日曜日, 12月 28, 2025
ホームつくば不登校とは何なのか 経験者5人が赤裸々に語り合う

不登校とは何なのか 経験者5人が赤裸々に語り合う

きっかけは?後悔してない?

不登校を体験した大人たちが、当時を振り返って語り合う座談会が先月21日、つくば市の桜総合体育館で開かれた。親や学校との摩擦、友人関係、死を意識した心境…つらい経験を時にユーモアを交え、聴衆からの質問にも答えつつ、語りかけた。不登校になった子に、大人はどう接するべきなのか。切実な語りに耳を傾けると、ヒントが見えてきた。

フリースクールや、行政の教育相談機関など不登校を支援する関係者が集うイベント「不登校・多様な学び つながる”縁”日」の一環。保護者やフリースクール運営スタッフのほか、不登校支援に関心を持つ市議も出席していた。主催団体の「不登校・多様な学びネットワーク茨城」は今月12日にも筑西市の県西生涯学習センターで同じタイトルのイベントを開催。フリースクールのブースを設け、悩み相談会も開く。

登壇したのはざっきー(20代男性、NPO支援組織職員)、しーちゃん(30代女性、シンガーソングライター)、にっちー(20代男性、大学生でフリースクール職員)、まこちゃん(30代女性、精神保健福祉士)、まりりん(30代女性、フリースクール運営)の5人(いずれも仮名)。内容の一部を紹介する。

―いつから不登校に?当時の心境は?

ざっきー 中2まではまじめでいい子。生徒会役員もやっていました。中3の始業式の日、熱が出て2週間体が動かなくなってしまった。「学校がイヤだから行きたくない」ってわけじゃない。今も学校に対してそんなに悪い印象はない。

にっちー 中3の時。はっきり覚えていないんだけど、人に会うのが怖くなった。頑張って学校に行ったときはしょうゆを携行して飲んでいた。体調不良を理由に早退できると思っていたので。ネットで知り合った不登校の友人と、学校に通う「リア充」とみなして敵意をツイッターでつぶやき合っていました。

しーちゃん 「リア充」への違和感、分かります。みんなが盛り上がっている話題だと、大して面白くないけど空気を読んで笑う。なかなか本当の自分が出せず、小6で一時不登校に。学校は戦いに行く場所でした。

まりりん 中1の冬から。家で寝て、テレビ見てゲームをして現実逃避していた。自分と関係ないところで時間が進んでいく感覚で、当時のことはあまり覚えていない。(学校には)スクールカーストがあった。明るく楽しくしていい人もいるけれど、私ははしゃいじゃいけない人、みたいな空気を感じて息苦しかった。

まこちゃん 小学2年生から。保育園や幼稚園に行っておらず、幼い頃は心の病気を患っていた母とずっと一緒に生活。就学前健診で初めて同年齢の子と出会った。女の子同士の遊びに入りたくても、遊び方がまるでわからない。周囲に合わせて「アルプス一万尺」を覚えたころには、もうポケモンがはやり出す。頑張ってもついていけない私はランクが下。上手に友だちづきあいできる同級生は手が届かない、「セレブ」のような遠い存在だった。

イベント会場の正面玄関では、カラフルな手書きのチラシが来場者の目を引いていた

―不登校の子と、そうでない子の違いは?

司会者 私は学校行っていたけど、人に合わせたり、つまらないと感じたりした時はあった。不登校の子との違いってなんでしょうか?

まりりん しんどいけど学校行ってた人は「いい子」。いい意味でも、悪い意味でも我慢することに慣れることができていたんだと思う。

しーちゃん 頑張りすぎて学校に行ってコップから水があふれたタイミングがたまたま小6だった。中学生や社会人になってそういう風になった可能性はあると思う。

ざっきー 同じですね。たまたまコップの水があふれた時期が学生のときだった。

にっちー 僕も同じ。いまだに、どうして不登校になったのかよくわからない。

まこちゃん 最初は頭痛から、そして全身に体調不良が広がっていった。それで親とも相談して病院にも行って「行かない」という選択をした。

不登校を経験した男性―学校に行かないで後悔したことは?

ざっきー 地元のつながりが消えてしまい、寂しい面もある。でも大学生の友達と昔話はするので、虚無感はない。

にっちー 文化祭に行きたくなくてトイレにこもっていた人なので、中学・高校の友達はほぼゼロ。でもゲームを通じて友達と交流できたし、大学で楽しいこともあった。人間関係が苦手になったという後遺症はあるけど、後悔はあまりない。

まこちゃん 小学生の学習支援をしていて、子どもたちに「二桁の割り算ができないの?」と驚かれた。小2から不登校で、小5でかけ算を覚え、その後で割り算に取り組んだ。先日、4歳の息子の保育園の運動会に行って、こんなに楽しいものなんだと気づいた。「学校に行っておけば良かった」と思う気持ちはゼロではない。子どもの時、学校に行かなくても、大人になって体験できることもある。でも、割り算は捨ててますけど(笑)。

まりりん 大学生のころ、同級生との会話で修学旅行の話題は避けていた時期があった。後悔していないが、親になってみると、自分のように家に引きこもるのはもったいないと思う。大学に入って最初は人と話せず、友人との距離感がなかなかつかめずに失敗を重ねた。そういう人間関係の失敗は早めにした方がいいと思っている。

しーちゃん 不登校の子の知り合いは多いが、「後悔している」という声はあまり聞かない。自分は臆病なので、片足突っ込んだぐらいで不登校の期間が終わった。今では、ちゃんと自分に向き合って不登校しておけば良かったと後悔している。

次ページに続く「親はどう受け止めればいいの?」

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

山本五十六元帥と土浦 いくつかの符合(2)《文京町便り》47

【コラム・原田博夫】前回コラム(11月23日掲載)では、慶應義塾塾長・小泉信三(1888~1966年)の一人息子・信吉(海軍主計中尉、1942年10月22日の戦没後大尉進級)に関連して、信三博士の交友・人脈のうち、旧制土浦中学(現土浦一高)卒の武井大助氏(1887~1972年、海軍主計中将などを歴任)との交誼(こうぎ)に焦点を当てた。今回は、信吉中尉への各般の弔問・弔意の中から、土浦に関連がある2人に目を向けてみたい。 1人は、信吉氏が乗船していて轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦没後少将)である。北品川の小泉邸へ弔問に数回訪れた武井氏が小泉博士に語ったところによれば、中島艦長は武井氏と中学時代の同級生(土浦中学第3回生、1904年3月卒)だったとのこと。 小泉信三「海軍主計大尉 小泉信吉」(私家版1946年刊、文藝春秋版1966年刊、文春文庫版1975年刊)によれば、八海山丸艦長の夫人・中島まつ子は、夫とともに戦死した信吉・海軍主計中尉の報に接し、1943年1月、次男の宣二(海軍少尉)とともに小泉邸を弔問に訪れ、夫君の出発日朝の様子などを語っている。 数日後、信三博士自身も上落合の中島邸を訪れている。帰宅後に受け取った海軍省人事局長からの速達便には、子息・信吉の海軍主計大尉進級が官記されていた。 この交流には、中島大佐と土浦中学で同窓だった武井氏が介在していたことが推測できる。中島大佐と土浦中学同窓だった武井海軍主計中将は、東京高商(現一橋大学)在学時、福田徳三博士宅で開かれていたアダム・スミス輪読会で信三博士と懇意となり、これが二人をつなぐことになった。 対米開戦直前、霞月楼に礼状 2人目は山本五十六元帥(1884~1943年、戦没後授与)である。山本元帥は1924年、霞ケ浦航空隊(いわゆる予科練)副長として赴任し、航空部門を中心とした海軍力の強化を図った。酒はダメだが酒宴は嫌いでなかったようで、しばしば、土浦市内の料亭「霞月楼」を訪れていた。 当時の若い海軍兵たちの酒宴はかなり乱暴だったようで、霞月楼に今でも保管されている山本元帥の礼状(真珠湾攻撃直前の1941年12月5日付、連合艦隊旗艦長門から)には、無礼講(ぶれいこう)へのお詫びとともに、自分にとっては「最後の御奉公」と記されている。この間の事情は、故堀越恒二(霞月楼元社長)著「記念誌:霞月楼100年」(非売品)に記されている。 山本元帥は信三博士とも交誼があり、元帥からの手紙(1942年11月尽日付、開封は12月21日)には、謹呈された信三博士著「師・友・書籍 第二輯」への礼のあとに、令息(信吉主計中尉)戦死への悔やみが述べられ、自分も「最後の御奉公」に取り組んでいる旨が記されている。元帥も、和歌では武井主計中将(1965年、歌会始の召人)を先達としていたようで、そのことも「海軍主計大尉 小泉信吉」で言及されている。 信三博士は、山本元帥が知友・武井氏と趣向が同じ点でも、元帥に親近感を抱いていたようである。1943年5月21日、慶應義塾教職員俱楽部で山本連合艦隊司令長官戦死のラジオ放送を聞いた時には(実際の死没は4月18日)、満腔(まんこう)の敬意をもって、塾生に知らせるよう指示した。ちなみに、第一艦隊司令長官は、1941年8月、山本海軍大将から、武井大助氏や中島喜代宣氏と同級の高須四郎海軍大将(1884~1944年)に替わっている。これも符合の一つである。 私の(母方)祖父から伝承された「手本とすべき先輩たち」の話に導かれ、小泉信三「海軍主計大尉 小泉信吉」は、私にとっては無視できない符合がいくつか重なった。それらを個人的な記憶として風化させるべきではないと考え、2回にわたり記した次第。(専修大学名誉教授)

里山収穫祭 大人も子供もダンス《宍塚の里山》131

【コラム・古川結子】11月23日、土浦市の宍塚の里山で行われた「秋の収穫祭」で、ダンス企画が行われました。私は、法政大学公認の環境系ボランティアサークル「キャンパス・エコロジー・フォーラム」(略称 キャンエコ)の活動として、収穫祭の運営補助をする中で、サークルのオリジナル曲に合わせて踊る機会をいただきました。 「宍塚の里山」はキャンエコのメーン活動の一つであり、普段は毎月第4日曜日に宍塚を訪れ、環境保全活動を行っています。 このダンス企画が始まったのは、昨年4月に行われた「春の収穫祭」からです。バレエやダンスに親しんできた私に対し、里山でキャンエコの活動をサポートしている「宍塚の自然と歴史の会」の齋藤桂子さんが提案してくださったことがきっかけでした。そこから、収穫祭では、はやりの曲に合わせて地域の子供も大人も一緒になって踊ってきました。 そして今回、秋の収穫祭に向けた準備の中で、齋藤さんから「ぜひキャンエコでオリジナルのダンスを作ってほしい」と言っていただきました。卒業を控えた自分にとって、この言葉はとても大きく、思い切ってオリジナル曲の制作と振り付けに挑戦することにしました。 歌詞は、サークルの仲間と協力して書き上げ、AIを使って曲を完成させました。振り付けは子供から大人まで踊れるように意識しました。 里山で生まれた一体感 「踊る」という行為は、慣れない人には少し恥ずかしく感じるかもしれません。それでも、音楽に合わせて身体を動かす楽しさを、少しでも感じてもらえたらという思いがありました。 当日、最初は遠慮がちに周りで見ていた大人の皆さんも、学生や子どもたちにつられるように輪に入り、楽しそうに踊っている様子を見て、とてもうれしかったです。踊り終わったころには、初めて会う人同士でも距離が縮まっているのが、ダンスのすごいところであると感じました。 宍塚の里山は、多くの人の手によって守られています。今回の収穫祭でのダンスが、里山の存在やキャンエコの活動を知るきっかけになっていたら幸いです。みんなで踊った様子は動画として記録し、YouTubeにも公開しています。これをご覧になり、里山で生まれた一体感を、多くの方に感じていただけたらと思います。(法政大学キャンパス・エコロジー・フォーラム 4年) https://youtu.be/lr5EXHD-NLc?si=29c9cISMDT8rN0Tq

個人情報記載の住宅地図を誤配布 つくば市

つくば市は26日、同市谷田部、陣場ふれあい公園周辺の352世帯に、公園近隣の86世帯の名字など個人情報が入った住宅地図を誤って配布してしまったと発表した。うち2世帯は名字と名前が入っていた。 市公園・施設課によると、同公園でのボール遊びについて注意喚起する文書を、公園の位置を示す拡大した住宅地図を付けて周辺世帯に配布した際、本来、地図の個人情報を削除すべきところ、削除せず配布した。 23日午前10時~正午ごろ、市職員が公園周辺の352世帯に配布、2日後の25日、通知文書を受け取った市民から市に、住宅地図に個人情報が記載されている旨の電話があった。 市は26日、地図に個人情報が掲載された公園近隣の86世帯に対し謝罪の文書を配布。さらに周辺の352世帯に対し、23日配布した住宅地図の破棄を依頼する文書を配布したほか、個人情報を削除した住宅地図を改めて配布した。 再発防止策として同課は、個人情報の取り扱いや外部への情報提供の方法について見直しを行い、再発防止に努めますとしている。

大の里の姿を精巧に表現 雲竜型土俵入りなど人形2体を贈呈

横綱昇進祝し 関彰商事 第75代横綱に昇進した大の里を祝し、記念人形の贈呈式が25日、阿見町荒川本郷の二所ノ関部屋で行われ、関彰商事(本社 筑西市・つくば市)の関正樹社長が特別に制作された記念人形2体を大の里に贈った。 人形は、雲竜型の土俵入りをする戦う表情の大の里と、横綱に昇進し着物姿で喜ぶ表情の2体。土俵入りの人形は、高さ36センチ、幅40センチ、奥行き20センチ、着物姿は高さと幅が46センチ、奥行き32センチの大きさで、いずれも大の里の力強く気品あふれる姿を精巧に表現している。 桐の粉で作った胴体に溝を彫り、布の端をきめ込む「江戸木目込人形」の技法を用いて、さいたま市岩槻区の老舗人形店「東玉」の人形師で伝統工芸士の石川佳正さんが製作した。石川さんは「大変名誉な仕事を預かり光栄。制作には、他の仕事をキャンセルして1カ月かかった。陰影を出すように、肌の色などはつるっとしないように工夫した。はかまは京都の西陣織を採用した」などと説明した。 大の里は「素晴らしい作品が出来上がった。大変光栄なことで、感謝とともに、これを励みにさらに精進していきたい」と語った。 関彰商事は、牛久市出身の二所ノ関親方(当時は稀勢の里)が十両だった2004年から、関正夫会長が「稀勢の里郷土後援会」の会長を務めたなど、長年にわたり二所ノ関親方を支援。親方になってからも二所ノ関部屋を支援している。今回の贈呈も、これまでの継続的な後援活動の一環として行われた。 関社長は人形師の石川さんに感謝し、大の里には今後の活躍にエールを送った。(榎田智司)