水曜日, 3月 11, 2026
ホームスポーツ能登の高校生に元気を 筑波大バドミントン部が練習会 OBが呼び掛け 

能登の高校生に元気を 筑波大バドミントン部が練習会 OBが呼び掛け 

筑波大学(つくば市天王台)バドミントン部の部員らが3月30、31日の2日間、能登半島地震で被災した高校生を対象に、石川県金沢市の県立工業高校体育館でバドミントン練習会を開催した。同大バドミントン部OBで、被災地の珠洲市で高校教員として勤務する清水亮輔さん(27)が「被災した子どもたちにバドミントを練習できる機会をつくれないか」と呼び掛けたことがきっかけになった。

清水さんは石川県出身。「震災後、部活動がしたいという生徒がいる中で、体育館が自由に使えないのが現状」という。清水さんによると、能登地区の生徒たちは、現在オンライン授業を活用するなど、学習機会を最低限確保できている一方、部活動に関しては、地震による体育館損壊の影響で、一部のスペースしか利用することができない。バドミントン部の生徒を含め、部活動は週に1回程度。ライフラインである水道はいまだ復旧しておらず、普段通りの生活が取り戻せない状況下で、生徒は自身の進路や大会に向けた練習に向き合っている。

清水さんの呼び掛けをきっかけに、石川県高体連バドミントン専門部、同県バドミントン協会と、筑波大バドミントン部が協働し、開催に至った。清水さんを中心に、能登地区周辺の高校に声を掛け、能登半島の県立輪島高校、七尾高校、飯田高校などのバドミントン部に所属する1〜3年生の生徒が参加した。当日はバスを利用して同校体育館に集まり、両日で延べ150人が練習に励んだ。

筑波大から派遣された部員有志は新入生も含めて12人。部員らで考えた練習メニューをもとに、バドミントンコート6面分ほどの広さの体育館で、男女シングルス、ダブルスなど種目別に分かれて練習を指導した。

練習会に参加した能登地区の高校生と筑波大生(同)

清水さんは、同大バドミントン部に対して「ただ単に活動の場所を提供することだけでなく、参加した高校生が今まで以上にバドミントンに熱中できるよう接してもらうことを期待していた」と語り、「学生のおかげで、実際に参加した高校生の生き生きとした表情や、笑顔で楽しむ様子を見ることができた。制限がある中での生活だが、気が紛れたのではないか。石川のために時間を割いてもらってとても感謝している」と話した。

同大部員らの交通費や宿泊費などの開催費用は「がんばろう能登プロジェクト寄付金」と題して同部が寄付を呼び掛けた。約3週間で個人や法人などからおよそ75万円が集まり、練習会では、参加した高校生に対し、メーカーや有志らによるバドミントン練習用具の提供も行われた。

同大体育系助教でバドミントン部顧問の吹田真士総監督は「高校生には、バドミントンに取り組む瞬間だけは、日常を忘れて夢中になってもらえるよう心掛けて接した。この活動が、高校生たちの背中を押す一歩になれば」と話した。

同大大学院1年で部員の服部嶺さん(22)は石川県出身。バドミントンを通して地元に貢献したいという思いで参加した。「参加した生徒から『震災後初めてラケットを握った』『週1回1時間程度の練習しかできない』などと聞き、バドミントンが練習できる環境が整っていない現状を目の当たりにした」と述べ、「大変な時でも必死に1日を生きようとしている高校生の姿を見て、とても勇気づけられた。今後も地元やバドミントン界のためにできることを考えていきたい」と話した。

同大体育専門学群2年で部員の岡村祐輝さん(20)は、小学生の頃から南海トラフ地震に備えた訓練を経験してきたことで、被災地への支援活動に興味を持ち参加した。「金沢で出会えた高校生や、自分たちが活動するための寄付金など、周囲の助けや縁を感じられた2日間だった。自分たちに何ができるかを常に考えながら活動した」と話した。

参加した高校生からは「地震で週に1回しか練習ができていないため、こういった練習はとても良い機会になった」「自分に足りなかった部分がたくさんあったけれど、筑波大学の先輩たちが丁寧にアドバイスしてくれたおかげで、たくさん吸収できた」という声が寄せられた。一方「校舎の体育館が使えないため、自主練習ができない」という声や、「学校で練習ができない」「体育館が使えるか不安」など、地震の被害を受け、練習施設不足に関する悩みも寄せられたという。

吹田総監督は「自分たちに何ができるのかを考えながら、継続して行動し続けることで、周りに良い影響を与えていきたい。将来的には、高校生だけでなく、小中学生を巻き込んだ活動や、石川県以外の被災地とも連携し、支援の幅を広げていければ」と話した。

清水さんも今後について「自分たちにできることには限界があるが、高校生のためにも、競技力の高い筑波大学の学生の力を借りて、練習会をまた実現させたい」と話している。(上田侑子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

がん治療で読んでおきたい本《ハチドリ暮らし》59

【コラム・山口京子】がん治療をする上で知っておきたい情報が整理されている3冊の本を見つけました。 最初のお勧めは「国立がん研究センターの がんになったら手にとるガイド」(国立がん研究センター・がん対策研究所著、小学館クリエイティブ)です。がんと診断されてからの検査、治療、生活、仕事、お金、体験談などがまとめられており、これからどうなるのだろうという不安に対して、見通しを立たせてくれる本です。 次のお勧めは「専門医が教えるガン克服の21カ条 ガンとわかったら読む本」(佐藤典宏著、マキノ出版)です。医師からがんと告知されたあと、患者本人がどのような選択をするのかによって治療の進展が違ってくるので、標準治療、非標準治療、西洋医学、東洋医学などにこだわらず、自分がよいと信じる治療法を組み合わせることがよいと書かれています。 また、告知されたときに知っておくべきこと、手術前にしておくべきこと、手術後に心がけるべきことなど、貴重なアドバイスが載っています。 恐ろしい「多重複合汚染」 3冊目は「がん患者3万人と向きあった医師が語る正直ながんのはなし」(西尾正道著、旬報社)です。この本では、がんと医療の問題を考える一つのきっかけとして、近藤誠医師(がん放置療法の提唱者)の主張の誤りを指摘しつつ、日本の医療の問題点を述べています。 また、放射線によるがん治療の意義と今後のがん医療の在り方、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が日本の医療や食物の安全に与える影響、福島原発事故による放射性物質が健康に与える影響、低線量被ばくがもたらす健康被害などが語られます。 さらに、化学物質と放射性物質の「多重複合汚染」が子どもの発達障害の原因ではないかとの脳神経科学者・黒田洋一郎氏の指摘を読むと、がんの増加やさまざまな病気の原因に「多重複合汚染」があるのではないかと考えてしまいます。そして、放射線の核種と線量の公開を求めるなど、福島原発事故対策のあり方を明記しています。 1945年の原爆投下以来2000回以上と言われる核実験、チェルノブイリ原発事故、福島原発事故などで、健康被害が静かに進行しているのでは!(消費生活アドバイザー)

「第二の人生」という言葉《続・平熱日記》190

【コラム・斉藤裕之】そろそろ、燃やしても構わない1年分の紙切れをストーブにくべてしまおう。そう思って、封筒やレシートを一応広げてみる。すると、クリアファイルの中からちょっと懐かしいものが出てきた。それはスケッチブックの切れ端に生徒が描いた私の似顔絵。随分古いものもある。描いてくれと頼んだことはないけど、くれたものを捨てずに取っておいた。 大学院のころから続けてきた日雇い先生の仕事がもうすぐ終わる。最低限の生活の糧として止むに止まれず始めた仕事だったが、我ながら随分長い間続いたものだ。 聞かれれば答えるが、学校で自らプライベートな話をすることはない。しかし、最近の子は悪気もなく既婚か否かを聞いてくる(先生もプライベートな話をするらしい)。「孫がいるよ」というと、たいがいの生徒は驚く(年齢のことではなくて独身にしかみえない?)。 妻が数年前に他界したことを言うのが面倒臭いこともあって、そう答える。そうすると、やれどこで知り合っただのクリスマスはどうするだのと聞いてくるから、適当にお茶を濁す。だから、生徒は私が今も夫婦仲良く暮らしているものだと思っている。 私の似顔絵を描いてくれた生徒 人生を逆算して生きるのにはどうも抵抗があったが、両親が届け出の期限ぎりぎりまで思案した末に「馨」というイカした名前を授けられた孫娘が生まれたことで、この子の年齢に今の自分の歳を足して将来をイメージせざるを得なくなった(20歳になるころまではギリ大丈夫か?)。 1人目、2人目と孫が生まれて、すぐに絵を描いて、それは長女の家に飾ってある。さて馨のも描いてやろうと試みたが、どうもうまくいかない。女の子だからちょっとかわいらしくと思うのがいけないのか、生まれて間もない赤子というのは文字通り赤いごろんとしたもので、大人の顔を描くようにはいかない。 「第二の人生」という言葉は、私のようにずっと日雇いで暮らしてきたものには当てはまらない。途中、何度か就職することも考え、試みたこともあったが、それはかなわず家族に苦労ばかりをかけたと思う。それが良かったのか悪かったのかを考えてもしょうがない。 今思えば、どこにも属さず束縛されることなく、今も絵を描き続けられているということと引き換えだったんだろう。そのツッパリも無意味ではなかったのか、有り難いことに、ここにきて私の絵を応援してくれる人たちがいる。第一も二もない私の人生の続きは、いつものように朝牛乳パックのパレットに絵具を出すことから始まる。 日雇いとはいえ、随分たくさんの子供たちと過ごした。〇〇世代とか、今の子供たちは…とか、いつの時代も言われてきたけれど、50年前の私たちと今の子たちは何も変わらない。同じようなことを話し、同じように悩み、同じように笑って。 コロナ禍以降はマスクをしていたせいで、しばらく私の似顔絵を描く子はいなかったが、先日、1人の生徒が、描いたものをうれしそうに渡してくれた。最後の授業が終わったとき、その子に私が独り身であることを打ち明けてもいいかなとも思ったが…。(画家)

ロボッツ、第4Qで崩れ名古屋Dに悔敗

来季に向けアリーナ改修終わる 男子プロバスケットボールBリーグ1部(B1)の茨城ロボッツは7日と8日、改修したばかりのアダストリアみとアリーナ(水戸市緑町)に名古屋ダイヤモンドドルフィンズを迎え、2連戦を戦った。7日は69-97、8日は69-72でともに敗北。これで茨城の通算成績は12勝29敗で東地区11位。次節は11日、首位の宇都宮ブレックスとアウェーで対戦する。 2025-26 B1リーグ戦(3月8日、アダストリアみとアリーナ)茨城ロボッツ 69-72 名古屋ダイヤモンドドルフィンズ茨  城|19|24|22| 4|=69名古屋D|18|12|11|30|=72 茨城は第3クオーター(Q)終了時点で65-42という23点もの大差をつけながら、第4Qに名古屋Dの猛迫を許し、最後はわずか3点シュート1本差で敗れた。 第1Q、茨城は立ち上がりでやや出遅れたが、メンバーを入れ替えながら対応し、残り2分ほどから赤間賢人の3点シュート2本とドライブシュート1本などで追い上げ、残り6秒からロバート・フランクスの3点シュートで逆転に成功した。赤間は今季のBリーグドラフトで茨城に指名され、2月から特別指定選手として加入したばかり。「タフな時間で自分が体を張ったプレーを見せたかった。特に得点は考えず、空いたところで打とうという意識だった。スリーをよく打った分、ドライブも行けると思った」との振り返り。 この日の茨城の好調の要因について「昨日から何かを変えたというよりは、やるべきことをやりきるマインドを持ってプレーしようと話していた」とクリス・ホルムヘッドコーチ(HC)。守備では一度止めてからしっかり守りきろう、攻撃ではオープンな状況を作ったら迷わず打とうという意識で、それが第3Qまではしっかり遂行できていた。 だが第4Qで状況ががらりと変わった。名古屋Dは守備をプレスディフェンスに切り替え、さらにテンポを上げて茨城の攻撃時間を削りに来た。「相手はオープンな攻撃ができているように見えても、あせりが出て集中力がなくなり、第4Qはうちのものになった。勝ちに慣れているチームが、慣れていないチームに最後の30秒で勝った試合だった」と名古屋Dのショーン・デニスHC。 「第4Qで一気に攻め込まれたときに、私たちが解決策を見つけられず、プレッシャーをそのまま受け失速してしまった。あのようなシチュエーションでの戦い方を学ばなければいけないと感じた試合だった」とロボッツのホルムHC。だがそんな中でも新規加入の赤間やティム・シュナイダーの活躍が見られたことは、今後に期待が持てる良い材料だった。 特別席を設置 茨城の本拠地であるアダストリアみとアリーナは、昨年5月から進められていた改修工事が終わり、今節から使用が再開された。主な改修内容はホスピタリティエリアの設置で、10室102席のスイートルームと180席のラウンジシートが用意され、高級感ある観戦体験を可能にしている。 「改修は来季からのBプレミア参入のための必須条件であり、そこにロボッツならではの魅力も加えた。スポーツを通じて夢や感動を共有し、人と人が深くつながることができる。ロボッツにとっても水戸の街にとっても誇りになるものにしたい」と、茨城ロボッツスポーツエンターテインメントの川﨑篤之社長。 スイートルームの窓にはあえてガラスを入れず、会場の熱気や一体感を取り込んでおり、フリードリンクやフリーフードを取りに行きながら、隣の人との対話や交流も生まれやすい構造。基本的には年間パスポートの形で、スポンサーや協力企業を中心に販売が始まっている。ラウンジシートは、従来の1.5席分のスペースを使ったゆったりサイズの席で、1試合ごとに7300円~13200円で発売される。(池田充雄)

日本人にとって米とは何か《邑から日本を見る》192

【コラム・先﨑千尋】米不足から米余りに。ひところはテレビも新聞も米の話題があふれていたが、最近はいつ店頭価格が下がるかに注目点が変わってきた。米価は国民の暮らしに直結するだけに、上がった下がったで一喜一憂するのはわからないでもないが、私は今回の「米騒動」を通して、日本人にとって米とは何かが問われたのではないかと主張してきた。 1月に、つくば市でそのことを話す機会があったので、今回はその要旨を伝えたい。 国の形をつくってきた稲作 日本人にとって米とは、食料ではなく、食糧、糧(かて)だった。「白い米を腹いっぱい食べたい」という願望は、米を作る農民も含めて長い間一般の人の切なる思いだった。さらに、稲を栽培するということは、我が国の国土を作り、制度を整備し、芸術や文化を高め、諸技術を発達させるという、この国を創る上で欠かせない役割を果たしてきた。 水田は、誰でもわかるように地面が平らだし、稲作には水も必要だ。畑とは違う。水田は個人では作れない。田づくりと水の管理は共同作業だし、リーダーと労働力が要る。全国に5000余ある前方後円墳は米の文化の所産だと言われ、国土開発、自然改造の歴史的事業の記念碑だった。 時代は下って江戸時代。「加賀百万石」という言葉に象徴されるように、江戸時代に米は貨幣となり、経済の中心に据えられた。幕府が置かれた江戸には百万人を超える人が住み、年貢米は北前船などで運び込まれた。それを扱う商人や大地主が生まれ、幕府や大名は新田開発に力を注ぎ、それまで86万町歩だった水田は300万町歩を超え、人口も1000万人から3000万人と3倍に増えた。 世が代わって明治時代。地租(税金)が物納から金納になり、百姓の暮らしが苦しくなり、地主が集積した土地が、農地の約半分を占めるまでになった。小作料率も約半分。長塚節の小説「土」にあるように、「稲が田んぼにあるうちはオレのものだけど、刈った瞬間からオレのものではなくなる」という小作百姓の嘆きが聞こえてくる。 米を作らないとどうなるのか 戦後の農地改革によって農村を支配してきた地主が消え、自分で作った米がやっとオレのものになった。米の品種改良や水田の基盤整備、機械化、化学肥料や農薬の普及などによって、生産力と生産量は大幅に上がり、1960年代後半には生産量が1400万トンに達した。「米を腹いっぱい食べたい」願望が実現したとたんに、国は財政負担が多すぎると減反に方針を切り替えた。そのために、農地、農家戸数、農業就業人口がどんどん減り、今度は「米を作っても米では食えない」ようになってしまった。 村から若者が消え、田んぼは荒れ放題。イノシシが跋扈(ばっこ)する。米を作っても1時間10円にしかならない。ボランティアで米作りはできない。「農じまい」だ。 米は工業製品ではない 私は講演の最後に「米は工業製品ではない。米の価格にカエルや赤トンボの価値は含まれていない。日本列島は米作りを基盤にして創り上げられてきた壮大なネットワーク。農業を放棄すれば、その土台に構築された日本文化は崩壊する。田んぼは巨大なダム。稲作は土砂崩れ、土の流出を防ぐ。森林の保全とともに美しい地下水を作る。自然の景観を保全する。文化を継承する」などと訴えた。(元瓜連町長)