水曜日, 4月 22, 2026
ホーム土浦手がかりは古い新聞記事とわずかな記憶 70年前の父の足跡、ベトナムで追った(上)

手がかりは古い新聞記事とわずかな記憶 70年前の父の足跡、ベトナムで追った(上)

第2次大戦終結後、任地のベトナムで独立戦争に参加した亡父。土浦市の添野江実子さん(64)はその足跡を8年間探し続け、ようやく見つけた。過去の新聞記事と、記憶の断片をつなぎ、仲間に支えられ、たぐり寄せた奇跡とは―。

「本年2月に父の所縁(ゆかり)の地に行って参りました。足跡調査を始めて辿(たど)り着くまでに、8年を要しました」。

8月下旬、スマートフォンでフェイスブック(FB)を眺めていた私は、添野さんの投稿にくぎ付けになった。

軍服姿の綱河忠三郎さん(添野さん提供)

添野さんはベトナムを訪れて、残留兵だった亡父・綱河忠三郎さんの足取りを追う活動を続けている。その様子を描いた40分のドキュメンタリー映画「私の父もそこにいた」の上映会の紹介記事を、私が2019年7月に書いたのがきっかけで知り合った。

ベトナム残留兵は、日本の敗戦後も現地にとどまり、宗主国・フランスに対するベトミン(ベトナム独立同盟)による独立戦争に関わった日本軍兵士らだ。その1人、忠三郎さんは戦後9年たった1954年、祖国の土を踏んだ。復員後は土浦市の引き揚げ者住宅で暮らし、豆腐店の従業員や旋盤工をしながら添野さんを育て、ベトナムでの9年間を娘にほとんど語らぬまま、2002年に世を去った。

添野さんは15年以降、数少ない残留兵や、各地に住むその遺族を訪ねた。ベトナムも訪れ、現地で結婚した残留兵の親族にも会っている。だが、忠三郎さん本人の足取りはつかめない。「生前、詳しく聞いておけば良かったのに…」。4年前、添野さんは後悔を口にしていた。

戦後70年を過ぎ、戦争の語り部は次々に物故している。それはベトナムでも同じだ。そんな状況で無名兵士の足跡をたどるのは難しい。なのに、どうやってたどり着けたのか。9月中旬に再度、お会いして、添野さんに振り返ってもらった。

話は3年前、世界がコロナ禍に直面していた20年秋にさかのぼる。人の往来が制限され、ベトナムへの渡航はおろか、国内での映画の上映会もままならない。少しでも手がかりを得ようと、図書館で古い新聞記事を調べていた。

「あった!」。ある日、静まりかえった図書館で、興奮の余り添野さんは思わず驚きの声を上げた。忠三郎さんの帰国後の様子を伝えた1954年12月5日の記事。兄がいる守谷町(当時)に戻った忠三郎さんが、取材に「バロンという村にいた」と証言していた。

若い頃、忠三郎さんが戦後もベトナムにいた話は、うっすら聞いた。でも、その頃は2人の子を育てるのに精一杯。慌ただしい日々の暮らしに追われるうち、やがて記憶は脳裏の奥深くにしまわれた。

「金(きん)で買ってもらった自転車で集合地点へ向かった」「夜は虎に襲われるから木の上で寝ていた」。脳裏に残るエピソードはこれぐらい。「バロン」という具体的な地名を得て、進展への期待に胸が弾んだ。

だが、すぐに煮詰まる。地図上に肝心の「バロン村」が見あたらない。

「父を助けてくれた村を探しています」。SNSで発信すると、ベトナムの日系企業に勤める男性が教えてくれた。

「『バロン』ではなく、『バンロン』ではないか」。男性がつてをたどって役所に確認すると、確かに、古い地図に「Van Long」(バンロン)という村が存在していた。統合して現在は別の名前に変わっていた。コロナ禍の収束を2年余り待ち続け、今年2月下旬、再びベトナムへ旅だった。(鹿野幹男)

続く

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