【コラム・先﨑千尋】古くからの友人・知人が相次いで亡くなっている。今度の訃報は水俣市長だった吉井正澄さん。5月31日に92歳で亡くなった。5月1日、水俣病犠牲者慰霊式の後の伊藤信太郎環境大臣と水俣病患者らの懇談で、被害者側の発言時間が予定時間を超えたとして環境省の担当者がマイクの音を切り、SNSで大炎上しているときに重なった。
吉井さんは、水俣市では山間部に住み、自民党の政治家として市議会議長などを歴任した後の1994年に市長に就任した。
そして、同年5月の水俣病慰霊式で「いわれなき中傷、偏見、差別を受けた犠牲者に対し、市当局が十分な対策を取り得なかったことを申し訳なく思う」と述べ、水俣市長として初めて患者と被害者に公式に謝罪した。その後も水俣病問題に真正面から取り組み、村山富市首相らと会談を重ね、政治解決に奔走した。
吉井さんからは、水俣病を発生させたチッソや被害者たちと離れた所に住み、直接関わりがなかったのでできた仕事だった、と後で聞いた。
また、経済と環境の調和のとれたまちづくりを目指す「環境モデル都市づくり」、「新しい水俣づくり」に全力を傾注し、水俣病のために疲弊、分断された市民の融和を図り、絆を取り戻す「もやい直し」運動を始めた。
2000年5月には同市で環境自治体会議の「水俣会議」が開かれ、全国から集まった自治体関係者や市民、研究者、学生などが、同市の「ごみ高度化分別収集」、市役所、学校、家庭の「環境ISO」、エコショップや環境マイスター制度、環境水俣賞などの取り組みを学んだ。茨城県からも村上達也東海村長(当時)などが参加した。
私はこの会議の分科会の一つ「環境自治体づくりの先進事例に学ぶ」で司会を務めたが、報告者の一人である柳川義郎・岐阜県御嵩町長が町内の産廃処理場を巡って暴力団に襲われ、瀕死の重傷を負った後だったので、岐阜・熊本県警のものものしい警備の中で分科会が開かれたことが今も記憶に鮮明に残っている。
行政のトップが代われば街も変わる
私は、この会議以前から水俣病患者が生産した甘夏などを購入していたので水俣には度々訪れているが、吉井さんが市長になってからは、行くたびに、同市は変化している、進化しているという印象を受けた。行政のトップが代われば、その地域の住民も街も変わるのだ。
吉井さんが2017年に出された『じゃなかしゃば 新しい水俣』(藤原書店)の出版記念会には村上達也さんと一緒に参加したが、この会には多くの水俣病患者たちも出席していて、吉井さんとの絆の強さを知った。
一昨年5月、私は家族旅行の際に吉井さんの自宅に寄り、思い出話に花を咲かせることができたが、その時も、まだトラクターに乗り、田畑を耕していると聞いて驚いた。
吉井さんは文を書くのも達者。『離礁:水俣病対策に取り組んで』、『奈落の舞台回し』、『気がついたらトップランナー』などの著作がある。米寿を過ぎてからも『小さな蛮勇』と題するエッセイを書きつづり、私たちに送ってきてくれていた。最後は今年の正月。その軽妙洒脱(しゃだつ)な文を読みながら、吉井さんとの出逢いを振り返っている。
ありがとう、そしてさようなら吉井さん。(元瓜連町長)