8月15日の終戦により、海外からの引き揚げ者や他県からの無縁故者、復員軍人らが土浦にも数多く移住した。右籾、中村地区にあった将校宿舎などの軍関連施設は「引揚者寮」として利用され、一時3500人余りが暮らし、農村地域では縁を頼った引き揚げ者による開拓が始まった。土浦の中に、戦争が生んだ「移住者」による営みが現在に引き継がれている。
バラックから始まった
土浦市中央にある亀城公園の隣に、長さ約100メートルの3階建の「公園ビル」(同市中央)がある。食堂や印刷店などが入居し、1階が店舗、2、3階が居住空間となっている。現在の建物は、終戦直後の1947年に困窮する引き揚げ者や復員軍人の救済を目的にバラック式で建てられた、住居一体型の「公園マーケット」を58年に建て替えたものだ。当時は珍しかった鉄筋コンクリート造だった。市主催の桜祭りに合わせて開かれた竣工式・開店大売り出しには県外からも見物客が訪れるなど多くの来場者でにぎわった。

現在、公園ビルの各店舗を所有する17軒による「公園ビル商業協同組合」で代表理事を務めるのが、同ビルで創業77年を迎える「亀屋食堂」を営む時崎郁哉さん(49)。SNSでも話題に上る名物のかつ丼を求めて県外からファンが訪れるなど、地元以外にも新しい顧客を増やしている。郁哉さんは公園ビルで生まれ育った3代目。「ここは長屋みたいなところで、誰もが子どものころからよく知る近しい関係。学校が終わると亀城公園で近所の子ども同士でよく遊んだ。亀城公園は僕らの社交場でしたね」と話す。
同店の創業者で、同組合長を長年務めたのが祖父の故・時崎国治さん。1906年に福島県大玉村で生まれ、海軍航空隊に志願し土浦に来た。戦後、公園ビルの前身となるマーケットで1947年に亀屋食堂を開いた。開店当時の名物は、卵と小麦粉を使わず水だけで繋いだコロッケと秋刀魚のフライだったと郁哉さんが言う。

「昭和20年代に店に来てくれていた人に『コロッケは忘れられないよ、今も思い出す』と以前はよく言われてたんですよ。その世代の方も大分亡くなっちゃって寂しいですが、何もない時代だったからこそ、そういうものもご馳走だったのかな。当時、魚はよく獲れてたけど肉は貴重だったんですよね」
救済のため建設を請願
国治さんが「公園ビル」の歴史を、91年に作った冊子「公園ビル四十五年の歩み」に記している。同書によると「復員軍人、満州中支引揚者」の生活再建の場として、亀城公園のお堀から霞ケ浦へ注ぐ水路上に27軒からなる「公園マーケット」が建てられたのが1947年10月だった。最初の建物は「(水路上に)杭を打って建てた杉皮葺の急造バラック」で、一戸あたりの広さは「店舗二坪と四畳半一間」。押入れやお勝手はなく、トイレは5軒に一つだった。国治さんは「冬の寒さが堪えた」としながらも、土浦駅前には5、60人の引き揚げ者が暮らすバラック住宅が他にもあり、「贅沢(ぜいたく)は言えない」と述べている。
終戦直後の土浦が直面したのが急激な人口増加だった。1946年9月の土浦市議会議事録によると、45年11月1日時点で4万3665人だった人口が、9カ月後の46年8月5日には約7000人増の5万629人に増えている。各地から流入する引き揚げ者や戦災者たちによるもので、その増加数は月平均770人余り。
こうした背景の中で、1946年10月、移住者たちを救済するため住居と店舗を兼ねた「バラック式マーケット」の建設を説いた請願書が、「土浦市真鍋戦災者引揚者互助会」(萩原孝会長)から市議会に提出された。マーケットの建設場所として、かつて「前川マーケット」という商業施設があった現在の公園ビルが建つ旧前川町(現・中央2丁目)を流れる水路上が提案された。この新施設の建設計画は市内の「貸家組合」と呼ばれる団体が請け負った。地元住民の要望により関連機関と折衝をし、土浦市を保証人として43万円の建設費用を銀行から借り入れた。こうして47年10月に「公園マーケット」が建てられた。

「よそ者同士の集まりで、当初は軋轢(あつれき)もあったそうです」と郁哉さんが話す入居者たちは、各自で商売を始めつつ共同事業として亀城公園のお堀でスワンボートの貸し出しをスタート。売上金でマーケットにアーケードを作るなどして徐々に結束を高めていった。
その後、1951年にはマーケット組合を結成し組合長に国治さんが就任し、老朽化する建物の建て替えに向けて動き始めた。56年には現在の「公園ビル商業共同組合」を発足させて、58年4月の現在の建物完成へとつながった。
郁哉さんは「長屋時代のことは直接知らないが、みんな苦労してきた人たち。軍人だった祖父は特に仕事に厳しい人だった。お客様に対するマナー、相手の気持ちになるよう教えられた。いたずらをして木につるされたのもいい思い出」だと振り返る。
レトロブームで女性客も増えた
現在の名物かつ丼は、2代目の父・次郎さんが始めたものだ。夏の高校野球の季節になると、弦を担ぐ関係者からの注文が増えるという。

「最近はレトロブームもあって、純喫茶やうちのような食堂にも若い人がよく来てくれる。以前は少なかった女性客も増えた。部活帰りの高校生が店の前に自転車をいっぱい並べてゾロゾロ入ってきてくれる。いい光景ですよね。みんな若いから、こっそりご飯大盛り。おまけしたとは言わないけどね。個人店だとそういうのができる。部活やってたら腹減るでしょう。高校生ならいくらでも食べれるからね」と郁哉さんは言うと、「お客さんも若い人が増えているので、こういう食堂文化を伝えていけたらと思ってます。フードコートとは違う、長年やってるこういうところもあるんだよってね」と語った。(柴田大輔)
続く