【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。
また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。
郷土史をめぐる主な論争は3点
私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。
いつから山の荘と呼ばれたか
▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。
▼博物館:『新編常陸国史』では「山の荘」が古代にさかのぼる名称とは述べられていない。「山の荘」の名称が史料に初出するのは『常陸国富有人注文』(室町時代の文書)であり、古い時代からの名称であることを裏付ける史料はない。
山の荘は方穂荘の一部なのか
▼本堂氏:博物館は「山の荘」の地が「方穂荘(かたほのしょう)」(つくば市の北部を流れる桜川の南側を中心とした地域)に含まれていたと解釈しており、「山の荘」の名称を歴史上から抹消した。
▼博物館:「方穂荘」が桜川の北側地域(旧新治村など)を包むと解釈するのは妥当であり、『承鎮法親王附属状』(鎌倉時代の文書)の記載でも、「山の荘」にある東城寺の周辺は「方穂荘」と呼ばれていた。
東城寺があった場所はどこか
▼本堂氏:博物館は「東盛寺」が桜川の南側を中心部とする方穂荘にあったと解釈しているが、方穂荘の中心部にあった「東盛寺」は山の荘の「東城寺」とは別の寺である。
▼博物館:近年発見された史料から、中世の文書に見られる「東盛寺」が「東城寺」を指すのは間違いない。「東城寺」は歴史上1カ所だったと考えている。
学術を市民につなぐ使命を放棄?
論争で注目されるのは、本堂氏が口伝(くでん=言い伝え)や『新編常陸国史』を使って自説を展開しているのに対し、博物館はより古い文書を多用していることです。また博物館は、故網野善彦氏(中世史の権威、元名古屋大教授)の史観や学説に多くを依拠しています。
こういった論争を踏まえ、博物館は1月30日付の回答書で「…『口伝』をもってしては、第三者がこれを再検証することは困難です。口碑伝説、口頭伝承は、歴史研究にとって大切な資料のひとつですが、資料としての取り扱いは難しく、それを根拠にすることについては、博物館は慎重に考えています」と述べています。
中世史学者の糸賀館長(プロ)と郷土史研究者の本堂氏(セミプロ)ではレベルが違うということでしょうか。口伝も含め多様な説を集め、それらを公開しながら議論し、市民に郷土史への関心を持ってもらう―これが市立博物館のミッション(使命)のはずです。それなのに学術研究の城郭のように運営するのはいかがなものでしょうか。
学術を市民につなぐのが仕事の博物館が市民の参加を拒むことは、その使命の放棄ではないでしょうか。郷土史に関する見方が2つあっても何も困らないし、むしろその方が楽しいのではないでしょうか。(経済ジャーナリスト)