【コラム・オダギ秀】横瀬夜雨の小貝川堤。悲しみを託して詠(うた)った詩が、その悲しみゆえに世間に称賛され、どんなにもてはやされたとしても、その悲しみが癒やされるわけでは、決してない。下妻市横根。筑波山を仰ぐこの地をぬい、小貝川が流れている。川堤には、草木に覆われて、うずくまるように詩碑がひとつ立っている。
花なる人の恋しとて
月に泣いたは夢なるもの
破れ太鼓は叩けどならぬ
落つる涙を知るや君
「やれだいこ」と題されたこの詩の作者は、横瀬夜雨(よこせやう、1878~1934)といい、茨城の3大詩人のひとりと言われている。
夜雨の家は近在に知られた豪農だったが、彼は、3歳の時、くる病に罹(かか)り、2年遅れて小学校に入学、成績は常に一番であったという。だが4年の時に骨身にしみる屈辱感を味わい、以来登校せず、自宅にこもって読書独学し、詩作を始めた。そんな中、夜雨は、近隣の美少女 琴に思いを寄せたが、彼女は間もなく嫁いでしまった。
叩けど鳴らぬ破れ太鼓
詩碑の「やれだいこ」は、くる病と、進学もできなかった劣等感を負った夜雨が、初恋と失恋の中で月に泣き、自らを、叩けど鳴らぬ破れ太鼓と自嘲した詩なのであった。が、夜雨の悲しみを詠った心とは裏腹に、彼の詩の評価は彼の成長とともに高まった。
夜雨の詩に惹(ひ)かれた文学少女が、夜雨を訪ねて来たことも再三あったという。だが、薄暗い部屋にうずくまる彼の姿を見て、逃げるように帰って行った者も少なくはなかったと伝えられている。
異性へのあこがれと孤独とを胸に抱きながら青春時代を過ごした夜雨は、ちょうど川堤の詩碑のあたりに腰を下ろし、筑波を望むのが常であったらしい。筑波山の朝夕の色の移り変わりを眺めて、心を満たしていたのだろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)