水曜日, 10月 22, 2025
ホームコラム「鎌倉殿の13人」の1人・八田知家と小田氏 《ひょうたんの眼》48

「鎌倉殿の13人」の1人・八田知家と小田氏 《ひょうたんの眼》48

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家(はった・ともいえ)と名門常陸小田氏」は、知家や初期の小田氏に関する資料が少ない中で、幅広く情報収集を行い、展示資料もすべて翻刻版を用意するなど、展示の工夫がみられ、博物館の努力は称賛すべきものです。5月8日までの特別展も終盤になりましたので、前回コラム「常陸小田氏の土浦市展示に事実誤認あり」(4月20日掲載)で問題提起した私なりに、八田知家について、もう一度まとめておきたいと思います。

知家の父親は宇都宮座主(ざす)の八田宗綱(むねつな)で、領域南端の五行川と小貝川が合流する手前(筑西市)の「八田」に居館を置き、本拠地としていました。宗綱・友家親子は、保元(ほうげん)の乱で源義朝(みなもと・よしとも、源頼朝=よりとも=の父)に従軍し、知家は乱後も京で北面の武士を務め、小山政光の妻(寒河尼=さむかわのあま=知家の姉)は頼朝の乳母になっています。

宇都宮・八田(小田)一族と小山一族の結びつきは強く、1180年の頼朝の挙兵には、双方一族を挙げていち早く駆け付け、頼朝から信頼される御家人として、鎌倉時代を通して幕府を支えました。

頼朝は富士川の戦いに勝利すると、関東を抑えることを優先しました。当時、常陸国は平氏の知行国であり、大掾多気(だいじょうたけ)氏を本宗とする常陸平氏一族と那賀川以北を治める佐竹氏(源氏)は、頼朝追討の指示を受けており、反頼朝あるいは日和見の立場にありました。

頼朝は、常陸国の国府まで出向いて佐竹氏を降伏させ、鎌倉への帰途に「八田館」に立ち寄ります。吾妻鏡には「小栗重成(おぐり・しげなり)の小栗御厨(おぐりのみくりや)の八田の館」とありますが、御厨の荘官・小栗氏は自分の居館を持っているので、御厨エリアの中にある八田氏の舘を指していると考えます。源頼朝が立ち寄ったのは、より信頼できる八田氏の居館です。

頼朝は鎌倉に戻ると、八田氏領域の「茂木保」を知家に安堵(あんど)します。直前に佐竹氏から収公した領地を勲功者に配分していますが、隣接する八田・宇都宮領との境界の混乱を避ける意味があったのかもしれません。

筑後守、常陸介、紀伊守

1183年。常陸国信太(しだ)郡にいた頼朝の叔父・志田義広(しだ・よしひろ)の乱がおこり、小山一族が追い払い、八田知家も戦功を挙げます。志田義広の旧領のうち、知家は、信太荘,南野荘を与えられ、国府を挟んだ南郡の地は、下河辺氏に与えられます。知家は、南野荘西端に位置し、常陸国府と東山道や奥大道を結ぶ路線上にある小田に居館を構えて本拠とし、嫡子・朝重(ともしげ)から戦国時代末期まで「小田」を称します。

知家は平氏追討の後、常陸国守護職(しゅごしょく)となり、奥州攻めでは、東海道大将軍となり常陸の武士を率いて参戦しました。

鎌倉での知家は、大蔵御所(頼朝居館)の南御門前に屋敷を持ち、京からの要人接待にたびたび起用され、知家の京の所作に通じた見識は、頼朝に頼られたようです。頼朝が後白河法皇に会うため初上洛した際に、知家は遅参しましたが、頼朝は隊列構成などで相談したいと知家を待ち、全軍の鎌倉出発を数時間も遅らせ、知家の意見を取り入れてから出発したという話が吾妻鏡にあります。

常陸大掾本宗の多気義幹(たけ・よしもと)は、平氏追討や奥州征伐の後も、鎌倉政権へは距離を置いていたようでした。有名な曽我兄弟の仇討(あだうち)のとき、頼朝警護の動員がかかりますが、多気義幹はウソの動員と思い込んで参陣せず、謀反を疑われて没落しました。知家の陰謀とされていますが、仇討の日から逆算すると、策謀の日数はなく、義幹の失態と考えられます。

頼朝の死後、2代将軍・頼家を補佐する有力御家人を、尼将軍・政子(まさこ)が選びました。いわゆる「鎌倉殿の13人」で、八田知家はその1人です。また知家は、1203年ごろ「筑後守(ちくごのかみ)」に任官します。源氏嫡流以外の御家人が国守(こくしゅ)に任官するのは、北条時政の「駿河守」と並んで、一番早いのではないでしょうか。なお、嫡子・知重は「常陸介(ひたちのすけ)」、さらに「紀伊守(きいのかみ)」に任官しています。(地図と歴史好きの土浦人)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

たかが5千円 されど5千円《短いおはなし》44

【ノベル・伊東葎花】 夕方の混み合うスーパーのレジ。 あら、この人、お釣り間違えてる。2300円買って5千円出したら、お釣りは2700円でしょう。それなのに私の手には、7700円が載っている。やっぱり言わないとまずいよね。5千円って大きいもの。「あの」と言いかけた途端、後ろに並んだ客に肩を押された。 「終わったらさっさとよけて」 弾かれて、私はすごすごと下がった。ネコババしたわけじゃないのよ。ちゃんと返そうとしたのよ。なのに、あのおばさんが押すから。言い訳しながら、万引きでもしたような気分で、ささっと店を出た。 戸惑いながら5千円札を見る。たかが5千円。そうよ。普段の行いが良いから、神様がくれたご褒美よ。そう思ったら気が楽になった。 夜になって帰ってきた夫が、やけに沈んでいる。 「何かあったの?」 「実はさ、同期のKくんが、懲戒免職になったんだ」 「まあ、どうして?」 「K君は経理の仕事をしているんだけど、会社の金を使い込んだらしい」 「まあ、いくら?」 「5千円」 「5千円? たったの5千円?」 「たとえ5千円でも横領だよ。ちょっと借りて後で返すつもりだったらしい。これまでも、何度かやってたらしいんだ」 「クビになったら大変じゃないの。どうするの、これから」 「職探しだな。奥さんは駅前のスーパーで働いているらしいよ」 「駅前のスーパー?!」 私はハッとした。 釣銭を間違えた店員のネームプレート、確かKではなかったか。「飯まだ?」という夫の声など聞こえないほど動揺していた。罪悪感で押しつぶされそうだ。明日スーパーに行って、5千円を返そう。 翌日、封筒に5千円を入れてスーパーに行った。Kさんは、都合よく人気の少ない通路で品出しをしていた。 「あの、Kさん」 話しかけるとKさんは笑顔で振り返った。 「いらっしゃいませ。何か御用でしょうか」 「あの、昨日、レジのお金、合わなかったでしょう?」 「え?」 「ごめんなさい。私、お釣りを多く受け取ってしまって。これ、返します」 「何のことでしょう?」 「いいから受け取って。ご主人だけでも大変なのに、あなたまで辞めさせられたら大変じゃないの。ね、受け取って」 私はKさんのポケットに封筒をねじ込んで、素早く店を出た。これでいい。これで私が地獄に落ちることはない。 Kさんは、首をかしげていた。 「なんだろう、あの人。レジのお金はきっちり合っていたのに。あら、5千円も入ってる。店長に言った方がいいかな。でも私、今日で辞めて夫と田舎に帰るから、別にいいか。もらっておこう。ラッキー」 Kさんが、意外としたたかだったことなどつゆ知らず、私はその夜家計簿を付けながら、5千円が足りないことに気が付いた。もしかして私、昨日の買い物で1万円出していた?あ、そういえば、1万円札だったかも。絶対そうだ。私の勘違いだった。落ち込む私に息子が追い打ちをかける。 「お母さん、部活の合宿代5千円ね」                                     (作家)

日本語学ぶ10月入学生大幅増 日本つくば国際語学院で歓迎会

つくば文化学園(東郷治久理事長)が運営する日本語学校「日本つくば国際語学院」(つくば市松代、東郷校長)の2025年10月入学の新入生歓迎会が21日、同市小野崎の料亭、つくば山水亭で開かれた。9つの国と地域から来日した65人が、鮮やかな民族衣装などに身を包み、新たな一歩を踏み出した。昨年10月と比べ1.5倍の入学者数となった。在校生も含めこの日は日本語を学ぶ211人の学生が会場にあふれた。 入学生の出身国・地域はネパール、ミャンマー、スリランカ、バングラデシュ、べトナム、中国、モンゴル、台湾、フランスの計65人で、ネパールが27人と最も多く、次いでミャンマー20人。 歓迎会では学生証の授与式などがスピーディに行われた。その後、出席した10月入学生64人全員が一人ひとり、習いたての日本語で自己紹介した。出身国、年齢、日本でやりたいこと、趣味などを話し、「日本語を学び大学や大学院に進学したい」「IT技術を学び母国で役立てたい」などと語った。趣味は「サッカー」「読書」「旅行」など、好きな食べ物は「ラーメン」「おにぎり」などと話す新入生もいた。 在校生代表してスリランカ出身のカンブラワラ・ヴィターナゲ・ハンサマーリ・サダルワニさんが歓迎のあいさつをし「最初、不安を感じることもあるが、少しずつでも、諦めず、頑張り、努力すれば必ず道は開ける。あせらず自分のペースで夢を実現していこう」と新入生にエールを送った。 東郷理事長兼校長は「日本語は難しいが、努力を積み重ねることで必ずものにすることが出来る。そして日本の文化や社会を学んでほしい。つまずくこともあるかも知れないが、明るく前向きにチャレンジしていけば良い結果が生まれる」と話した。 記念撮影会や歓迎パーティなども催され、ダンスや歌などが披露された。ミャンマー出身の学生によるダンスがフィナーレを飾り、会場を盛り上げた。 同校は県内最大の日本語学校。東郷理事長は「今回も入学者がかなり増え、この傾向は続くと思う。現在、校舎もいっぱいいっぱいの状態で対策を考えているところ」などと話した。(榎田智司)

イカ・タコ釣り 遊び仕事(2)《デザインを考える》25

【コラム・三橋俊雄】前回(9月16日掲載)は、タケノコ掘りを取り上げ、経済的には重要ではないものの、自然との関わりを通じて楽しまれ、受け継がれてきた活動を「遊び仕事」として紹介しました。今回は、京都府北部の丹後半島を舞台に、日本海(若狭湾)に面した宮津市養老地区における「タコ釣り」「イカ釣り」という遊び仕事についてお話しします。 「食いたい」と思ったら堤防へ 「食いたいな」と思ったら、すぐに堤防へ向かいます。 海を眺めながら、穴にじっと潜んでいるマダコを探します。竹や糸の先に「バカシ(疑似餌)」(図1)と呼ばれるルアーをつけ、タコの居場所を探ります。タコは穴の中にいても吸盤を外に出しているため、道具を使わなくても見つけやすいそうです。 穴に潜むタコをおびき出すには、バカシを見せるためのスペースが必要です。もともとタコが穴から出ているときは、頭がゆらゆらと揺れているので、すぐに見分けがつきます。 うまく釣るには、海が鏡のように穏やかで、海底まで見えることが条件です。 雨上がりは海が静まり、タコ釣りには絶好のチャンス。急いで堤防へ向かい、タコを探します。 マダコは移動して止まるたびに、なぜか体の色が真っ白に変わるため、海底でひときわ目立ち、すぐに見分けがつきます。 タコ釣りの季節は、4~5月から10月まで。10月を過ぎると、マダコを食べるミズダコが沖から堤防付近までやってくるため、マダコは沖のほうへ移動し、堤防では捕れなくなるようです。 自然と向き合い夢中になって アオリイカは9月中旬から11月まで。道具は竿(さお)とビシ(おもり)のついた糸とバカシです。昼間、船で釣るとイカの真上まで近づけるので見つけやすいとのこと。大きなタルイカ(成体で胴長100センチ、体重20キロを超す)(図2)なら10~12月が漁期です。 夜釣りに出かけることを「イカツケ」と呼びます。釣りの時間帯は、夕方から夜中の12時ごろまでです。満月の夜は海が明るく、透明度も高いため、バカシ(疑似餌)がよく光り、イカの食いつきもよくなります。そのため、一晩で胴長20センチほどのアオリイカを100杯近く釣る人もいるそうです。 捕ったイカは、刺身やスルメにして家族で味わったり、ご近所に分けたりします。肉厚のタルイカは、そのままでも刺身などにしますが、一度冷凍してから使うと食べやすく甘味も増します。 この地区では、食べること以上に、イカを釣ることそのものを楽しみにしている人が多いようです。 船に子どもを乗せてイカ釣りに出かけ、そこで櫓(ろ)のこぎ方も教えたし、自分もかつて、そうして教えてもらいながら覚えてきたそうです。 こうして、自然と向き合いながら夢中になってきた地域の大人たちの「遊び仕事」。 次回も、そんな暮らしの知恵と楽しみを紹介していきます。(ソーシャルデザイナー)

まだ続く運動公園問題 つくば市長の宿題【吾妻カガミ】211

【コラム・坂本栄】つくば市の総合運動公園用地は3年前に倉庫業者に売却され、それに反対する有志市民の住民訴訟も敗訴したことで、「もう終わった問題」と思っている方が多いと思います。ところが、酒井泉市議が秋の議会で売却の問題点を追求、今後は「用地買い戻し実現に向けて対市民キャンペーンを展開する」そうです。私もこの欄で売却の問題点をいくつか指摘してきたこともあり、その行方を注目しています。 幻に終わった県南の中核施設 住民投票で実現しなかった市原前市長時代の総合運動公園計画について、私は以下のように考えています。 ▼総事業費が300億円に上る財政負担に市民は不安を覚えたようだが、15年の長期計画でやれば、年20億の負担で済んだ。具体的には、高いレベルの3施設(陸上競技場、総合体育館、サッカー場)を各5年計画で順番に整備すればよかった。県南の中核運動施設と位置付け、県や周辺市町村にも経費を分担してもらい、国の補助も受ける計画にすれば、年20億の市負担を限りなく減らすことができた。 ▼前市長時代にUR都市機構から取得した用地は45ヘクタールと広く、研究機関が連なる幹線道路沿いの少し奥に位置し、利用者には極めて使い勝手がよい。したがって、つくば市民だけでなく他県民も広く利用できる場所として活用すべきであり、各種施設から成る総合運動公園は県南エリアに望まれるプロジェクトであった。 全用地売却は政治的な選択 ところが、この計画は五十嵐現市長が旗を振った反対運動と住民投票によってご破算になりました。その問題点について、私は以下のように理解しています。結論を先に言うと、運動公園問題は現市長の未解決の厄介事ということです。 ▼総事業費300億という数字が反対運動で強調された結果、市民の関心は市の財政負担に向けられ、県南に整備される総合運動公園のメリットに思いが至らなかった。また、住民投票の問いが全計画に賛成か反対かの2択式でなく、「(計画修正も含む)どちらでもない」もある3択式であったならば、この択に〇を付ける市民が一定シェアを占め、当初計画の見直し(整備計画の長期化、3施設の設計変更、1~2施設への縮小など)が可能だった。 ▼現市長は、市民運動家として運動公園反対運動を主導し、計画が頓挫した用地をURに返還することを最初の市長選の目玉公約にしたため(結果は失敗)、当初計画の修正という選択肢の採用は政治的に難しくなり、全用地の売却に走らざるを得なくなった。つまり、返還失敗という失政の痕跡を消し去ることが市長就任後の政策テーマになった。 ▼用地処分を焦るあまり、反対運動と市長選挙の際に指摘した前市長の行政スタイル(市民や議会の声を軽視して執行部が独走したと批判)を自ら踏襲し、用地売却の議案を議会に提出せず、市民の考えを無作為に聞くアンケート調査(住民投票のミニ版)もせず、倉庫業者による住民説明会の非開催(チラシ配布のみ)を容認した。 開示情報の多くは黒塗り 反対運動で市の財政負担(300億!)を強調したこと、市民の声をきちんと聞き取る調査を実施しなかったこと、議会による議決手続きを無視したこと、周辺住民への説明会を業者に回避させたこと―などを見てくると、現市長の市政運営には疑問符が付きます。 酒井市議が指摘している問題点は多岐にわたりますが、市が用地売却で採用したプロポーザル方式(取得価格と利用方法を購入希望業者に提出させ、それらを点数化し、総合点が高い業者に売却)がきちんと行われたかどうか、特に問題にしています。市が用地取得の条件に掲げた「防災倉庫」の提案内容や審査書類を開示するよう市に要求したところ、開示拒否あるいは黒塗りだったそうです。 こういった市の対応を受け、酒井市議は業者選定に当たり何かあったのではないかと疑っています。近畿財務局管内にあった国有地の不正売却でも財務省が文書開示を迫られ、黒塗りの書類を出して逃げ回ったという事件もありました。(経済ジャーナリスト) <参考>運動公園問題を扱った最新記事と過去コラム(青字部を押してください)・「防災拠点27年末完成へ…」(9月30日掲載)・186「…市民軽視の連鎖」(24年7月1日掲載)・152「住民訴訟の判決は…」(23年3月6日掲載)・145「…おかしな行政手順」(22年11月21日掲載)・137「リコール運動の行方…」(22年7月18日掲載)・135「…つくば市政の不思議」(22年6月20日掲載)・129「…なぜか逃げ回る市長」(22年3月21日掲載)・125「…都合がよい理屈付け」(22年1月31日掲載)