つくば市 榎田きよ子さん
記者の母親、つくば市の榎田きよ子は94歳になる。記者は母との会話の中で断片的に「女学生の頃は飛行機を作った」と何度も聞かされていた。母は78年前、土浦高等女学校(土浦高女、現在の土浦二高)に通う女学生だった。その時代をどのように過ごしてきたか、今回改めて戦争体験を詳しく聞いた。
母は旧姓を松本といい、1929年(昭和4)年に九重村(現在のつくば市倉掛)で生まれた。1941(昭和16)年に土浦高女に入学、入学の年に太平洋戦争が始まり、戦火が悪化する時代を駆け抜けていく。
4年生になった1944年、授業が無くなり、学徒勤労動員で飛行機を作る工場に行き働くことになる。工場は土浦市中高津にあった中村鉄工所で、寮に入り勤務した。
学徒動員は全国で行われたが、隣の阿見町に、東洋一の航空基地といわれた霞ケ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊(予科練)があった土浦は特別な地域だったのだろう。母が動員された工場は第一海軍航空廠(一空廠)が管轄した。土浦高女からは母を含め3年生から5年生の485人が配属された。土浦一中の中学生、多賀高専の学生のほか大学生もいた。
1カ月ほど電気ドリルの使い方などの研修を受けた後、実際の飛行機作りを始める。8人がグループになり、工員の指導で鋲(びょう)打ち、穴開けなどをした。まだ15、16歳の少女たちが、飛行機のジェラルミン胴体部分を作った。作られた飛行機は特攻兵器の「桜花(おうか)」で、着陸するための車輪もなく体当たりするための飛行機だった。目的も知らず、言われるがままに作業を続けた。
寮生活は、就寝時に海軍式の点呼をとり、規律ある生活ではあったが、食事がまずくて量も少なかった。布団にはほとんど綿が入っておらず寒かった。土曜日には自宅に帰ることが許された。寮に戻る際、実家の母は娘がひもじい思いをしないようにおにぎりとサツマイモを持たせてくれたが、何日も持たなかった。
工場に行って3カ月経った頃、生理が止まってしまった。あまりの環境の変化に体が付いていかなかったのだという。徹夜の作業を強いられた日もあった。作業中に寝てしまい、担当の教員から「松本、眠いか」と気遣いの言葉を掛けてもらったこともあった。寮生活はつらく苦しい思い出が多かったが、同世代の若い娘が集まっていて、楽しかった瞬間もあったと振り返る。
空襲警報が鳴ると工場近くにある防空壕に入った。中は電球が付いており、読書をすることも出来た。工場で出る弁当は木の箱で出来ていて「コーリャン(キビ)弁当」と言い、おいしいものではなかった。
何カ月か経ち、父兄や教職員が軍に交渉をして自宅から通うことを許された。距離が12キロもあり、帰り道、米軍の機銃掃射に遭遇したこともあった。
1945年2月、通っていた工場が米グラマン機の爆撃を受けた。日本海軍の零戦がグラマン機を追い掛けたが、墜落したのは零戦だった。工場は使用できなくなり、市内の小松地区の山中に移り作業を続けることになった。
3月10日の東京大空襲は、自宅から南の空が真っ赤になっているのが見えた。戦争が激しさを増す中、夜は電気に黒い布をかぶせて明かりがもれないようにした。
終戦の日の8月15日は暑い日だった。工場の生徒たち皆が整列して玉音放送を聞いた。内容は分からなかったが、少尉が刀を振り回して「日本は負けた」と言い、戦争が終わったことを知った。
敗戦の報を受けて、作りかけの飛行機の部品を全部、地中に埋めた。次の日から工場勤務は無くなり、20日間の夏休みになった。
実家にいる兄はつくば市館野の高層気象台に勤務していた。終戦間際に急に出張が多くなり、家族が不思議がっていたが、聞いても教えてくれなかった。戦後しばらく経ってから、風船爆弾の秘密任務のため富士山まで行っていたことを明かした。
9月10日頃、授業が再開され、学校に戻った。実家にあった蔵は当時、軍隊の倉庫として接収され、海軍の布団や毛布、鮭の缶詰がたくさん入っていた。母は、どうしてもそれが食べたくてしょうがなかったが、回収に来て食べられなかったと話す。
戦後も厳しい時代が続いた。履物がなくて学校の先生もげたをはいていた。コメは一定量を政府が徴集する供出制が続き、金を持っていても、ものがなかった。
ひもじい時代がしばらく続いたが、土浦高女を卒業後は、焼野原の新宿にあった文化服装学院に通った。22歳の時、シベリア抑留から帰って間もない父と結婚。現在、田井村臼井(現在のつくば市臼井)に住む。
母はテレビで戦争の映像が流れるたびに「目を覆いたくなる」と言い、「良い戦争なんて絶対にない。どんな理由があろうとも戦争は反対」と言う。
60歳過ぎに俳句を始めて30年経ったころから、戦争の句を作るようになった。
十二月八日は小学六年生(開戦記念日)
八月の胸の奥処の十五日
桜花てふヒコーキありぬ敗戦忌
(榎田智司)
終わり