日曜日, 10月 11, 2026
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香取市の「伊能忠敬記念館」《日本一の湖のほとりにある街の話》23

【コラム・若田部哲】初めての実測による日本地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」、通称「伊能図」を作った香取市の偉人・伊能忠敬(いのう ただたか)。今回は、忠敬の人生の結晶である伊能図のほか、測量で用いられた様々な器具や記録などを紹介している「伊能忠敬記念館」のご紹介です。同館学芸員の石井さんに、忠敬の人生と展示についてお話を伺いました。

入館するとまず目に入るのが、一定時間で2つの日本地図が切り替わって表示されている縦3.5メートル×横約4.5メートルの巨大なモニター。表示されているのは伊能図と現代のランドサットによる衛星写真であり、それらはほとんど重なり合っています。伊能図が200年以上前の江戸時代に作製されたということに、驚嘆の念を禁じえません。

次に驚くのが、忠敬が地図作りに取り組み始めた年齢です。もともと天文学や算術に強い興味を抱いていた忠敬でしたが、婿養子入りした伊能家を経営しなければなりませんでした。その商才で財産を築き家督を譲り隠居した後、測量に取り組み始めましたが、その時、なんと御年実に55歳!

ところで、伊能忠敬というと「初めて日本地図を作った人」というイメージがありますが、最初から日本地図を作ったのではないそうです。その測量人生の最初の目的は、正確な暦を知るために子午線一度の距離を求め、地球の大きさを知ること。この際は江戸から蝦夷(当時の北海道)までを測量しました。

酒を飲まないが測量隊の条件

その後、71歳に至るまで10回にわたり全国を巡ることになりますが、測量は「導線法(どうせんほう)」という技術を基本とし、地図の補正や測点の位置の確認、地図上の山や島などの位置の特定する「交会法(こうかいほう)」という技術もあわせて用いました。それらに加え「象限儀(しょうげんぎ)」で測った星の高度から緯度を求め精度を高めたそうですが、これは地図作製の分野で忠敬が初めて採用した技術だったそうです。

展示されている様々な測量器具も人気とのことで、代表的なものに測量の際の目印となる「梵天(ぼんてん)」、距離を測る「鉄鎖(てっさ)」などがあります。また、忠敬が最も用いた方位を測る「杖先方位盤(わんからしん)」は、常に水平が測れるよう真ちゅう製の万能関節を用い、軸受けには水晶が使われるなど、当時の最先端技術の粋を集めた特別製とのこと。

並べられた数々の資料からも、忠敬の几帳面(きちょうめん)さと厳格さはうかがい知れるところですが、象限儀での天体観測においても、その性質が発揮されているのだそうです。測量中は晴れの晩に正確な観測を行う必要があるため、「酒を飲まないこと」を測量隊の条件としていたにもかかわらず、ある時その禁を破り飲酒騒動を起こした者たちがいました。すると忠敬は、その弟子たちを2名破門、3名謹慎にしたそうです。

人生、何か始めるのに遅いはない

最後に、石井さんに注目すべき点について伺うと、当時としては大変珍しい真鍮を用いた測量器具を用い精度を高めた点や、現代では見られない、星の高度を用いて測量しているという点に、歴史的価値を感じてほしいとのことです。また、ともすれば忠敬個人の才能が語られがちですが、測量隊をまとめる手腕もまた、全国測量を成し遂げるための優れた資質であった点に注目すると、より展示への理解が深まるとのアドバイスをいただきました。

生涯に歩いた距離は実に4万キロ、地球1周分にも及ぶとされる、情熱と信念の人・伊能忠敬。その業績を見るにつけ、人生、何かを始めるのに遅いということはないと、勇気づけられる思いがします。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

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