水曜日, 11月 12, 2025
ホームコラム博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。

また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。

郷土史をめぐる主な論争は3

私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。

いつから山の荘と呼ばれたか

▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。

▼博物館:『新編常陸国史』では「山の荘」が古代にさかのぼる名称とは述べられていない。「山の荘」の名称が史料に初出するのは『常陸国富有人注文』(室町時代の文書)であり、古い時代からの名称であることを裏付ける史料はない。

山の荘は方穂荘の一部なのか

▼本堂氏:博物館は「山の荘」の地が「方穂荘(かたほのしょう)」(つくば市の北部を流れる桜川の南側を中心とした地域)に含まれていたと解釈しており、「山の荘」の名称を歴史上から抹消した。

▼博物館:「方穂荘」が桜川の北側地域(旧新治村など)を包むと解釈するのは妥当であり、『承鎮法親王附属状』(鎌倉時代の文書)の記載でも、「山の荘」にある東城寺の周辺は「方穂荘」と呼ばれていた。

東城寺があった場所はどこか

▼本堂氏:博物館は「東盛寺」が桜川の南側を中心部とする方穂荘にあったと解釈しているが、方穂荘の中心部にあった「東盛寺」は山の荘の「東城寺」とは別の寺である。

▼博物館:近年発見された史料から、中世の文書に見られる「東盛寺」が「東城寺」を指すのは間違いない。「東城寺」は歴史上1カ所だったと考えている。

学術を市民につなぐ使命を放棄?

論争で注目されるのは、本堂氏が口伝(くでん=言い伝え)や『新編常陸国史』を使って自説を展開しているのに対し、博物館はより古い文書を多用していることです。また博物館は、故網野善彦氏(中世史の権威、元名古屋大教授)の史観や学説に多くを依拠しています。

こういった論争を踏まえ、博物館は1月30日付の回答書で「…『口伝』をもってしては、第三者がこれを再検証することは困難です。口碑伝説、口頭伝承は、歴史研究にとって大切な資料のひとつですが、資料としての取り扱いは難しく、それを根拠にすることについては、博物館は慎重に考えています」と述べています。

中世史学者の糸賀館長(プロ)と郷土史研究者の本堂氏(セミプロ)ではレベルが違うということでしょうか。口伝も含め多様な説を集め、それらを公開しながら議論し、市民に郷土史への関心を持ってもらう―これが市立博物館のミッション(使命)のはずです。それなのに学術研究の城郭のように運営するのはいかがなものでしょうか。

学術を市民につなぐのが仕事の博物館が市民の参加を拒むことは、その使命の放棄ではないでしょうか。郷土史に関する見方が2つあっても何も困らないし、むしろその方が楽しいのではないでしょうか。(経済ジャーナリスト)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

54 コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

54 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

暑かった今年の夏、原発事故の夢を見た《ハチドリ暮らし》55

【コラム・山口京子】今年の夏、重苦しい夢を見ました。SFの世界が現実になるのかと…。どこかの原子力発電所で事故が起き、放射性物質が大量に空中に放出されました。メルトダウンしたのでしょうか。風の向きによりますが、私の暮らすところにも避難勧告が出ました。過酷な事故が起きれば、原発から数キロだろうが数百キロだろうが誤差でしかなく、結局は地球全体が汚染されることになり、どこにも逃げ場はないのです。 東京電力福島第1原子力発電所の事故を経験したわけですから、東電は「とんでもない事故が起きてしまいました。取り返しのつかないことです。ですので、原子力発電事業から撤退します」と言うのかと思ったら、逆の方向に進んでいます。 何事でもきちんと知った上でないと、意見も的外れやピンボケになります。なので、ジャーナリスト、原子力や地震の専門家、弁護士、知識人などの本を読みました。原発の差止訴訟が全国で起きていること、「原子力市民委員会」「脱原発弁護団全国連絡会」「ノーモア原発公害市民連絡会」などの活動も知りました。 元裁判官による「原発入門」 心して読んだのが、「原発を止めた裁判官による保守のための原発入門」(樋口英明著、岩波書店)です。多くの人が原発を容認してしまっているのは、福島原発事故の実態と原発の本質を知らされていないからだ、と著者は指摘します。 報道されない原発トラブルが多数ある、被害の大きさを多くの国民は知らない、原発は水や電気が失われればコントロールできなくなる、事故後は通常管理されている原発とは異なる状況にあり今も危険な状態が続いている―などと、警鐘を鳴らしています。 原発の本質の一つは、人が管理しないと暴走するため、人による安全三原則「止める」「冷やす」「閉じ込める」が不可欠です。もう一つは、暴走した場合の被害は甚大であるため、福島第1原発の吉田所長、原子力委員会の近藤委員長、菅首相たちは「東日本壊滅」を覚悟した―とも。 樋口氏は自著の後半で、原発の五重苦として①人の継続的な管理を要する②地震大国であるにも関わらず耐震性が低い③原発を管理するのに必要不可欠な発想がない④技術力がない⑤倫理観がない―ことを挙げています。そして、原発差止め訴訟を担当しながら裁判官が原発の危険性を知らないことは罪が重い、と。 原発問題は国防問題? さらに、原発を止めるべき理由として、①原発の過酷事故のもたらす被害は極めて甚大である②それゆえに原発には高度の安全性が要求される③地震大国日本においては高度な耐震性が要求される④しかし日本の原発の耐震性を正当化できる科学的根拠がない⑤したがって原発運転は許されない―と。 原発問題はエネルギー問題でも環境問題でもあるが、その本質は国防問題だとも述べています。(消費生活アドバイザー)

給食にカメムシとアブラムシ混入 つくば市 4小中学校

つくば市は11日、市内の小中学校4校で同日提供された学校給食18食以上に、カメムシとアブラムシが混入していたと発表した。同日午後6時時点で児童生徒に体調不良などは確認されていないという。 同市教育局健康教育課によると、虫の混入が分かったのは小学校3校と中学校1校の計7学級で18人以上に提供された給食。学校別では、吾妻小の3学級で3人、栗原小の2学級で10人以上、九重小の1学級で4人、桜中の1学級で1人に提供された給食にそれぞれ虫が混入しているのを児童生徒、教職員が発見した。 ほうれん草を使った献立「ほうれんそうとくらげのあえもの」の中に体長1.3センチほどのカメムシ、小松菜を使った「ひらひらわんたんスープ」に体長1ミリほどのアブラムシがそれぞれ混入していた。 いずれも市桜学校給食センター(同市天王台)が同日、調理し、幼稚園2園、小学校5校、中学校2校に計3192食提供された給食の一部で、ほうれん草と小松菜は、いずれも市内で栽培された有機野菜だった。 同課によると、給食センターでの野菜の洗浄方法は、水が流れている3槽のシンクでそれぞれ3回洗浄することになっている。同給食センターではこの日、ほうれん草と小松菜に虫が混入していることに気付き、所長から調理委託業者に、徹底して洗浄するよう指示があった。調理員は、流水の3槽のシンクでそれぞれ3回洗浄したが、すべての虫を取り除くことが出来なかったという。 同日12時45分ごろ、吾妻小から給食センターに連絡があり、その後、他の小中学校から次々に連額があった。各学校で給食を停止するよう周知したが、一部のクラスを除いてすでに食べた後だったという。 市は同日、虫の混入が判明した4校の保護者にお詫びの通知を出した。 今後の対応策として同課は、給食センターで野菜を洗浄する際は目視による確認をさらに徹底するほか、洗浄回数を増やすことも検討したいとしている。

「置き薬」と「置き絵」《続・平熱日記》186

【コラム・斉藤裕之】9月の終わり、長野県千曲のギャラリー「art cocoon みらい」を訪ねた。紅葉にはまだ早いどころか、まだ夏の名残のある今年の信州。 目的の一つはギャラリーに置いてあった作品を引き取り、新たに作品を置かせてもらうこと。季節柄、クリスマスに向けての作品も所望されたが、特にクリスマスに向けた絵を好んで描いているわけでもないので、冬っぽいのを見繕って持って行った。 「なんだか富山の『置き薬』ならぬ『置き絵画』みたいですねえ。置き薬のように使った分だけ補充方式。昔は『風呂敷画商』なんていうのもありましたねえ」。ギャラリーのかおりさんとの会話がはずむ。いいのを選んでもらおうかと思っていたが、とりあえず全部置いていくことにした。まあ、物が小さいから邪魔にもならないだろうから。 ギャラリーでは、若い女性の作家がヨーロッパを旅してしたためたスケッチを展示していた。というと優雅な旅を想像することもできるが、彼女は例えば冬のスペイン北部、サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指して巡礼の旅をしてきたという。日本でいえば、四国のお遍路さんみたいなものかもしれないが、うら若き日本人の女性がそう簡単に歩けるものではないはずだ。 ギャラリーには、足取りを記した地図や水彩絵具、巡礼者のあかしとして実際に身に着けて歩いたホタテ貝(聖ヤコブのシンボルだとか。そういえば仏語でホタテ貝のことを「サン・ジャック」というなあ)も展示されていた。それから、南仏、イギリス、スウェーデン、フィンランドと彼女の旅は続く。 私はその旅の軌跡にちょっとした偶然を感じていた。実はおよそ30年前、ほぼ同じような場所を訪ねていたからだ。次女がお腹にいたころ、ベビーカーを押して妻と長女と訪ねたのはスペインと南仏。それから、スウェーデンの画家の友人を訪ねて旅をしたストックホルム、ヘルシンキ。私の場合は彼女と違って呑気(のんき)な旅だったが…。 ただ、これも偶然といえばそれまでだけど、私は少し前から何となく気になっていたロマネスクの教会を紙粘土で作って描くようになっていた。それから以前から教会の窓やステンドグラスの絵も好んで描いていたので、彼女のスケッチに登場する風景やモチーフをごく自然に受け入れることができた。若いのに、ちゃんと絵に向き合っていてえらいな…。 「こんにちは! 置き絵で~す」 幼いころ、我が家にも置き薬はあった。お腹が痛いとき、風邪を引いたときに飲まされた薬は、テレビのコマーシャルで聞く名前とは微妙に違っていて、効能に半信半疑だった(もちろん効いたと思う)。しかし、置き薬方式に絵を置いてもらうのも悪くないと思えてきた。それ、ネットでいいんじゃない? いや、年に一度、「こんにちは! 置き絵画で~す」と訪れるのがいいじゃないか。 次に千曲を訪れるのは杏の花が散った後か。ギャラリーの目の前にある神社には真っ赤な彼岸花が咲いていた。(画家)

那珂市で「サツマイモの神様 白土松吉展」《邑から日本を見る》188

【コラム・先﨑千尋】那珂市歴史民俗資料館で企画展「サツマイモの神様 白土松吉展」が開かれている(11月30日まで)。茨城県内で「サツマイモの神様」と呼ばれてきた白土松吉(以下松吉)が戦前に活動していた那珂市から名誉市民の称号が贈られたことは、コラム179「サツマイモの神様白土松吉が名誉市民に」でお伝えした。 同資料館が今回、松吉展を企画したのは、戦前、県内でサツマイモ増産や灌漑(かんがい)事業などで活躍した松吉のことが市内だけでなく農業関係者からも忘れられており、名誉市民になったことを契機に、埋もれていた松吉の業績を顕彰し、多くの人に知ってもらおうという趣旨からだ。 展示は、松吉の生い立ちから亡くなるまでの一生を軸に、「松吉とサツマイモ」「甘藷(かんしょ)農法の発明」「白土甘藷研究所の設立」「小場江堰(おばえぜき)の改修」などから構成されており、年表やサツマイモの模型、増収法の具体的資料、統計、受賞した黄綬褒章、生家やサツマイモの収穫作業姿、墓地、祭られている「ほしいも神社」の写真などから成る。 松吉は那珂郡農会技手としての業務をこなす中、サツマイモの千貫(3750キロ)取りに挑戦し、夏はサツマイモ畑に寝るなど寝食を忘れて研究を重ね、約30年かけて、とうとう千貫取りの技術を確立した。当時のサツマイモの反収は300キロ程度だったから、松吉は周りから「ほらふき松っつあん」と呼ばれていた。 現在の農林統計でも2024年の全国平均の反収は2500キロ(600貫)だから、松吉の技術はすばらしいものだった。白土式甘藷栽培法とは、保温によるイモの苗床の考案。良い苗を作る(長さ1尺以上、12節以上)。肥料は植える前に施肥。高畝(うね)。苗のブランコ植えなど。 茨城の干し芋産出額は100億円 会場では、松吉の普段着(農作業姿)の写真に合わせて、その人となりが紹介されている。「頭脳明晰(めいせき)。深いサツマイモ愛。真っ黒な手。お酒が大好き。歯は一本もなし。大臣でも知事でも君づけ(忖度なし)。若者より体力あり。おしゃれに無頓着。いつも裸足(はだし)」など。 企画展を担当した同館の玉井千尋さんは「調べていくと、松吉は地味で偉ぶらない、人間味がある身近な人だと思った。いもづる式にいろいろなことが分かった。松吉は自分の時間すべてをサツマイモに費やした。干し芋みたいにかめばかむほど味が出てきて、うまみが分かってくる。この展示を多くの人に見てもらいたい」と語っている。 私はこの企画展に合わせて、11月9日午前10時から同市瓜連の総合センターラポールで「白土松吉の業績とサツマイモ干し芋のこれから」というタイトルで講演を行った。 今、焼き芋や干し芋は、健康食、自然食ブームの人気者となっている。焼き芋はスーパーやドラッグストアなどでも販売しており、大会や博覧会などが各地で開かれている。また、茨城県の干し芋は産出額で約100億円。全国の99%を占めている。干し芋焼酎や干し芋の缶詰、残渣(ざんさ)利用の菓子類など、さまざまな商品も開発されている。 私は講演の中で、松吉の志を受け継ぎ、さらなる試みが那珂市やひたちなか市などで展開されるように、行政や農協、生産者、流通業者が工夫し、努力してもらいたい、と述べた。(元瓜連町長)