【コラム・斉藤裕之】もう何年も同じ風景のままの本棚。その中のずっしり重い○○画報という女性雑誌を手に取ってみたのは、妻が亡くなってしばらく経ってからのこと。「あこがれの軽井沢で…」という大きな文字が目立つ表紙。巻頭には緑に囲まれたモダンな平屋の建物の写真。
それは文化学院の創設者、西村伊作の別荘。この当時の西村家の財力からするとむしろ質素にも見える別荘は、実は当代きっての文化人であり教育者だった伊作氏の軽井沢や別荘建築に対する理想や思いが詰まっている。
この雑誌を読んだせいかはわからないけれども、妻がしきりと軽井沢へ行きたいと言い出したのは亡くなる数週間前ぐらいだったか。それまで一度も旅行をせがんだりしたことはなかったし、軽井沢に行ったことさえなかったのに。
てっきり日帰り旅行だと思ったら宿泊をしたいという。それはちょっと無理だと家族の誰もが思ったのだけれども、本人は行く気満々というか行ける気満々だった。結局、在宅医療に来てくれるお医者さんに説得されて軽井沢行きはかなわなかった。
行ってみるか軽井沢
ところで、長女の義理のお母さん、姑さんはとても元気な人で、今も海外旅行の添乗員をしていて1年の半分ぐらいは日本にいない。そのお母さんが、この夏に長女家族と軽井沢に避暑に行くからと私も誘ってくれた。正確には北軽井沢。上田出身のお母さんはその辺りの事情に詳しく、「軽井沢は実は結構暑いのよ」と、より標高の高い北軽井沢推し。
私自身は避暑などという概念すらなく、夏はとにかく暑いのが好きで、海や山を駆けずり回っていたい方だったのだが、このところの尋常ではない暑さと年齢のせいか、それからつけっぱなしのクーラーにも罪悪感を覚えたりして、夏は涼しいところで過ごしたいというふうに考えが変わってきた。
ある夜のこと。まだ起きる時間ではなかったが目が覚めたので、紙粘土で文化学院の旧校舎を作って描くことにした。実は、私はお茶の水の文化学院に日曜日の社会人対象の絵画講座の講師として長いこと通っていた。入口の大きなアーチが印象的な西洋風の洒落た建物だった(多くの文化人を輩出した自由で独創的な学び舎も時代の波には勝てず約百年の歴史に幕を下ろした)。
ネットで校舎の画像を見ながら、当時を懐かしく思い出す。フランスから帰ってきたばかりの私を文化学院に紹介してくださったのは当時の大学の恩師。そういえば先生は晩年を軽井沢で過ごされた(まきストーブのまき割りに行くという口約束をしたきりになってしまった)。
フランスから帰って来てちょうど30年。この夏、彼の地ではオリンピックが開かれている。開会式の様子を見ながら、懐かしい風景を思い出す。聖火の灯されたチュイルリー公園では、嫌がる妻と観覧車に乗ったっけ…。
そして、当時学院長だった西村八知先生のエスプリに富んだ名言がふと頭をよぎった。「人生暇つぶしだから…」。行ってみるか軽井沢、暇つぶしに。夏の浅間山を妻に見せるつもりで。(画家)