月曜日, 10月 6, 2025
ホームつくば女学生の頃は飛行機を作った【語り継ぐ 戦後78年】4

女学生の頃は飛行機を作った【語り継ぐ 戦後78年】4

つくば市 榎田きよ子さん

記者の母親、つくば市の榎田きよ子は94歳になる。記者は母との会話の中で断片的に「女学生の頃は飛行機を作った」と何度も聞かされていた。母は78年前、土浦高等女学校(土浦高女、現在の土浦二高)に通う女学生だった。その時代をどのように過ごしてきたか、今回改めて戦争体験を詳しく聞いた。

母は旧姓を松本といい、1929年(昭和4)年に九重村(現在のつくば市倉掛)で生まれた。1941(昭和16)年に土浦高女に入学、入学の年に太平洋戦争が始まり、戦火が悪化する時代を駆け抜けていく。

4年生になった1944年、授業が無くなり、学徒勤労動員で飛行機を作る工場に行き働くことになる。工場は土浦市中高津にあった中村鉄工所で、寮に入り勤務した。

学徒動員は全国で行われたが、隣の阿見町に、東洋一の航空基地といわれた霞ケ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊(予科練)があった土浦は特別な地域だったのだろう。母が動員された工場は第一海軍航空廠(一空廠)が管轄した。土浦高女からは母を含め3年生から5年生の485人が配属された。土浦一中の中学生、多賀高専の学生のほか大学生もいた。

1カ月ほど電気ドリルの使い方などの研修を受けた後、実際の飛行機作りを始める。8人がグループになり、工員の指導で鋲(びょう)打ち、穴開けなどをした。まだ15、16歳の少女たちが、飛行機のジェラルミン胴体部分を作った。作られた飛行機は特攻兵器の「桜花(おうか)」で、着陸するための車輪もなく体当たりするための飛行機だった。目的も知らず、言われるがままに作業を続けた。

寮生活は、就寝時に海軍式の点呼をとり、規律ある生活ではあったが、食事がまずくて量も少なかった。布団にはほとんど綿が入っておらず寒かった。土曜日には自宅に帰ることが許された。寮に戻る際、実家の母は娘がひもじい思いをしないようにおにぎりとサツマイモを持たせてくれたが、何日も持たなかった。

工場に行って3カ月経った頃、生理が止まってしまった。あまりの環境の変化に体が付いていかなかったのだという。徹夜の作業を強いられた日もあった。作業中に寝てしまい、担当の教員から「松本、眠いか」と気遣いの言葉を掛けてもらったこともあった。寮生活はつらく苦しい思い出が多かったが、同世代の若い娘が集まっていて、楽しかった瞬間もあったと振り返る。

学徒動員で工場に集まった土浦高等女学校の生徒ら

空襲警報が鳴ると工場近くにある防空壕に入った。中は電球が付いており、読書をすることも出来た。工場で出る弁当は木の箱で出来ていて「コーリャン(キビ)弁当」と言い、おいしいものではなかった。

何カ月か経ち、父兄や教職員が軍に交渉をして自宅から通うことを許された。距離が12キロもあり、帰り道、米軍の機銃掃射に遭遇したこともあった。

1945年2月、通っていた工場が米グラマン機の爆撃を受けた。日本海軍の零戦がグラマン機を追い掛けたが、墜落したのは零戦だった。工場は使用できなくなり、市内の小松地区の山中に移り作業を続けることになった。

3月10日の東京大空襲は、自宅から南の空が真っ赤になっているのが見えた。戦争が激しさを増す中、夜は電気に黒い布をかぶせて明かりがもれないようにした。

終戦の日の8月15日は暑い日だった。工場の生徒たち皆が整列して玉音放送を聞いた。内容は分からなかったが、少尉が刀を振り回して「日本は負けた」と言い、戦争が終わったことを知った。

敗戦の報を受けて、作りかけの飛行機の部品を全部、地中に埋めた。次の日から工場勤務は無くなり、20日間の夏休みになった。

実家にいる兄はつくば市館野の高層気象台に勤務していた。終戦間際に急に出張が多くなり、家族が不思議がっていたが、聞いても教えてくれなかった。戦後しばらく経ってから、風船爆弾の秘密任務のため富士山まで行っていたことを明かした。

9月10日頃、授業が再開され、学校に戻った。実家にあった蔵は当時、軍隊の倉庫として接収され、海軍の布団や毛布、鮭の缶詰がたくさん入っていた。母は、どうしてもそれが食べたくてしょうがなかったが、回収に来て食べられなかったと話す。

戦後も厳しい時代が続いた。履物がなくて学校の先生もげたをはいていた。コメは一定量を政府が徴集する供出制が続き、金を持っていても、ものがなかった。

ひもじい時代がしばらく続いたが、土浦高女を卒業後は、焼野原の新宿にあった文化服装学院に通った。22歳の時、シベリア抑留から帰って間もない父と結婚。現在、田井村臼井(現在のつくば市臼井)に住む。

母はテレビで戦争の映像が流れるたびに「目を覆いたくなる」と言い、「良い戦争なんて絶対にない。どんな理由があろうとも戦争は反対」と言う。

60歳過ぎに俳句を始めて30年経ったころから、戦争の句を作るようになった。

十二月八日は小学六年生(開戦記念日)

八月の胸の奥処の十五日

桜花てふヒコーキありぬ敗戦忌

(榎田智司)

終わり

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

9 コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

9 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

県詩人協会理事長 柴原利継さん《ふるほんや見聞記》9

【コラム・岡田富朗】茨城県詩人協会は2005年に創立され、会長の鈴木満さん(故人)、理事長の武子和幸さん、名誉会員の星野徹さん(故人)、瀬谷耕作さん(故人)、新川和江さん(故人)、粕谷栄市さん、山本十四尾さんと、会員130名での船出、今年7月で20周年を迎えました。現会長は髙山利三郎さんが務めており、会員数は約90名です。 現理事長の柴原利継さんが詩と出会ったのは、中学3年生のとき。詩人の大島邦行さんが桜中学校に赴任してきたことがきっかけでした。大島さんは水戸市出身で、星野さんの愛弟子。詩誌「白亜紀」の同人でもあり、日本現代詩人会、茨城県詩人協会の会員。詩集『海または音叉』(1979年、国文社)の著者でもあります。 柴原さんは2007年、塚本敏雄さん、福田恒昭さんと共に詩誌「GATE」を創刊。現在も発行しており、柴原さんの詩を読むことができます。同誌では毎号発刊時に読書会を開き、テーマを設けた競作を行っています。また、原稿段階での合評やゲストの招待、持ち回りによるエッセイの執筆なども柱としています。 塚本さんは、日本現代詩人会の前理事長であり、柴原さんとは幼稚園からの旧知の仲。共に大島さんに出会い、詩の世界へと導かれました。高校時代には、大島さん、塚本さんと3人で同人誌を発行していました。 元気をもらえるのは谷川俊太郎の詩 柴原さんは「詩が完成した時もうれしいが、詩を作る中でいろいろなことを考える時間が、何よりも貴重」だそうです。特に好きな詩人はとの質問には、「若い頃は、ちょっと斜に構えて世の中を見ていたので、渋沢孝輔さんのブラックユーモアに面白さを感じていました。でも、読んでいて元気や勇気をもらえるのは、やはり谷川俊太郎さんの詩ですね。『さすが』と思える詩がたくさんあります」と話してくれました。 さらに「谷川俊太郎の詩集の中で、1冊を挙げるなら」と聞くと、「やはり第一詩集『二十億光年の孤独』(1952年、創元社)ですね」と教えてくれました。 谷川俊太郎は2024年11月13日、92歳で逝去されました。1952年の『二十億光年の孤独』刊行以来、絵本を含めて何百冊もの著作を世に送り出してきました。25年6月6日には、朝日新聞連載の「どこからか言葉が」をまとめた詩集『今日は昨日のつづき どこからか言葉が』が出版されました。 この詩集には、谷川俊太郎が最後に残した「感謝」を含む47篇の詩が収録されています。「感謝」は逝去から4日後の朝日新聞に掲載されました。(ブックセンター・キャンパス店主)

現地の暮らしに密着し海外を撮影旅行 土浦の石川多依子さん「一期一会」展 

7日から 市民ギャラリー 土浦市在住の写真家、石川多依子さんが、海外で出会った人々や印象を組み写真で表現した写真展「一期一会」展が7日から土浦市民ギャラリー(同市大和町)で開催される。これまで2回、土浦の街中を散策し出会った人々や街の変遷を撮影したモノクロ写真展を開催してきた(22年9月14日付、24年9月30日付)。今回は、2000年から18年までの間に海外で撮影した写真を展示する。タイ北部の山岳地帯に住むモン族やリス族、中国新疆ウイグル自治区など現地の人々の暮らしに密着した57点を展示する。そのうち29枚はフイルムカメラで撮影しデジタル化した。 きれいな風景ではなく人間味のあるところ 石川さんは1945年水戸生まれ。中学生のときに父親から写真を教わって以来、子育て期間を除いて撮影を続けている。海外で撮影するきっかけになったのは、父親が亡くなり癒しのために1999年に出掛けた友人との海外旅行だ。なんとなく良さそうと、タイに行ったところ、山岳地帯に住むリス族やラフ族、アカ族などの民族衣装の美しさに魅了されてしまった。以来、チェンライ市の子どもの教育を支援する里子プロジェクトに参加しながら、撮影の旅を続けた。 趣味のパッチワークも海外での人々の暮らしを撮影する機会になった。2002年にメキシコのグアナファート大学に招待されパッチワークの個展を開催した。その際は、グアナファートの町を歩き撮影した。その後もタイ北部のカレン族、中国新疆ウイグル自治区、エジプトなどに積極的に撮影旅行に出掛けた。 2016年には、リス族の写真を見た水戸在住の文化人類学者に「水も電気もない暮らしをしている人がいるエチオピアに行ってみないか」と声を掛けられ、「二つ返事で行った」と石川さん。「みんなが撮影する美しいところや有名なところではなく、人々の生活や人間味のあるところを撮りたい」と石川さんはいう。そのため、より地元の人と触れ合える安いホテルに泊まったり、少数民族の住居に滞在したりする。 タイ北部の首長族が住む山岳地域は水が豊富だ。井戸端で水をたっぷり使いながら髪を洗う女性の姿と横にたたずむ少女の対比が印象的で撮影した。幼い頃から首に巻いた真鍮のリングは、一生外すことができないそうだ。 ベトナムに住む華僑の女性が、街角で美容サロンを開いていたところを撮影。屋根もない店舗だが、マニキュアを施術されている女性は顔にパック剤をつけて満足気に微笑んでいた。女性のたくましさに感心したという。 家畜であるラクダに荷物を乗せる、エチオピアのサバンナにあるボラナ村の人々を撮影した。村には井戸などがなく水がないため、1日の水分は朝のラクダの乳で作ったミルクティー2杯のみだった。数日間、わらぶき屋根でできた村人の家に滞在したが、子ヒツジや子ヤギも一緒に寝る環境でダニに悩まされたそうだ。 今回の写真展は、撮影した年代順に12のテーマに分け、組み写真で展示する。2000年は「山の子供」と題してタイ山岳地帯のモン族の写真を紹介、01年は「街角」のタイトルで中国雲南省の麗江(れいこう)ナシ族の写真などを展示する。 海外で撮影した写真を地元土浦で展示するのは初めて。石川さんは「これまで都内や大阪、水戸で展示会をしてきた。今回は土浦の人にも遠い国の人々の暮らしを見てもらいたい。何かを感じ取っていただけたら」と来場を呼び掛ける。(伊藤悦子)。 ◆石川多依子写真展「一期一会」は7日(火)から13日(月・祝)まで、土浦市大和町1-1アルカス土浦1階 土浦市民ギャラリーで開催。入場無料。開館時間は午前10時~午後5時(初日は午後1時から、最終日は午後4時まで)。問い合わせは電話029-846-2950(同ギャラリー事務室)

茨城の大学に金融学部を設立せよ《地方創生を考える》32

【コラム・中尾隆友】外資系金融機関は近年、東京大学や東京科学大学の学生の就職先として非常に人気がある。国内の大手企業と比べて、将来にわたって高額な報酬を得られる可能性が高いからだ。特に投資部門で成功すれば、桁違いの報酬を稼げることは周知の事実だ。しかし、日本で投資関連のスキルを持った人材は少ない。 講師は投資実績がある人を そこで私は、茨城大学や筑波大学で金融学部や金融学科を設立することが地方創生の起爆剤になると考えている(コラム25参照)。投資で真に求められるのは、幅広い分野の知識を持った上で、多種多様な局面で柔軟に対応できるような人材だ。 日本でも金融学科がある大学が複数あるものの、そういった人材が育てられているのかはなはだ疑問だ。歴史を振り返っても、生粋の学者は投資の分野に向いていないからだ。有為な人材を育てるためには、非常勤でもよいので外部から優秀な講師陣を揃えなければならない。当然ながら優秀な講師陣とは「投資で常に実績を残している人たち」のことだ。 投資という複雑怪奇な世界と対峙(たいじ)するためには、実践的な考え方や対応の仕方を学ぶ必要がある。後付けの解釈が得意な証券会社やシンクタンクのエコノミストは必要ないわけだ。実績を残し続けている講師陣をそろえれば(実は意外に簡単に集められる)、優秀な学生が全国から集まるのは間違いない。その帰結として、有為な人材を多数輩出することも可能になるだろう。 地方を拠点にするバフェット それが実現できるか否かは、自治体の首長の才覚にかかっている。凡庸な首長ではとても決断できない発想だからだ。 地方創生の観点から、外資系金融機関の拠点を大学の近くに置く一方で大学が人材を供給するという協定を、複数の金融機関と結ぶという案はいかがだろうか。金融の中心地は東京である必要がない。世界一の投資家といわれるウォーレン・バフェットが大成功を収めた理由のひとつに、米国の地方都市オマハ(ネブラスカ州)に住んでいるメリットが挙げられるからだ。 金融の中心地であるウォール街では投機的な情報が氾濫しており、長期的に成長する分野や企業を見分けるには雑音が多すぎる。むしろ、地方都市のほうが適しているのかもしれない。投資に関するスキルは、起業や経営で成功するためにも、地方を発展させるためにも、必要不可欠な要素だ。投資の力を生かす取り組みを、自治体と大学が一体となって進めることを期待したい。(経営アドバイザー)

推測と事実の違いが… 《続・気軽にSOS》165

【コラム・浅井和幸】会社の業績が悪くボーナスが支給されないため、ボーナスを当てにして組んだローンが払えないとアタフタする。相手がとても喜んでくれると思ってプレゼントしたのに、思ったより喜んでもらえなかった。計画していたよりも仕事が進まず、やる気も出ない。 これらのように、自分の予想や計画よりも物事が順調に進まず、嫌な思いをすることはよくあることだと思います。自分が推測するほど物事がよい結果を生まないとき、あなたはどのように考えるでしょうか? 行動できるでしょうか? ローンを払えない自分は悪くないと会社のせいにしたり、プレゼントを喜ばない友人の性格を疑ったり、たまたまかかってきた電話のせいにしたりと、他責思考になるでしょうか? それとも、自分は何て能力のない奴だと、自責の念に駆られるでしょうか? 他責でも自責でも、その瞬間や過去に対して評価をしている状況です。うまくいかないことは、何か悪い原因があるのかと考えるのは、間違いではないかもしれませんが、そこにとどまるだけでは何も解決に向かいません。 解決をするには、解決をするための要素を集める必要があります。仕事が終わらないことを自分や他人のせいにしてネガティブな気持ちに浸っていても、仕事が終わるわけではありません。普段からやる気のスイッチが簡単に見つけられる人でない限り、そのスイッチを探し回っても時間がたつばかりです。 悪い出来事の責任論を続けていても、何かを達成するところへ近づくことはありません。それよりも、実際にどのように仕事を進めるかを考え、実行することの方が優先事項となるでしょう。 いくつかの可能性への対策を用意 人は推測したことが実際に起こらないと、パニックになります。そのパニック状態を起こして、どのような対策をとるかで人物の優秀性を測るテストもあるようです。 優秀な人間はパニックになる状況でも最善策を実行できると言われても、そう簡単に優秀な人間にはなれません。推測を一つに絞らずに、三つぐらいは考える癖をつけましょう。物事が順調にいく未来もあるし、うまくいかないこともあるかもしれない、さらに全く予想もしない別の現実が待っているかもしれない―と考える習慣があれば、いくつかの可能性への対策や心構えを持つことができるでしょう。 いつもうまくいく未来しか思い描けない人の特徴は、傲慢(ごうまん)な振る舞いに現れます。他人への批判ばかりが先行する。自分は完璧な人間であると思い込んで、敵を多く作ってしまう。もしかしたら、傲慢でいなければいけないほど、何かしらのコンプレックスを隠し持っている。コンプレックスを見ないふりをしていないと、不安で不安で仕方がないのかもしれませんね。(精神保健福祉士)