【コラム・斉藤裕之】恐らく、後にも先にも教え子の結婚式に出るのはこの一度きりだろう。記憶に残っている限り、一番てこずった「問題児」が多かった年。だからよく覚えている。新郎は、中学校1年生から3年生まで美術の授業を担当し、高校1年の選択授業も受け持った。
これまで何千という生徒を教えてきたが、いまだに交流のあるのはこの子を含めて男3人だけ。なにせ日雇い先生だし、授業が終わればさっさと帰るし、それ以上の付き合いをすることもなかった。でも、なぜかこの3人には妙に懐かれてしまって、休みには薪(まき)割の手伝いに来てくれ、私の関わった美術イベントにも参加してくれた。
1月吉日。都内某所で、式、披露宴は賑々(にぎにぎ)しく開かれた。宴もたけなわになった頃、ご両親が私の座るテーブルに回ってこられた。
実は、新郎は高校に入って間もなく、些細(ささい)なことで学校をやめてしまっていた。詳しい事情は聞かないでいたが、その後、別の高校に入り直して上智大学を卒業し、在学中にバイトをしていた会社の仕事から起業に至り、今は社長。
やや向こう見ずなところもあるが、目標に向かう前進力には感心する。しかし、在学中よりも卒業してから絵を学びたいなどと言い出して、うちのアトリエやお絵かき講座にデッサンをしに来ていた時期があった。それから、個展会場にひょっこり現れて絵を買ってくれたりもするようになった。
ご両親は、新郎がことあるごとに私に随分と助けられたという意味のお礼を述べられた。短い会話ではあったが、そのご苦労をお察しするのに難くはなく、それゆえに今日のよき日を格別に喜んでおられることが伝わってきた。
余談だが、私の座ったテーブルには3人の中学同級生がいて、そのうち2人は中途退学した生徒だった。でも、とてもちゃんとした大人になっていて、1人は見目麗しいパートナーを同伴していた。先生、恩師として呼ばれたのは、多分私ひとりだったと思う。
忌野清志郎「僕の好きな先生」
余談だが、同じテーブルに座っていたもう1人は、新郎と共によく私の元を訪れていた同級生。宴もお開きとなって、彼とクロークに上着を受け取りに行った。「この上着に見覚えがあるか」と彼に聞いた。「もちろん。よく持っておられましたね」。キョトンとする彼。
これは、かれこれ10年近く前、彼が北海道の大学から帰ってきたときに着ていたダウンジャケット。就職が決まった春休み、薪割りを手伝ってもらった折に、もう十分着てくたびれてしまったので捨ててくださいと言って、置いていった。見ればそれほど汚れてもいなかったので、私がもらって今日もこうして着させてもらっているのだった。
帰りの電車で、忌野清志郎の「僕の好きな先生」という歌が頭の中を流れ始めた。私としては、何か特別なことを教えたつもりもないし…。
考えてみると、新郎はもちろん絵が好きだったということはあったにせよ、美術の授業や絵を描くことに、何というか、救われていたのかもしれないと思った。ということで、新年に向けて、改めてテキトーに授業をしていこうと思った。(画家)