【コラム・斉藤裕之】浅間山の麓から茨城に戻ってすぐに山口に向かう。何度目かになるパクを連れての車の旅も大分要領を得てきた。軽井沢ほどではないが、標高500メートルにある弟の家。エアコン要らずのはずだが、この夏はちょっと様子が違う。テレビでは連日「これまでに経験したことのない」という枕詞(まくらことば)の付いた暑さの予報が連日流れる。
それでもやっと朝晩は涼しくなったころ、弟の次女が夏休みで帰って来た。せっかくなので、みんなでどこかに出かけようということになって、日本海側の長門市にある「香月泰男美術館」を訪ねることにした。
香月泰男は山口県三隅町(現長門市)に生まれ、故郷を愛し住み続けた画家である。今年ちょうど没後50年ということで、県立美術館ではシベリア抑留の体験を題材にした代表作である「シベリアシリーズ」を公開展示していた。実は、私の高校の恩師は高校生の時に当時教師をしていた香月泰男に出会い、以来師と仰ぎながら画業に取り組まれた人だった。だから、香月泰男は私にとって最も身近な画家だった。
美術館は香月が愛した三隅の小高い丘にある。入ってすぐの工作室では、夏休みの子供たちが木っ端や枝を使った工作をしていた(木っ端や鉄くずで作る香月の作る動物や人はとても魅力的だ。また美術館の中でもそれらは重要な展示作品となっている)。
展示室に入ると、モノトーンに近い香月独特の絵画が待っていた。程よい数と質の高い展示に満足したところで、最後に待ち受けているのは何度見ても見入ってしまう再現された香月のアトリエ。それから中庭に出て、香月がシベリアから種を持ち帰って植えたというサン・ジュアンの木の前で記念の写真を撮った。
あぐねあぐね描く
美術館を後にして、雑誌で見たカフェで一休みしようということになった。建物全体が緑の蔦(つた)で覆われたキュービックな建物。中に入ると、とても高い天井のレトロモダンな雰囲気。弟が突き当りの壁に大きな金庫らしいものが埋まっているに気付いた。以前は銀行か何かだったのか。しかし、「café struggle(カフェ・ストラグル)」、直訳すると「苦闘するカフェ」とは、奇妙な店名だ。
ところで、私は先ほどからどうも腹の調子が悪い。いったん外に出て、古い真ちゅうの取手を握って開いたトイレは和式だった。私はしばらくぶりにとる姿勢と流れ落ちてくる汗に思った。「まさにstruggle!」
自家焙煎のコーヒーは薫り高く、外の暑さを忘れさせてくれた。店を出る時、とっさに私は姪に店名の意味を店主に尋ねさせに行かせた。扉を開けて出てきた姪の口からは、「試行錯誤だって!」という言葉が。
「あぐねあぐね描く」というフレーズを高校の恩師はよく口にした。方言のようにも思えるが「倦(あぐ)ねる」というれっきとした共通語であるらしく、つまり「絵には答えや方法などはなく、あぐねあぐね(struggle)描くものだ」ということだ。
私は「café struggle」の扉の前で姪と記念写真を撮った。夏の空は絵に描いたように青かった。(画家)