【コラム・斉藤裕之】連日の酷暑の中、九十九里に向かった。途中でスイカとトウモロコシを買って、カミさんがテレビで見たという海辺の道の駅に着いたのは昼少し前。平日のせいか、のんびりとした雰囲気だ。建物に入ると目に飛び込んできたのは、大きな水槽いっぱいに泳ぐイワシの群れ。
「世界で一つだけの花」という歌がある。「花屋の店先に並んだ、いろんな花を見ていた…」。私はこの歌の歌詞を「いろんな花があるように、あなた方も世界に一つだけの存在なのだから、頑張って、あなたらしい花を咲かせてね」という意味なのだと思っていた。
ところがあるとき、歌詞をじっくりと見ることがあって、私は長い間この歌の意味を勘違いしていたことに気づいた。
例えば「…1人1人違う種を持つ、その花を咲かせるためだけに一生懸命になればいい…」という部分。つまり「いろんな花があるけども、種のときに咲く花は決まっている。だから無駄な努力はやめて、分相応の花を咲かせるのがよい」という、いわば先天的な才能主義・遺伝子万能主義にも受け取れるような歌なのではないかと。
教科書にも載っているという、この歌にケチをつけるつもりはない。ただテレビで耳にしたり、どこかで見かけた何気ない言葉が、喉元に引っかかった小骨のように、いつまでも気になることがあって。「世界で一つだけの…」とか「思い出作り」とか。
落花生の花は黄色くてかわいらしい
ヒトという生き物が他の生き物とえらく違っていることは不思議なことだ。自分らしく生きるとか、いやそもそも生きることの意味なんて、他の生き物にとってはどうでもいいことだ。
花だってそうだ。ヒトにどう見られようなんて思って咲いているわけではない。せいぜい虫や鳥に繁殖を手伝ってもらうために色や形を工夫しているのだろうが、ヒトが勝手に美しいだの、すてきだの言っているだけだ。しかしだからといって、生き物を単に遺伝子を運ぶ器として考えるにはあまりにも複雑で精巧で美しくさえある。
「魚屋の水槽に並んだイワシの顔を見ていた…」。それぞれの見分けのつかないイワシの顔を見ていて、こんなことを考えるのも人それぞれとご容赦願いたい。
さてと、それから2階にある食堂で生まれ育った瀬戸内海とは全く違う表情の海を窓越しに見ながら、イワシではなくアジの刺身を食べた。入梅イワシというイワシの旬を示す言葉を聞く暇もなく、観測史上最も早く開けた今年の梅雨。
「ところでこの先はなにかありますか?」っておばちゃんに聞いたら、「なんもねえよ」って言われた。
というわけで、今回は九十九里もあるという浜の横断はあきらめて、ピーナッツ畑を通って帰ることにした。前に落花生の種まきのアルバイトをしたことがある。スクワットをしながら、何時間も種をまき続けるという、これまでで一番きつかった労働。落花生の花は黄色くてかわいらしい。(画家)