火曜日, 3月 24, 2026
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恐竜の星《短いおはなし》29

【ノベル・伊東葎花】

眠れないのかい? そうだよね。窓の外はいつも真っ暗だ。
朝か夜かもわからない。宇宙旅行とは、そういうものだ。
どれ、父さんが話をしてあげよう。
いつかお前に話そうと思っていた話だ。

これは、ある星の話だ。
恐竜と人間が共存する、不思議な星の話だ。
ずっとずっと大昔に、地球の恐竜が絶滅した。
神様は、絶滅前に何頭かの恐竜を他の星に移住させた。
このまま絶滅させては可哀想(かわいそう)だと思ったんだろう。
共食いをされては困るから、草食恐竜ばかりを選んだ。

自然豊かなその星で、恐竜は穏やかに暮らした。
やがて人間が誕生して、暮らしも進化していった。
しかしその星の人間は、恐竜の領域を侵すことはしなかった。
先住民である恐竜を敬い讃(たた)えていたのだ。
また恐竜も、人間の暮らしを脅かすことはなかった。
お互いに、上手(うま)く共存していたんだ。

たくさんの時代を超えて、科学は進化した。
そしてその星に、地球人がやってきた。
地球人は驚いた。
絶滅した恐竜が、そこにいたからだ。
地球人は、恐竜を何頭か譲ってくれないか、と頼んだ。
しかしその星の住民は断った。どんなに大金を積まれても断った。
恐竜にとって、この星を出ることは幸せではないと思ったからだ。

地球人は諦めた。
しかしひとりだけ、どうしても諦められない男がいた。
恐竜が大好きな研究者だ。
男は恐竜の生息区域に忍び込み、卵を盗んだ。
そして何食わぬ顔で地球に帰ったのだ。

男は自分の研究室で、卵を大切に育てた。
やがて見たこともない恐竜が生まれた。
大変高い知能を持った恐竜だ。人間の言葉を理解し話すことができた。
恐竜も進化していたのだ。

男は、まるで我が子のように恐竜を可愛(かわい)がった。
恐竜も男を父親だと思った。
男にとっても恐竜にとっても、それは楽しい日々だった。
しかし恐竜は、どんどん大きくなった。
まだ1年足らずで男の背を追い越した。このままではいずれ天井に届いてしまう。
食べ物だって、あの星ほど豊富ではない。
研究室で育てるには、限界がある。

男は、自分の愚かさに気付いた。
愛(いと)しい。とても愛しいけれど、恐竜を故郷に返すことにした。
これ以上大きくなったら船に乗せることができなくなる。
だから急いで出発した。
最愛の息子と、最初で最後の宇宙旅行だ。

「お父さん、もしかして、その恐竜がボクなの?」

「ああそうだ。お前はやっぱり賢い子だな」

「もう一緒には暮らせないの?」

「暮らせない。父さんは罪人だ。罰を受けなければならない。ごめんよ。お前には本当に悪いことをした」

「でも、ボクはお父さんが好きだよ」

「ありがとう。さあ、もうすぐ到着だ。少し眠りなさい」

愛しい息子は、ざらついた舌で、私の涙をそっと拭った。

(作家)

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筑波研究学園都市を一つの研究教育共創体に 筑波大など25機関が協議会設立

筑波研究学園都市に集積する大学や国等の研究機関が結集し、一つの研究教育共創体となって、新産業の創出など研究成果の社会実装を加速することを目指す連携体制をつくるための協議会が23日、筑波大学など25の研究機関で設立された。 25機関は、筑波大と物質・材料研究機構、農業・食品産業技術総合研究機構、産業技術総合研究所、国土技術政策総合研究所など。各研究機関の論文数を合わせると世界トップレベルで、共創体は世界有数の研究集合体になるという。同日、つくば市内のホテルで協議会の発足式が開かれ、25研究機関の代表者らが覚書に署名した。 共創体(仮称・筑波研究教育機構)構想を呼び掛けた筑波大の永田恭介学長は、50年前の筑波研究学園都市建設の理念を踏まえ「つくばをつくり直す」構想だとした。物質・材料研究機構の宝野和博理事長は発足式のあいさつで「国立研究機関の強みは最先端の研究施設と支援体制、研究環境だが、大学院世代の若い研究者候補が十分でない弱みがある。人口減少社会の中で、優秀な大学院生が世界中から集い、世界最高の研究環境ができることが共創体構想の本質ではないか」などと期待を話した。 共創体構想は、筑波大が昨年度、国際卓越研究大学の認定を目指し申請した構想でもある。認定されれば政府の10兆円規模のファンドから25年間にわたり年間100億円前後の支援を受けることができたが、25年度は認定されなかった。永田学長は「お金が入ろうが入るまいが、元々やらなければならないことなので3、4年前から準備を続けてきた」とし、「どうやって研究費をとってくるのかは課題だが、つくばが元気を出さないと、ここをつくった価値がない」と強調した。 具体的には、筑波大が1992年度から取り組んでいる連携・協働大学院を基盤に、世界トップの研究教育共創体に発展させることを目指す。同大学院は、国等の研究機関の研究者を筑波大の教員として、同大の大学院生が研究機関の研究環境を活用して研究に取り組む制度で、現在、外部の31機関などの研究者229人が筑波大教員を兼務し、筑波大の大学院生508人が各研究機関の研究室で研究に従事している。大学院生は研究力強化のためにも必須の存在だとして、2035年までに教員、大学院生それぞれ3倍に増やし、教員を500人、大学院生を1500人に増やすことを目指すことを第1段階の目標とする。 ほかに共同ラボの設置、研究者が複数の研究機関と雇用契約を結ぶクロスアポイントメント制度による研究者の共同公募、起業支援、筑波大の海外分校や海外協定校など海外ネットワークの活用、筑波大の外国人研究者宿舎の共有など連携の取り組みも検討されているという。 今後のスケジュールについては、4月以降、共創体の形態や運営についての協議を開始し、来年3月ごろの共創体を設立を目指す。共創体は法人化し、新たな共同プロジェクトや研究資金の獲得にも取り組むとしている。(鈴木宏子)

序章 土浦一高哲学部「放課後の哲学」

はじめに 【コラム・哲学部顧問 飯島一也】現在、世界的に哲学ブームが起きているそうです。1960年代生まれの筆者にとっては、80年代に起こったニューアカデミズムという哲学ブームが懐かしく思い出されます。今回の哲学ブームはAIの進化と関連があるようで、AIと倫理に関連するスキルを合わせ持つ人材が、過去5年で6倍に増えているとのこと、2025年12月8日付 日経新聞電子版の記事「超知能 仕事再定義⑴ AI時代の雇用『求む!哲学専攻』」には、以下のように述べられています。 「なぜ今、哲学なのか。米エール大学心理学部のローリー・アン・ポール教授は『AIがもたらす予測不能な未来に、既存の価値観では対処できなくなりつつあるためだ』と説明する」 「AIはいずれ与えられた最終的な目標に向けて自ら計画を立て、必要なタスクを自律的に実行するようになると見込まれている。そのとき、AIの根本的な判断を左右するのは開発者の思想にほかならない」 この記事では「開発者の思想」である哲学は、「予測不能な」AIに対抗するためのものとされています。現代のAIは人間の脳をモデルとして作られていることから、筆者からすると、AIを開発することが人間の知能や人間らしさそのものについて思索する可能性を開いている、という側面も重要であると思っています。 改めまして、土浦一高哲学部顧問の飯島と申します。この度、NEWSつくばのライター柴田大輔さんから、生徒のエッセイを連載するという企画について、お声を掛けていただき、生徒にとって、自分の思索を文章にする絶好の機会だと受け止めました。連載を始めるにあたって、本稿では、顧問の立場から、部活動や本コラムの紹介をさせていただきます。 哲学部の由来 高校生が哲学について考え、自身の問題として語り合う。そういった放課後の光景が、土浦一高には、部活動として存在しています。土浦一高哲学部では、この記事の執筆時点(2月21日)で、1、2年生合わせて23人の部員が、それぞれの関心に応じて哲学を探究しています。 「哲学部」が正式に部活動として承認されたのは、2025年3月の生徒総会で、まだ最近のことになりますが、前進となる組織は、文芸・弁論部内の「哲学班」として、約4年間の活動を積み重ねてきました。 その始まりは、2021年の4月頃、入学して間もない一人の女子生徒が、国語科室を訪れたという出来事にさかのぼります。その生徒は、中学時代、筑波大学で開催されていた哲学カフェに参加したことがあり、土浦一高でも開催してほしいと言うのです。その要望に応える形で、まずは1年生を対象に第1回の哲学カフェを開催し、そこに参加した5人の生徒が文芸・弁論部に入部したことで「哲学班」の発足に至ったのでした。つまり、哲学部の始まりは、あくまで生徒の要望だったのです。  哲学部の活動 そのような経緯から、哲学部の活動の中心は、哲学カフェにあります。参加者が輪座して対面し、当たり前に見える事柄を疑い、その場にいる皆が納得できる答えを求めて、専門的な知識を用いず、誰にでも通じる言葉で、前提にさかのぼって対話する。ですから、哲学カフェにおける「哲学」とは、参加者全員が共同して制作するものです。つまり、「哲学」を生み出すのは「対話」なのです。この原則は、哲学カフェを離れた、読書や文章作成などの場面でも変わらないと考えます。そこで、読書会なら「テクストカフェ」、文章作成なら「編集カフェ」というように、あらゆる活動について、対話を通して行うように意識しています。 また哲学カフェを含めて、個々の活動は「チーム制」で行っています。生徒自身が発案し、生徒自身の交渉によって実現したチーム活動としては、地元のレンタルスペースを運営する「がばんクリエイティブルーム」さんのご協力による市民哲学カフェが挙げられます。生徒が東京大学の研究室を訪問したときに、土浦一高で哲学カフェを開催していただけるよう、名誉教授を口説き落としたこともあります。他にも、哲学カフェの研究・企画・運営を行う哲学対話モデル研究会や、哲学史勉強会、各種の読書会、哲学散歩、広報活動などに、チームで取り組んでいます。最近の動きとしては、哲学という言葉に敷居を感じる人にも対話の文化を届けるために、心理班を発足させ、精神療法の一つであるオープンダイアローグ(開かれた対話)を活用した実践も始めています。 このように、土浦一高哲学部では、「対話」と「チーム制」に基づいて、フラットで対等な関係性が築かれています。 哲学部の挑戦 哲学部がまだ哲学班だった頃、2代目の班長を務めた女子生徒の言葉が印象に残っています。卒業を前にして残してくれた言葉です。 「哲学カフェで戦争を止めたい」 20世紀後半の哲学では、様々な哲学者や学派が異口同音に、言語や対話の重要性を主張していたように思います。それらの動きに先駆けて、アメリカの哲学者でプラグマティズム(実用主義)の創始者チャールズ・サンダース・パースは、次のように述べています。 「私たちは純粋な概念を語ることから始めてはならない。それはまるで誰も住んでいない公道をさまよい歩くようなあてのない考えだ。そうではなく、人々とその会話とともに始めなければならない」(CP8.112) 相対主義と分断の時代にあって、対話を通した哲学、哲学を共創する対話が生み出す関係性は、共同体の新たな形の一つを示唆しているように思います(*脚注)。学校内外での哲学カフェの実践は、そのような新たな共同体の芽を育てていく挑戦でもあると、土浦一高哲学部は考えています。 コラム連載にあたって これからご覧いただくコラムは、哲学部員の中から手を挙げた生徒たちによるものです。「対話を通した共同執筆」という理念の下にチームを立ち上げ、先ず、生徒が選んだテーマについて、それぞれ30分くらいの哲学カフェ、次に、生徒が書いた第1稿について、やはりそれぞれ30分くらいの編集カフェを行いました。その後は、生徒が自身の内的な声と対話しながら完成させました。 生徒の文章を読むと、世界の根源などといった形而上学的なテーマは見受けられず、日常生活に密着した問いが中心となっています。その分、想定した以上に、生徒それぞれにとって切実なテーマが取り上げられているように思います。また、哲学カフェや編集カフェで交わされた対話や出された意見を誠実に受け止めて、文章に反映させようとしていました。それ故に、産みの苦しみを味わった生徒も多かったようですが、その過程で、自分の問いに進展があった、答えが見えた、という言葉を生徒から聞けたときは、このコラムのお誘いを引き受けてよかったと思えました。 哲学史の知識や文献研究の点では物足りなさを感じる方もいらっしゃると思いますが、「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)重視という表面的な若者像、「Z世代」というステレオタイプとは異なった、リアルな若者の姿を発見できるでしょう。現代の高校生たちが、いかに誠実に世界と向き合い、いかに真剣に思索しているか。放課後の教室で、夕日を浴びる街中で、哲学を語り合う高校生たちのエッセイ集を、ぜひお楽しみください。『放課後の哲学』、スタートします。 *脚注筆者は、顧問として、生徒との哲学カフェの体験を積み重ねる中で、生徒がこれほどまでに哲学カフェに熱中するのはなぜなのか、問い続けてきました。その結果として実感したのは、次の2点です。一つは、哲学について:哲学とは、たとえ高度に専門的なものであっても、内的/外的な対話によって制作されるものであるということ。よって、哲学カフェは初歩的なお遊びどころか、哲学本来の姿を具現しているということ。そして、哲学カフェという場所では、対面することによって、参加者に共有できる現実が生み出され、その現実との対話から出された結論は、アドホック(その場限りの)でありながらも普遍性を確保しうるということ。もう一つは、対話について:哲学が共同の制作物であると前提することで、哲学カフェに必要なルールが決まってくるということ。そのような哲学カフェのルールとは、対話を成立させるためのものに他ならないということ。そして、対話の中で、参加者それぞれの経験や気づき、アイディアが、哲学の共同制作に寄与していると実感できることで、他者や自己の価値に気づき、お互いを尊重し合うような関係性が発展するということ。筆者の実感と近いものとして、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」に対する野口裕二氏の考察が挙げられるでしょう。「 〔べてるの家では〕上下関係が生まれる心配はないのか。結論からいえば、その心配はない。その理由のひとつは、当事者研究が共同研究という形をとっているからである。誰かひとりのアイディアではなく、みんなで作り上げたアイディアとなるので上下関係と結び付きにくい。もう一つの理由は、そこで出てきたアイディアが有効かどうかは実際の行動によって検証されるからである。」(野口裕二「継承すべき系譜②―自助グループ」(臨床心理学増刊第10号 当事者研究と専門知)2018:松本卓也『斜め論』2025よりまた引き)当事者研究と哲学カフェは、共同の表現の制作が対等な関係性につながる点、当事者または参加者に共有される現実が検証や普遍性の根拠とされる点で、共通していると考えられます。同じように対話を重視しても、声の複数性(ポリフォニー)の確保そのものが水平性につながる点を強調するオープンダイアローグとは対照的です。