動で生活していることがほとんどです。特にささいなことでの争いは、自分を分かってほしい、そうしてもらわないと怖いという、不安に振り回されているものです。
私は間に入るときに、争わずに仲良く生きることがよいという価値観を伝えるつもりはなく、単純に各々の目的や感情などを整理したり通訳をしたりしているイメージで対応しています。それは、それぞれの事実と推測を分けて考えること。推測は確実ではないので、3つぐらい別の可能性を考えられるとよいですね。
共通の言語や相手の言葉で伝えること、例えば、出来るだけ頑張ると言ってもどれぐらいが「頑張っている」を指すのか分からないので、頑張って3日以内に回答するなど、数字で伝えられるとよいですね。
いくつかの可能性、筋道を考える
自分の目的に気づくこと大切です。もし自分を分かってほしいというのであれば、安全な状態で相手を分かってあげることですし、何かを達成したいのであれば、それに即した方法を考えるべきです。そして、自分の目的を達成するのに、たった一つしか方法に限定せずに、いくつかの可能性、筋道を考えてみることです。
争いになっている状況で、相手のことは理解しようとせず、自分の意見だけを通そうとする。自分が普通であることだけを主張しても、争いは大きくなり溝は深まるばかりですから。(精神保健福祉士)