日曜日, 10月 11, 2026
ホームコラム棗とナツメ《続・平熱日記》118

棗とナツメ《続・平熱日記》118

【コラム・斉藤裕之】今年も玄関脇の棗(なつめ)がたわわに実った。身の重さで稲穂のように枝が垂れ下がるほどだ。友人の植木屋さんによれば、うちの棗の実はかなり立派なのだそうである。参鶏湯(サムゲタン)などに使われるとか、漢方薬として体に良いとかいわれる棗だけれど、数年前に加工してビンに保存した実は一度も使ったことがない。

棗との出合いはかなり昔にさかのぼる。夏休みにまだ小さな子供たちと帰省した折、よく訪れていた公衆温泉浴場がある。海水浴に行った後などは、風呂に入れる手間がかからず安価で便利をした。

その浴場の駐車場に涼しげな木があった。それが棗だ。そのことを覚えていて植えてみた。しかし見た目にはわからなかったが、幹や枝にはかなり強烈なトゲを身にまとっていて、かなり厄介だということがわかった。特に若い枝は小さな鋭い棘がいっぱいで、不用意に触ると大変だ。なるほど、棘(とげ)という字と棗という字が似ているのは納得できる。

さて、ここに別のナツメが3つある。茶道で使うお茶の粉を入れるナツメだ。棗の実に似ているので、こう呼ばれるそうだ。これは亡き母のもので、母は茶道の先生の看板を持っていた(茶を入れたところは見たことがない。多分、日々の暮らしが忙しすぎてそれどころではなかったのだろう)。

数年前、実家を処分するときにわずかに持ち出したものの中に、このナツメがあった。恐らく、通販かなんかでシリーズものとして買ったのではないかと思われるのだが、1つは木製で黒と赤の漆が塗ってある。それから白い陶器のもの。これには梅のような花が描いてある。最後は錫(スズ)製のもので植物の蔓(つる)が彫られている。

あの3つのナツメがちょうどいい

さて、妻が亡くなって遺骨は収まるところが決まったが、本人の希望で仏壇はいらないから、小さな骨のかけらを2人の子供たちのところにしばらく置いてほしいと言われていた。なんとなくそのことは頭の隅にあって、どうしたものかと考えてはいたのだが、ある日ひらめいた。そうだ、あの3つのナツメがちょうどいい。

私は木の箱を作ることにした。薄い板は案外売ってないものだが、夏休みの工作用なのか杉の薄い一枚板を安く売っているのを見つけた。早速小さな箱を作って、以前妻が買った真田紐(さなだひも)で蓋(ふた)を括(くく)れるようにした。ひらがながいっぱい書いてある、母が残したお習字の手習い半紙でそっとかけらを包んで入れた。

ナツメを入れる袋は、妻が使っていたハンカチを使って友人に縫ってもらった。箱書きは字の達者な次女に任せた。こうして10センチ立法ほどのかわいらしい木の箱が3つできた。

棗の実を1つかじってみる。甘くて少しぱさぱさしたリンゴのよう。ふと、墓の近くでそよぐナツメの木も悪くないと思った。実をいくつか拾ってポケットに入れた。(画家)

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