【コラム・オダギ秀】今から二昔も前の1年間、ボクは茨城北部の西金(さいがね)小学校を撮らせてもらった。写真を撮る楽しさを、この時ほど感じたことはない。写真を撮っていたから、こんな小学校に行けた。
西金小学校は、水戸市からは北へ車で1時間30分ほど。久慈郡大子町の入り口付近にある、久慈の山々に囲まれた小学校だった。すべて木造の校舎は、その町の林業で栄えた時代を表していて、雰囲気のあるものだった。長い歴史は持っていたが、児童数の減少によって、2005年3月、閉校された。
閉校前の2004年春からの1年間、ボクは、歴史を終えるその西金小学校の生活を撮らせていただいた。きっかけは偶然で、以前から木造校舎を撮影しておきたいと思っていたボクは、茨城の現役の木造小学校校舎はすでにその西金小学校しかなく、この機会を逃したら、まず木造小学校の学校生活を撮影することは不可能と知ったからだった。ただ撮りたい、という願望だった。
自分自身をスローダウンさせる魅力
その校舎は奥久慈の山間にあり、全校生20人が学んでいた。1年生はひとり。翌年の新入生の予定はなかったから、6年在校生8人が卒業すればあとは12人になり、閉校がやむを得ない状況にあった。人数の少ない学年は、他の学年と一緒に1クラスになっていて、低学年の子は、授業中でも当然のように歩き回って、上級生に教えてもらっていた。
しかし、その小学校の生活は、ボクを、単に、何十年も昔の自分の小学時代に引き戻しただけでなく、生活のテンポや価値観や、空気感、季節感、歴史観、家族観、はたまた地域との関わりなど、様々な事柄を見直し、自分自身をスローダウンさせる魅力に充ちていた。ボクは、西金小学校にはまった。
給食は、全校生と先生全員がひとつの部屋で一緒に食べた。旧いラジカセで、モーニング娘なんかかけながらだった。校舎の周りの木立には、生徒たちで作って掛けた鳥の巣がたくさんあって、野鳥が来ていた。学校で催し事があると、集落の人が、久慈川で取った鮎などをどっさり持ち込んでくれた。流しそうめんの時は、近所の大人たちが仕掛けを作ってくれ、一緒に食べた。
「オダギさんが、ドーナツをくれた」
2005年春の閉校までにボクは、月に3、4日、時には連日、水戸の仕事場から西金に通った。まだ誰もいない真冬の早朝もあれば、暑い夏の夜もあった。時には西金の集落に出て、生徒たちと走り回ることもあった。教室・廊下・校庭で、授業中、休み時間、放課後など、生徒たちと過ごしている時間、ボクは子ども時代に戻った。
撮影しながら、西金小学校の生徒になっていた。だから20年近く過ぎた今も、ボクにとって、西金小学校はボクの母校そのもののように思えて熱くなる。
全校生は20人だし、先生入れてもたいした数ではなかったので、ある日、水戸のミスタードーナツのドーナツをお土産に買って行った。後で先生に聞いたのだが、半分だけ食べて残り半分はティッシュに包み、おばあちゃんにと持ち帰った子もいたという。街にあるような店なんてなかった山間の町の小学校だった。
放課後の教室の壁に生徒の作文があった。「オダギさんが、ドーナツをおみやげにくれた。この次はなにをくれるかなあ」。そう書いてある後に、校長先生が赤ペンを入れていた。「オダギさんはカメラマンです。おしごとで来ているのですから、おみやげはきたいしないようにしましょう」。あの子たちは、もう30歳近くになっているはずだ。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)