火曜日, 6月 16, 2026
ホームつくば【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【柴田大輔】「つくばに来て、やっと先が見えた気がしました」

夫、功二さん(44)が営む眼鏡店の2階で、原田葉子さん(44)が穏やかに話す。

福島県浪江町から避難中に経験した妊娠・出産、周囲に伝えられなかった自分のこと、未だ整理のつかない故郷への複雑な想い―。 震災は自身を取り巻く環境を大きく変えた。現在、つくば市学園の森の新興住宅地で新しい生活をスタートさせ、夫と長男の3人で暮らす。

「被災者」に後ろめたさ感じていた

「浪江出身」と伝えると返ってくる「大変だったね」「原発のとこだったんでしょ?」という言葉に、負担を感じていたという。葉子さんは、故郷の浪江町から避難し、5回、住む場所を変えてきた。その間、常に自分を「避難している人」だと感じていた。

「周囲の方に心配していただいて本当にありがたかったです。一方で、『被災者』だということに後ろめたさを感じていました」

浪江で約100年続く「原田時計店」に、2人姉妹の長女として生まれ育った。3代目の父が社長を務める同店は、時計やメガネ、貴金属などを取りそろえる老舗として地域に愛されてきた。

「浪江はたくさんの友人、親戚、地域の人とのつながりの中で生活できる『ほっとする街』でした。高校生のころは友人とカラオケに行ったり、浜辺でおしゃべりや花火をしたのが思い出です」

県内の高校を卒業し、東京の眼鏡専門学校に進学した。その後は在学中にアルバイトをしていた都内の眼科に就職する。功二さんとは学生時代に出会い、結婚後に夫婦で浪江に戻り家業を手伝った。

震災の年は、実家の近所に暮らす葉子さん夫妻が両親、祖母と同居できるように、実家の建て替えと、古くなった店舗の改築を予定していた。将来を見据え、新たなスタートを家族で切ろうとしていた矢先に震災は起きた。

故郷への思いと現状の間で葛藤

葉子さんの家は、事故を起こした福島第1原発から10キロ圏内にある。

「正直なところ、原発を危険とも安全とも思っていませんでした。普通の会社というか、工場のように『電気を作っているところ』というような。浪江から働きに行く人も多く、身近な存在でした」

地震翌日、原発事故による避難指示が出た。隣町の親戚宅へ避難すると、テレビに映る1号機が爆発した。隣の父親が「あぁ、だめだ。終わった」と言った。その横顔から感じた絶望に怖さが込み上げた。

その後、喜多方市に暮らす別の親戚を頼り、1カ月後には仕事を探すため夫婦で東京に転居した。

「私たち、財布も持たずに浪江を出てきたんです。別の場所にちょっと待機するくらいの気持ちでした。でも、その後の原発を見ていて『もしかしたら、戻れないんじゃないか』と思うようになりました」

思わぬ避難生活の長期化に不安が高まった。東京の暮らしは1年半。その間に妊娠し、千葉県の夫の実家近くに転居し男の子を出産した。

「息子が生まれるまで、浪江に戻りたいと思っていました。でも、県内に残る友人に話を聞くと、福島での生活に手放しで安心しているわけではない。情報はどれを信用していいかわからず、妊娠中はネガティブな話題を遠ざけました。精神的に余計な不安を除きたかったからです」

故郷への想いと現状の間で葛藤していた。家業の再開は常に考えていた。当時、千葉県内の眼鏡店に勤務していた夫と、何度も福島に住む両親を訪ね今後を話し合った。

「当時、浪江町民で新しいコミュニティをつくるという考えがあり、そこでの再開を考えましたが、難しくなり、県外での出店も選択肢になりました」

夫の功二さんと眼鏡店「グラン・グラス」店内で=つくば市学園の森

知人からつくばを紹介されたのはそんなときだった。諸々の条件が合致し「つくばでやっていこう」と決心した。功二さんが眼鏡店を出店し、父は福島県二本松で「原田時計店」を再開した。新しい生活の始まりに「やっと落ち着き、先が見えた」と安堵した。

それだけ年月が経った

つくばに転居する以前、千葉では言えなかったことがある。「浪江出身」ということだ。複雑な当時の心境をこう振り返る。

「『浪江から来た』と言うと、心配してくれる方がほとんどでありがたかったです。一方で、常に『大変』『原発』というイメージで見られてしまう。周囲で、仲のいい人同士が『原発』で意見が分かれる場面も何度も見ました。震災と全く関係ない、『被災者』としてではない人間関係を築きたくなってしまったんだと思います」

福島で被災したある人が心ない言葉をかけられたこと、だれかに自身の車を傷つけられた経験も、葉子さんが過去にふたをすることにつながった。

「だんだん自分のことを話すのが怖くなりました。『もう話すのはやめよう』と思ったんです」

息子が幼稚園に入ると親しい「ママ友」ができた。しかし、友人への隠しごとが辛かった。ある日、福島で活動する葉子さんの父が新聞に取り上げられた。その記事を読んだ友人は、葉子さんの背景を知り「そんなこと気にしないで、普通に付き合っていこうよ」と言ってくれた。

「ずっと言えなかったことが引っかかっていました。彼女の言葉で、すぅっと気持ちが軽くなりました。相手に気を使わせたくないとか、色々考えすぎていたんです。今は話しても、みんな普通に接してくれるのがうれしいです。それだけ年月が経ったということかもしれません」

子どもにどう説明すればいいか

浪江には毎年お墓参りに帰っている。

「浪江は時間が止まっているようで、何年経っても、最近までそこにいた気持ちになります。うまく言えませんが、自分にとって大切な場所です」

だが、8歳になる長男を連れて行ったことはまだない。その理由を、言葉を選びながらこう話す。

「震災のことをどう説明するべきか、まだわからないんです。どうしても原発のことは話さなければいけない。どう伝えるべきか」

ひと呼吸置き、言葉をつなぐ。

「原発に勤めていた知り合いも多かったですし、お店としてもお世話になっていました。全部が『悪』ではないと思うんです。そういうことではない。子どもにどう説明すればいいか、息子が理解できる年齢になる時までに、私の中できちんと整理したい。連れて行くのは、私が自分の言葉で説明できるようになってからと思っています」

震災後の10年は、家族や友人とも離れることになった辛い時間だった。だが、新しい土地でスタートさせた生活に「いろいろな方の支えのおかげです。本当に感謝しています」と話す。

「グラン・グラス」外壁に、福島の本店「原田時計店」の名が刻まれる

インタビューの最後に、息子さんの将来について質問すると、明るくこう答えた。

「息子は『メガネ屋さんになりたい』って言ってるんです。でも私たちは息子が思うようにやりたいことをやって、元気に育ってくれればいいと思ってます。万が一、継いでくれたらラッキーですけどね」

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

マリリン・モンロ一は生きている《映画探偵団》101

【コラム・冠木新市】つくば駅のバス停留所ベンチから見上げるセンタービルの景色が好きだ。正確にはホテル日航つくばだが、ここにはマリリン・モンロ一が生きている。設計者の磯崎新は、モンロ一の身体をかたどったモンロ一定規を作り、このビルにモンロ一の身体の曲線(モンロ一カ一ブ)を組み込んだ。だからセンタービルは、マリリン・モンロ一の象徴ともいえる。 モンロ一が好きな人は、センタービルが好きだと思う。だが、ここで問題がある。映画の金髪で少しおバカさんのキャラクタ一が好きか?女優モンロ一の生き方が好きか?で分かれると思う。私はどちらも好きなのだが、映画のキャラクタ一が嫌いな人は、センタービルは苦手なのではなかろうか。 今年6月1日、モンロ一は生誕100周年を迎えた。1月に「北条芸者ロマンの唄が聞こえる」を公演したあと、モンロ一のイベントを予定していたが、急きょサンフランシスコ講和条約75周年記念の詩劇コンサート「憎しみは愛によって止む」が飛び込んで来て、企画を延期することにした。 私がモンロ一を評価するのは、演技は別にして、原水爆を嫌悪した女優だからだ。また、同じ役どころしか与えない映画会社に抵抗して、モンロ一プロダクションを作り、独自に映画製作に乗り出したことだ。「モンロ一は戦う芸術家」なのである。 1954年、新婚旅行で来日した際、広島で原爆ドームから原爆記念館、原爆傷害調査委員会を訪れ、何度もため息をついたという。米国が落とした原爆の現実を知り、反対の思いを抱いたと思われる。 M・モンローの「バス停留所」 モンロ一プロダクションの第1作は「バス停留所」(1956)だ。クラブ歌手シェリーが酒場で唄う場面があるが、ヘタクソなのだ。いや、ヘタに唄っているのだ。ヘタクソに唄うことがどれほど難しいことか。モンロ一の演技力に驚かされる。 また、作品中に自分の人生を暗示してもいる。シェリーは同僚に1枚の地図を見せる。そこには赤い一本の線が引かれ、生まれた場所から、ハリウッドまで一直線で結ばれている。シェリーはハリウッドの女優を目指していた。しかし、ラストではその路線を拒否し、牧童の妻になる道を選ぶ。 もう一つ語っておこう。「バス停留所」は、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズに強く影響を与えている。第1作で、おいちゃん(森川信)が寅さん(渥美清)にげんこつを加える場面が出てくる。これの元ネタと思える場面が「バス停留所」にある。さらに、寅さんと恋仲になるクラブ歌手リリー(浅丘ルリ子)の元ネタは「バス停留所」のシェリーではないのか。 磯崎新と山田洋次は東大同級生 となると、日本的なものは排除して造られたセンタービルには、寅さんの影がほのめく。磯崎新と山田洋次は東大で同級生だった。センタービルのモンロ一と寅さんはオーバーラップしている。 渥美清は浅草六区の小屋出身の芸人。浅草六区の礎を作った根岸浜吉は旧筑波町の小田出身。筑波と浅草は歴史的に縁がある。つくばエクスプレスで浅草と結ばれている。35年近くセンタービル付近を観察していると、つくばは浅草化して庶民的な雰囲気になってきているように感じてならない。 つくば駅バス停留所で待ち合わせしていて、そんな妄想が次々と湧いてきた。これから、「世界のつくばセンタービル物語/マリリン・モンロ一は生きている」(仮)の打ち合わせがある。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <映画とお話:つくばセンタービルについて>・日時:6月27日(土)午後1時〜3時、参加費無料・場所:つくばカピオ小会議室2・主催:一般社団法人スマイルアップ推進委員会・次回作のスタッフ・キャスト募集中

つくばエリアの「独立」を考える《吾妻カガミ》220

【コラム・坂本栄】人口が増えている「つくばエリア」は人口が減っている県から独立し、独自の行政区を結成したらどうか、と私は考えています。5月、この持論を補強する情報が二つ飛び込んできました。一つは、つくば市の人口が水戸市を抜いたというニュース。もう一つは、日本経済新聞電子版の「政令市が道府県から独立…」というタイトルの記事です。 下り坂の県と上り坂のつくば つくば市の人口が水戸市を上回ったとの国勢調査速報は、皆さんご存知と思います。本サイトの記事「つくば市の人口、水戸市を抜いて…」(5月29日掲載)によれば、「つくば市の昨年10月1日時点での人口は26万8991人となり、水戸市の26万5773人を3218人上回って、県内一に…」なりました。 同じ調査で分かった県全体の人口減、つくば市の人口増(水戸とつくばの人口逆転はこのシンボリックな表現)は、水戸を拠点にして県全体を見ている県庁をおかしな行動に走らせています。少子化を踏まえて県立高のリストラを進める県が、つくばエリアの児童増に目配りせず、同エリア内での県立高新設を渋るのもその一つでしょう。 私はこういった傾向を「下り坂の県」と「上り坂の市」と定義、139「…のおはなし」(22年8月15日掲載)の中で、「県と市が置かれている状況と方向が違うのだから、つくば市は県から『独立』したらどうか」と提案しました。さらに、202「つくばの県立高問題は動く?」(25年2月17日掲載)では、「…『上り坂』のつくば市を中核とする人口50万人以上の政令指定都市を設け、『下り坂』の県から『独立』するアプローチも考えられます」と書きました。 政令指定都市による独立構想でイメージしていたのは、神奈川県における横浜市(県庁所在市)や宮城県における仙台市(同)などの大都市です。つくば市に県庁は存在しませんが、県庁所在市は政令指定都市の必要条件ではありません。 「特別市」という独立の形 驚いたのは、日経電子版の「政令市が道府県から独立、『特別市』再び議論…」(2026年5月27日19:00)という見出しの記事です。そのリードでは「地方制度調査会(地制調)は2027年度中にも『特別自治市(特別市)』の制度に関する答申をまとめる。…大都市を県から独立した位置づけにする特別市について税のあり方などを検討する」と報じています。 県内の政令指定都市(人口要件50万以上)は県の行政下に置かれますが、「特別市」の行政権限は県から切り離され、より強い形で独立できるそうです。国レベルでいえば、イタリア国内にあるバチカン市国のイメージでしょうか。川崎市(非県庁所在市)の福田紀彦市長のコメント「地域での核となる都市を成長させ、多極分散型を実現することで日本全体にも効果を還元できる」は、とても説得力がありました。 つくばエリア(県の分類では、つくば、土浦、つくばみらい、守谷、牛久、常総、下妻の7市)の人口は合計約70万ですから、政令指定都市になる条件を満たしています。でもそこにとどまらず、一気に「特別市」に移行(県から完全に独立)、北関東の「核都市」を目指すのも面白いと思います。(経済ジャーナリスト、坂本栄)

名門バレエダンサーが直接指導 子供たちが基本動作に挑戦 つくば

アジアを代表する名門「香港バレエ団」所属のバレエダンサーが直接指導する「セキショウこどもバレエ教室」が13日、つくば市天久保、筑波大学中央体育館で催され、つくば市などに住む4歳から12歳の子供たち46人が初心者クラスと経験者クラスに分かれてバレエのレッスンを受けた。 バレエを通じて体を動かす楽しさを体感してもらおうと、関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)が主催した。同社とつくば市が締結している「SDGsの推進に係る包括連携協定」に基づく事業として初めて開催し、同市が後援した。 同バレエ団に所属する香港出身のへネス・ユンさん(29)と、つくば市出身の関剛多さん(25)が来日し、優雅な演技を子供たちの間近で披露したり、基本動作を手ほどきしたり、音楽に合わせて一緒に踊るなどした。 初心者クラスには30人が参加。子供たちは、両足のかかとを付けてつま先を左右に開いてまっすぐ立つ「一番ポーズ」と呼ばれる基本姿勢に挑戦したり、つま先で立って小幅で足踏みしながら回ったり、ひざとつま先を伸ばして片足を上げるなど、バレエの基本動作に挑み、最後に、基本動作を組み合わせて音楽に合わせて踊るなどした。 友達3人で参加した市立竹園西小6年の筒井英(はな)さん(12)は「Kポップのダンスをやっているので、柔軟体操に生かしたいと参加した。つま先立ちが難しかったが、やってみたら興味がもてた」などと話していた。 子どもたちとの質問の時間も設けられ「きれいな姿勢を保つこつはありますか」との子供たちの質問に、へネスさんは「毎日毎日練習していると、きれいな姿勢になってくる。きれいな姿勢をしてないと体が痛くなることもある」などと答えていた。 指導した関さんは「バレエを通して、体を動かすことが楽しいと子供たちに伝えることができたら」と語り、へネスさんは「何かに興味をもつということは、楽しみだけでなく、自分の性格を知ったり、大人になった時の自分の芯をつくるものでもあると思う」と話していた。(鈴木宏子)

2026年初夏の裏磐梯《鳥撮り三昧》10

【コラム・海老原信一】4月下旬~5月中旬の3度の裏磐梯通いが、今シーズンの高原探鳥の始まりになりました。昨冬は雪が少なめでしたが、今冬はそれ以上に少なめでした。例年なら、残雪が低木を地面に押し付け、暖かくなった陽射しで雪が緩み、木々が軽くなった雪を跳ね上げる。その「バサッ」という音で季節の変わり目を感じたものです。 ところが、今年は大分勝手が違っていました。森に残雪はなく、木々は早くも薄緑の葉を茂らせ、森の見通しは効かない―すでに初夏そのものです。そうなると、不安が頭をもたげます。これじゃ~鳥が見えない、少し距離をとっての観察ができない、葉の茂る中からひょいと現れたらレンズを向ける暇もない、と。 その上、「今シーズンの夏鳥の飛来が少ない気がするなあ」との鳥見仲間の声も聞こえてきて、不安が一層募ります。森の入り口に立つとキビタキのさえずりが響いてくるはずなのにそれもなかったし、コサメビタキなどの姿も見ない、アオジがやぶ中を歩き回る姿もなかったし、と。 肩にした機材を重く感じながら、両側の緑が濃くなりつつある森の中の野鳥を探して、定められた散策路をいつもの観察場所へと向かいます。そこは森の高台に近く、視界が開けて木々の中腹が視線の高さに近いので、野鳥たちを見上げないで観察できる「よい場所」なのです。 14年ぶりに会えたノジコ さて、3度通った結果ですが、3度とも不安がそのままの結果となりました。今回ほど鳥たちの観察数が少なかった裏磐梯通いは、初体験です。さえずり声が聞こえないのは、「飛来数が少ないから縄張り争いが必要ないのだろうか」なんて考えました。 それでも、オオルリ、クロツグミ、コムクドリと、それぞれ一度だけですが会えました。それに、キビタキ、コサメビタキ、サンショウクイ、ゴジュウカラ、アカゲラ、オオアカゲラ、アオゲラ、ニュウナイスズメなども、数は少ないなりに観察できました。一方、ウグイスの元気さは別格です。あの「ホウー、ホケキョ」を聞くと元気が出ます。身を絞るようにしてさえずる様子は、生きるための必死さを感じます。 今回の裏磐梯行で最もうれしかったのは、14年ぶりに観察・撮影できた種に会えたことです。それはノジコ。アオジによく似た種で、降雪の比較的多い平地や山地の林に生息する種で、裏磐梯以外では奥日光で観察した記憶があります。「もう会えないだろう」と思っていただけに、うれしさは格別でした。(写真家)