コロナ禍による丸3年の行動制限は、各地の町内会・自治会で行われていた夏祭りにも大きなダメージを残した。7月中下旬、つくば・土浦地域でも盛んに行われる八坂神社の祭礼「祇園祭」。みこしや山車、獅子舞が繰り出して、おはやしの音が各地に本格的な夏の到来を告げるが、15日開催の小田の祇園祭では、メーンイベントの大獅子の練り歩きを今年も見送らざるを得なかった。この大獅子には何かと故事来歴がある。
7月の第3土曜に開催される「小田祇園祭」。江戸時代の貞享四年(1687)に始まったという祭りで、戦後の一時休止期間を経て、50年ほど前に復活した。本町3つ、今宿2つの5組が持ち回りで当番組(トウメ)となり祭りを仕切る。日中から太鼓を鳴らしながら門付けをして回る行事から始まり、夕刻には子供たちのみこしや山車、獅子舞が通りを練り歩く。
例年ならこの後、田向延寿院から大獅子が繰り出して、竹ざおで獅子頭を高く掲げて練り歩くご神行(じんこう)となる。長さ約8メートルの獅子幕を引く巨大獅子頭。小田大獅子保存会が組織され、独特の太鼓や三三七拍子のリズムを聞かせる。当番組は毎年川で藻を採集し、乾かして大獅子のたて髪を結う一方、門付けに持参して家々の魔除(よ)けとして配っている。
メーンイベントは、通りで待ち構えるみこしと獅子が対峙(じ)して、それぞれが高さを競うように角突き合わせる「顔合わせ」という場面を迎える。祭神のスサノオノミコトとヤマタノオロチの戦いを模して、押しては引いての衝突を5度繰り返す。近在の祇園祭には見られないスタイルで、筑波大学の研究者や学生が現地調査に訪れたこともある。
コロナ禍の3年間、「顔合わせ」は中止され、大獅子は奉納場所である延寿院を出ることがなかった。今年の当番は「顔合わせ」の復活を模索したが、担い手の減少と高齢化は予想以上。交代要員を含めれば50人以上を揃えなければならない。「一度休んでしまうと元に戻すのは容易ではない」という。今回は子供会のみこしと獅子との「顔合わせ」で代替した。
奉納したのは長島尉信
「来年こそは完全復活」との意気込みもあるが、人材不足解消に見通しがあるわけではない。街歩きのガイドを務める常陸小田城親衛隊(川村兵庫代表)は、歴史的な初心に戻ることを提案する。
大獅子を奉納した幕末の農政学者、長島尉信(やすのぶ、1781~1867)にスポットを当てる。尉信は20歳の時、旧小田村の名主だった長島家の養子となり、45歳で隠居し、天文、暦学、測量などを学んだ。測量術を生かして土浦の修復などにも取り組んだ。土浦では、色川三中、佐久良東雄らとの交友があった。慶応元年(1865)に土浦藩を退き、小田村へ戻っている。この時これまでの志願成就を謝して、田向延寿院に「獅子頭」を奉納した。
尉信は慶応三年(1867)7月16日没し、延寿院境内の墓地に眠る。「ひとらしき我にあらねどひとまねにまことひとつを置き土産かな」と詠んでいる。
今回の祭りで「顔合わせ」できない「獅子頭」を延寿院から引っ張り出し、メーン会場である筑波山麓小田駐車場に飾ってもらった。実は同駐車場こそ、代々名主を務めた長島家の土地だった。2012年、「長島家跡地」として約4000平方メートルがつくば市に寄贈され、91台収容の無料駐車場として、小田の街歩きや宝篋山の登山客に利用されている。
親衛隊によれば「小田では八田知家(鎌倉幕府有力御家人、小田氏の始祖)や小田氏治(小田氏15代にして最後の当主)のように名の知られる人物もいるが、長島尉信は地元でもほとんど知られておらず残念。なんとかアピールの機会を作って訴えていきたい」と蒸し暑さ募る祭り会場を歩き回っていた。(相澤冬樹)