土曜日, 3月 28, 2026
ホームつくばパークPFI事業の中止を要望 近隣のマンション管理組合 つくばの洞峰公園

パークPFI事業の中止を要望 近隣のマンション管理組合 つくばの洞峰公園

つくば市二の宮にある県営の都市公園、洞峰公園(約20ヘクタール)を、県がパークPFI制度によりリニューアルする計画に対し、近隣の二つのマンションの管理組合が19日、県、市、事業者の洞峰わくわく創造グループ(代表・長大)にそれぞれ、パークPFI事業の中止を求める要望書を連名で提出した。

提出したのは、いずれも西大通りをはさんで公園に近接する、同市二の宮のライオンズマンション筑波学園都市管理組合(131戸、渡辺禄郎理事長)と、ガーデンコート筑波管理組合(130戸、川鍋勝利理事長)。

両マンションはいずれも洞峰公園敷地境界から100メートル以内にある。パークPFIのメーン事業であるグランピング施設建設の可否を審査する際の法的な利害関係者にあたり、市建築審査会の判断に影響を与える立場にある=メモ

要望書は、南側駐車場拡張に伴う樹木伐採により豊かな自然環境が損なわれることへの懸念に加え、同公園は中学生の通学やマラソンなどの学校行事、園児の集団遊びに利用されていることから、グランピングやバーベキュー施設、ビール工房でアルコールが提供されることにより、子供たちへの治安上の問題が発生することが危惧されるとしている。さらにごみ問題、騒音問題、臭気・油煙問題など計6項目を指摘し、住環境が損なわれる懸念があるとして、県と事業者には事業中止を、市にはグランピング施設の建設を許可しないよう求めている。

18日に県と事業者に要望書を郵送し、19日、五十嵐立青つくば市長に手渡した。

つくば市長に提出後、会見したライオンズマンションの渡辺理事長は「今回計画したことを展開しようとするなら(街なかの洞峰公園でなく)ほかにいくらでも候補地がある。なぜ皆が親しみをもって慈しんで育ててきた洞峰公園に設置しなければならないのか。始めにお金ありき、事業ありきでなく、地元の意見や知恵を結集してそこから始めるのが筋ではないか」とし、ガーデンコートの川鍋理事長は「洞峰公園を維持するためにお金が必要だからと、事業者と検討するのではなく、皆の意見を聞いて、地産地消のものを売るイベントを開くとか、野球場でスケートボードやフットサルなどのスポーツができるようにするとか、別のやり方を知恵を絞って決めていったらどうか」と話している。

これに対し県都市整備課は「要望書は受け取ったが(コメントを求められても)特にお答えできない」としている。

一方、五十嵐市長は「アンケートの生データを県からいただくことになっている。市でも独自に分析して、未来に向かった解決策を県と検討していく」とマンション管理組合に答えたという。

公園内の野球場にグランピング施設やバーベキュー施設、ドッグランなどを整備する計画の洞峰公園パークPFI事業をめぐっては、5月に市民団体「地域参加型の洞峰公園整備計画を求める会」(木下潔代表)が、都市公園法で位置付けられた協議会設置を求める要望書を提出した(5月13日付)。7月には県が説明会を計4回開催し、つくば市から出されたアルコールや臭いの懸念に対し対策を示したが、参加者からはアルコール提供や樹木の伐採に反対の声が相次いだ(7月2日付23日付8月1日付)。県は8月末までアンケートを受け付け、今後の対応をつくば市と協議して決める。県によると今後の日程は未定という。(鈴木宏子)

【メモ】洞峰公園は宿泊施設の建設が認められていない第1種中高層住居専用地域に指定されており、今回のパークPFIのメーン事業であるグランピング施設を野球場内に建設するためには、つくば市建築審査会の同意を得て、市長の特例許可(建築基準法48条のただし書許可)を受けなければならない。建築審査会の開催に先立って、市は公開で公聴会を開催し、影響が想定される周辺の利害関係者から意見を聴取し、建築審査会に説明することになっている。市建築指導課によると洞峰公園のグランピング施設建設の場合、利害関係者は敷地境界から100メートル以内の近隣住民となり、今回要望書を提出した二つのマンション管理組合は公聴会で意見を聞く利害関係者に当たる。建築審査会は審査にあたって①立地は妥当性か(上位計画等との整合)②住居の環境・商業の利便・工業の利便を害する恐れがないか(市街地環境への影響、商業活動への営業、近隣住民の理解など)③公益上やむをえないか(公益上必要性が高い、公共事業に基づく)などに留意して判断するとされている。一方県は、特例許可が下りるのか否かについて説明会で「住宅地への距離を考えると住環境への影響は極めて少ないと考えている。特例許可の判断はつくば市となる」としている。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

58 コメント

58 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

友達を定義できるか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》5

【コラム・1年 月山望】 「今日友達がさぁ」 こんなふうに話すとき、「友達」という言葉はどのような人を指すだろうか。本当に親しい人、よく話をする人、果てはただのクラスメートまで。このように、友達という単語にはあまりにも多くの意味がある。 私は昔から、親や先生がクラスメートを友達と同じ意味で使うことに反感を抱いていた。よく話をする人と話さない人、気が合う人と合わない人、クラスメートの中にもいろいろいる。これらの人々をすべて友達とするのは、私には無理がある。 「クラスメートなどというものは、しょせん同じ空間にいるだけの他人であり、友達というに値しない」。そんなふうに考えたこともある。しかし、世の中にはクラスメートは全員友達である、という価値観の人もいる。(おそらくクラスLINEを作るのはこのようなタイプの人間だと、私は思う)。この違いは一体なんだろう。友達とは、いったいどこからいえるのだろうか。 私には、たまにしか会わないが、信じられないほど馬が合う友達がいる。それは一体どういうことなのかを考えてみると、その友達は、会わない時間など気にならないくらいに、気軽に話せる気の合う人だ。だとすると、私にとって友達と言える人の条件は「会わない時間が気にならないくらい、性格の相性が良い人」ということなのだろう。 しかし「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、おそらく私と全く異なる価値観で友達を考えているのだと思う。そのような人は、何をもって他者を友達と考えるのだろうか。おそらく「一緒の空間にいる(いた)こと」ではないかと私は考えている。例えば一緒のクラス、一緒の部活などが考えられる。「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、同じ空間を共有している(いた)人に、気軽に声を掛けることができるタイプの人たちなのではないか。であれば、クラスメート全員を友達と認識していてもおかしくない。 そこで問題になるのは、感情が一方通行であることだ。相手の意思とは関係なく、自分が友達だと思えればいいという考えだといえる。それは、私が考える友達とは異なるものだ。一方で、私にとっての友達の条件が、クラスの全員に当てはまることもないだろう。私が考える友達の条件も、私だけのものなのかもしれない。 ここで改めて今回のテーマである、友達を定義できるか考えてみよう。ここまで見てきたように、私と他の人の考える友達の条件は、全く異なるものであり、私と私の友達の間ですら、もしかすると異なった認識でいるかもしれない。友達に対する価値観は、それぞれ異なるものであり、あやふやなものだと言える。どこからが友達と言えるのか。そんなものは自分の主観でしか決められないのだ。しかし、だからこそ、私たちは他者と友達になることができるのではないだろうか。定められた友達という型に、他人を、自分を無理やり押し込めるのは、あまりに難しい。なんとなく話しかけてみる、距離を縮めてみる。それは、定義された友達を目指すことよりずっと簡単なことだ。 定める必要などなく、ふと気がついたらそうなっている。友達とはそんなものなのかもしれない。そうなると、友達を定義できるか?に対する私の答えは「定義できない」だ。

市営駐輪場のオンライン申請でシステム障害 つくば市

つくば市は27日、市営駐輪場を月決めなどで利用する定期利用について、今年4月分から新たにオンラインでの申請受付を開始したところ、システム障害が発生し、つながりにくい状態になったと発表した。 市によると、つくば駅周辺で4月から空きが出る9カ所913台分について、15日午前9時から午後6時まで、オンライン申請を受け付けたところ、受付開始直後の午前9時から午後6時まで計9時間にわたり、申請フォームがつながりにくい状態になった。駐輪場を管理する市公園・施設課には「(手続きが)進まない」などの苦情電話が50件ほどかかってきたという。システム障害の発生により市は当日、申請受付時間を午後9時まで延長した。 システム障害により手続きできなかった人が何人いたかは不明だが、障害が発生した午前9時~午後6時までに149件、延長した午後6時~9時までに124件の申請を受け付けた。申請できなかった人に対しては、現地の駐輪場管理事務所で随時受け付けているという。 市デジタル政策課によると、申請受付システムにはもともとアクセスが集中した際に、順番待ちしてもらう仕組みが設計されていたが、アクセスが集中して負荷がかかったことからシステム内部で処理が滞り、後続のアクセスを遮断してしまうという構造上の問題があったという。 申請は、茨城県や県内市町村が共同運用する「いばらき電子申請・届出サービス」を通して、マイナンバーカードを使って申請する仕組み。当日、同サービスを使った市の他の申請や届け出にも影響があったとみられるが、他の利用者から苦情などはなかった。 市営駐輪場の新年度からの定期利用についてはこれまで、つくば駅前の駐輪場管理事務所に並んでもらい、申請を受け付けていたが、例年200~300人が並ぶ状況であることから、今年からオンラインでの申請受付を開始した。 市は、システム提供事業者のNTTデータ関西に対し、不具合の改修と緊急時の体制見直しなど再発防止の徹底を図るよう、強く申し入れたとしている。

筑波大「志受け止め尽力」 被告に終身刑判決受け 仏留学の黒崎さん行方不明事件 

フランスに留学中の筑波大学生、黒崎愛海(なるみ)さん(当時21)が2016年に行方不明になった事件で、殺人の罪に問われていたチリ人ニコラス・セペダ被告(35)に対する控訴審判決が、現地時間の26日行われ、仏南部リヨンの裁判所はセペタ被告に対し検察側の求刑(禁固30年)より重い終身刑を言い渡したとして、筑波大の永田恭介学長は27日「今回の裁判により被告人の罪が明らかにされ、処断が下された。これまでの関係各位のご尽力に深く敬意を表し、本学としては黒崎さんの志を受け止め、日仏の学術交流の発展に尽くして参る所存です」などとするコメントを発表した。 黒崎さん(東京都出身)は仏東部のブザンソンに留学中、行方不明になった、事件直後に消息を絶った元交際相手のセペダ被告が殺人容疑で国際手配され、20年にチリからフランスに引き渡されて、殺人罪で起訴されていた。黒崎さんの遺体はまだ発見されていない。

服を着ることの意味とは《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》4

【コラム・2年 マヨラー】なぜ人間は着飾るのか。この問いに対して、寒さから身を守るため、社会的規範に従うためなどといった実用的な回答はいくつもあげることができるだろう。 しかし人間が着飾る理由には、人間の身体と自己像の不安定さという根本的な問題がある(*脚注1)。 ニーチェという哲学者が「各人は各自に最も遠い者である」(*脚注2)と言った。私たちは自分自身を直接見ることはできず、鏡やカメラなどの装置を経由しなければならない。さらに自分の顔に関しては、感情によって表情が意識を超えて変わり、自分の身体を思うままに統制することもできない。身体というのは、とても遠く隔たったものなのだ。 私たちは自分の身体に触れたり、見たりする時に、身体に関して部分的な経験を得て、そのバラバラな身体知覚を自分の想像する「身体像」によってつなぎ合わせて、ようやく身体として理解できる。つまり身体の全体像は想像上でしか現れない。よって自分の身体は、もろく、不明瞭な像、イメージであると表すのが適している。 ではこの不安定な像を強化するためにはどうしたら良いのか。 それは、服を着ることだ。服を着ると、皮膚と布が接触することで、身体の輪郭が皮膚感覚として明確になる。そのため、自分から目視できない体の存在を確かめることができる。服を着ることは、寒さ対策などの機能的な面でも役割を果たしているが、このような心理的な作用も見逃せない。 ここから服を着ることとファッションとの関係が浮かび上がる。この二つの言葉はよく同一視されるが、厳密には異なる。ファッションは「人の目に自分はどう映っているのか」ということを意識し、自己像を表現する行為のことだ。思春期前の子供は大人が選び大人が考えた服を着させられるだけの着せ替え人形にすぎない。思春期を迎えると、与えられた服の着方や組み合わせに何かしらの違和感を持つようになり、服の組み合わせや着方を変える。まさにこの行為こそファッションの始まりだ。着飾ることは、服を着ることとファッションとの交わりに位置する概念だと言えるだろう。 ここで制服について考えてみると興味深い。制服を着るだけで自己に社会的役割や集団への帰属といった意味が付与される。もし制服がなければ、無限の選択肢の中から服を選ばなければならなない。制服はその負担を肩代わりし、自己に余裕を持たせてくれる。それにより持て余した余裕が、着崩し・ちぐはぐに着ること、つまり着飾ることに火をつける。制服自身が、制服という与えられた枠組みを変形する原動力になるのだ。 私自身はシャツの第1ボタンを開けたりスカート丈をやや短くしたりすることを普段行っている。 貴方は、顔や体の整いについて考えたことがあるだろうか。一般的に言うと、顔や体が整っているということは、大きさや形といった、外的基準だろう。しかし私はそれだけではないと思う。整っているとは自分の想像する自己像と、何かを経由して見た自己像との差異が少ないことだと思う。繰り返すが、自分が鏡や写真に映るたび、自分が見る自分は毎回印象が異なり自己像が確立していない。そう簡単に外形が変わることは無いのに、自己像は常に揺らいでいるというジレンマがある。そのような点で服は、身体像の強化や視線の分散をすることで、自分の想像する自己像と実物との関係の緊張を和らげることができる、非常に優れたものなのだ。 やはり、着飾ることもまた、単に服を着るのとは異なる意味で、自己の存在を確固たるものにするための手段だ。 *脚注1 服と身体との関係を考察するに当たっては、鷲田清一「ちぐはぐな身体」(ちくま文庫、2005年)を参考にした。2 ニーチェ「道徳の系譜」序言(木場深定訳、岩波文庫、1940年)