月曜日, 10月 19, 2026
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2050年 脱炭素社会実現へ 吉野彰センター長が記念講演 産総研

産業技術総合研究所(産総研)つくばセンター西事業所(つくば市小野川)に整備されたゼロエミッション国際共同研究拠点の竣工記念シンポジウムが22日、オンライン開催された。研究センター長の吉野彰さんが記念講演し、2050年カーボンニュートラル実現=メモ=に向けた研究の方向性を示す中、ネガディブエミッション技術の導入について力説した。

吉野さんはリチウムイオン二次電池の発明者の一人で、19年のノーベル化学賞を受賞した。産総研が20年に設立したゼロエミッション国際共同研究センター(GZR)の研究センター長に就任した。

ゼロエミッション国際共同研究拠点が整備されたつくば西事業所の建物群(同)

総勢240人で国際共同研究拠点

つくばの研究拠点は、西事業所本館と別棟群の一部を改修し、3月末までに約1万2000平方メートル規模で整備した。つくば地区でカーボンニュートラルに関わる研究者とスタッフを集約する形で、1日現在総勢240人10チームの体制を整えた。

次世代太陽電池、人工光合成技術、水素製造・貯蔵基盤研究などを柱に、海外研究機関との連携を深めながら推進する。目指すところは、2030年度の新たな温室効果ガス(GHG)削減目標である13年度から46%の削減、2050年には二酸化炭素をトータルでゼロにする、わが国のグリーン成長戦略の支えとなる。

この「トータルでゼロにする」意味を解説した吉野さんは、「ネガディブエミッション」の考え方を取り上げた。農業や工業には電化や省エネではどうしてもカーボンニュートラルを達成できない分野が残る。そこで、温室効果ガスの多くを占める二酸化炭素を、大気中から除去する技術で相殺を図ろうとする考え方が登場した。バイオエネルギー利用による二酸化炭素の回収貯留(BECCS)や直接空気回収(DACCS)を図る研究が進んでいるという。

吉野さんによれば、植物は夏の間、光合成で盛んに二酸化炭素を酸素と水に分解するが、冬には酸素を呼吸したり分解のために消費したりして二酸化炭素を放出する。放出の前に地下や家具などの耐久消費財のなかに貯留(CCS)してしまえば、大気中の二酸化炭素は増えない。ゲノム編集などにより植物を改質する研究やコスト低減の技術が必要になるそうだ。

大気中の二酸化炭素を地中に固定した例は、地球が長い年月をかけて石灰岩を形作ったプロセスに見られるが、今の技術では玄武岩の活用による鉱物化の加速が有望視される。「産総研には地質学の集積もあり、海洋底に豊富にある玄武岩を貯蔵に活用するための研究などが広がるのではないか」と話した。(相澤冬樹)

※メモ【カーボンニュートラル】温室効果ガスの排出を全体としてゼロにすること。菅義偉首相が昨年10月の臨時国会で「2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指す」と宣言した。

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