木曜日, 12月 18, 2025
ホームつくば【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【震災10年】2 浪江出身と言えなかった 原田葉子さん

【柴田大輔】「つくばに来て、やっと先が見えた気がしました」

夫、功二さん(44)が営む眼鏡店の2階で、原田葉子さん(44)が穏やかに話す。

福島県浪江町から避難中に経験した妊娠・出産、周囲に伝えられなかった自分のこと、未だ整理のつかない故郷への複雑な想い―。 震災は自身を取り巻く環境を大きく変えた。現在、つくば市学園の森の新興住宅地で新しい生活をスタートさせ、夫と長男の3人で暮らす。

「被災者」に後ろめたさ感じていた

「浪江出身」と伝えると返ってくる「大変だったね」「原発のとこだったんでしょ?」という言葉に、負担を感じていたという。葉子さんは、故郷の浪江町から避難し、5回、住む場所を変えてきた。その間、常に自分を「避難している人」だと感じていた。

「周囲の方に心配していただいて本当にありがたかったです。一方で、『被災者』だということに後ろめたさを感じていました」

浪江で約100年続く「原田時計店」に、2人姉妹の長女として生まれ育った。3代目の父が社長を務める同店は、時計やメガネ、貴金属などを取りそろえる老舗として地域に愛されてきた。

「浪江はたくさんの友人、親戚、地域の人とのつながりの中で生活できる『ほっとする街』でした。高校生のころは友人とカラオケに行ったり、浜辺でおしゃべりや花火をしたのが思い出です」

県内の高校を卒業し、東京の眼鏡専門学校に進学した。その後は在学中にアルバイトをしていた都内の眼科に就職する。功二さんとは学生時代に出会い、結婚後に夫婦で浪江に戻り家業を手伝った。

震災の年は、実家の近所に暮らす葉子さん夫妻が両親、祖母と同居できるように、実家の建て替えと、古くなった店舗の改築を予定していた。将来を見据え、新たなスタートを家族で切ろうとしていた矢先に震災は起きた。

故郷への思いと現状の間で葛藤

葉子さんの家は、事故を起こした福島第1原発から10キロ圏内にある。

「正直なところ、原発を危険とも安全とも思っていませんでした。普通の会社というか、工場のように『電気を作っているところ』というような。浪江から働きに行く人も多く、身近な存在でした」

地震翌日、原発事故による避難指示が出た。隣町の親戚宅へ避難すると、テレビに映る1号機が爆発した。隣の父親が「あぁ、だめだ。終わった」と言った。その横顔から感じた絶望に怖さが込み上げた。

その後、喜多方市に暮らす別の親戚を頼り、1カ月後には仕事を探すため夫婦で東京に転居した。

「私たち、財布も持たずに浪江を出てきたんです。別の場所にちょっと待機するくらいの気持ちでした。でも、その後の原発を見ていて『もしかしたら、戻れないんじゃないか』と思うようになりました」

思わぬ避難生活の長期化に不安が高まった。東京の暮らしは1年半。その間に妊娠し、千葉県の夫の実家近くに転居し男の子を出産した。

「息子が生まれるまで、浪江に戻りたいと思っていました。でも、県内に残る友人に話を聞くと、福島での生活に手放しで安心しているわけではない。情報はどれを信用していいかわからず、妊娠中はネガティブな話題を遠ざけました。精神的に余計な不安を除きたかったからです」

故郷への想いと現状の間で葛藤していた。家業の再開は常に考えていた。当時、千葉県内の眼鏡店に勤務していた夫と、何度も福島に住む両親を訪ね今後を話し合った。

「当時、浪江町民で新しいコミュニティをつくるという考えがあり、そこでの再開を考えましたが、難しくなり、県外での出店も選択肢になりました」

夫の功二さんと眼鏡店「グラン・グラス」店内で=つくば市学園の森

知人からつくばを紹介されたのはそんなときだった。諸々の条件が合致し「つくばでやっていこう」と決心した。功二さんが眼鏡店を出店し、父は福島県二本松で「原田時計店」を再開した。新しい生活の始まりに「やっと落ち着き、先が見えた」と安堵した。

それだけ年月が経った

つくばに転居する以前、千葉では言えなかったことがある。「浪江出身」ということだ。複雑な当時の心境をこう振り返る。

「『浪江から来た』と言うと、心配してくれる方がほとんどでありがたかったです。一方で、常に『大変』『原発』というイメージで見られてしまう。周囲で、仲のいい人同士が『原発』で意見が分かれる場面も何度も見ました。震災と全く関係ない、『被災者』としてではない人間関係を築きたくなってしまったんだと思います」

福島で被災したある人が心ない言葉をかけられたこと、だれかに自身の車を傷つけられた経験も、葉子さんが過去にふたをすることにつながった。

「だんだん自分のことを話すのが怖くなりました。『もう話すのはやめよう』と思ったんです」

息子が幼稚園に入ると親しい「ママ友」ができた。しかし、友人への隠しごとが辛かった。ある日、福島で活動する葉子さんの父が新聞に取り上げられた。その記事を読んだ友人は、葉子さんの背景を知り「そんなこと気にしないで、普通に付き合っていこうよ」と言ってくれた。

「ずっと言えなかったことが引っかかっていました。彼女の言葉で、すぅっと気持ちが軽くなりました。相手に気を使わせたくないとか、色々考えすぎていたんです。今は話しても、みんな普通に接してくれるのがうれしいです。それだけ年月が経ったということかもしれません」

子どもにどう説明すればいいか

浪江には毎年お墓参りに帰っている。

「浪江は時間が止まっているようで、何年経っても、最近までそこにいた気持ちになります。うまく言えませんが、自分にとって大切な場所です」

だが、8歳になる長男を連れて行ったことはまだない。その理由を、言葉を選びながらこう話す。

「震災のことをどう説明するべきか、まだわからないんです。どうしても原発のことは話さなければいけない。どう伝えるべきか」

ひと呼吸置き、言葉をつなぐ。

「原発に勤めていた知り合いも多かったですし、お店としてもお世話になっていました。全部が『悪』ではないと思うんです。そういうことではない。子どもにどう説明すればいいか、息子が理解できる年齢になる時までに、私の中できちんと整理したい。連れて行くのは、私が自分の言葉で説明できるようになってからと思っています」

震災後の10年は、家族や友人とも離れることになった辛い時間だった。だが、新しい土地でスタートさせた生活に「いろいろな方の支えのおかげです。本当に感謝しています」と話す。

「グラン・グラス」外壁に、福島の本店「原田時計店」の名が刻まれる

インタビューの最後に、息子さんの将来について質問すると、明るくこう答えた。

「息子は『メガネ屋さんになりたい』って言ってるんです。でも私たちは息子が思うようにやりたいことをやって、元気に育ってくれればいいと思ってます。万が一、継いでくれたらラッキーですけどね」

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

老舗のパン屋さん「ピーターパン」《ご飯は世界を救う》70

【コラム・川浪せつ子】つくば市には多くのパン屋さんがあります。何十年も前から海外の方々が多くお住まいだったからのようです。つまり、パン食の方が多くて―ですね。そのため、つくば市は「パンの街」とも呼ばれています。 その中でも一番の老舗のお店、「ピーターパン」さん(つくば市並木)。合併してつくば市ができる前の1979年、旧桜村に開業したそうです。なんと、開店から46年にもなります。店主さんは高齢にもかかわらず、街の皆さんの胃袋と心を癒し続けていらっしゃるわけです。 現在は並木に1軒のみ。以前、吾妻にもありましたが、数年前に労働力不足のため閉店しています。ですが、TXつくば駅(地下1階)改札口近くにある「つくば良い品」でも販売されています。TXで都内から帰るとき、必ず買っています。 並木店は我が家から少し距離があり、このところご無沙汰でした。それが、最近、はまっています。きっかけは、SNSのXの投稿を見てからです。2年前、地域の事柄を知りたくて、アカウントを作りました。そこで「ピーターパン」にはイートインもあることを知り、通うようになりました。 10円でコーヒーも飲めます パンの購入だけでなく、「イートインします」と、レジ横の紙コップを差し出すと、10円でコーヒーを飲めます。これって、今風にいうと「神価格」ですよね。「物価高の中、大丈夫なのだろうか」と心配になります。 先日イートインしたとき、1冊の写真集を見つけました。いろいろな小物を飾っている棚に、見たことがある男性の写真集が…。朝ドラ「あんぱん」の主役やなせたかしさんの弟を好演した方でした。茨城県出身とのこと。並木近くに住み、ここに通っていた? Xですが、いろいろ役立っています。私は、つくば市周辺の「絵」になる場所、飲食店を探していますが、情報収集に大いに役立っています。使い方によって、SNSは良くない方に行くこともあるようですが、Instagram(インスタグラム)では世界中の画家さんの絵を見ることができ、大いに参考になります。 そういった絵から刺激ももらい、私の絵も見てもらうことで、やる気が倍増しています。Instagramには同じ志の方の絵がアップされています。いろいろな方と絵の仲間になり、グループ展を見に行くのも楽しみです。(イラストレーター)

市長自白の条例違反が15年‼ その顛末てんまつ つくば市保健センター《投稿》

【投稿・鳥居徹夫】今年9月の定例市議会で、つくば市保健センター条例から茎崎保健センターの記載が削除され、つくば市地域交流センター条例に「茎崎交流センター別館」を新たに加える議案が同時提出され、審議もなく全会一致で決定となった。 「広報つくば」12月号によると、17日に「茎崎保健センターが新しく生まれ変わり、茎崎交流センター別館としてオープンします」と広報されている。 場所は「茎崎保健センター」があった建物だが、条例に定められていたはずの保健センターの機能は15年前からなく、条例にあった「茎崎保健センター」の字句も、建物の名称も、ついに消滅した。 既存施設の代替を理由に、15年続いた条例違反の異常事態が解消され、つくば市長や市幹部にとっては「のどに突っかかった小骨」が取れてほっとしていることであろう。 市長は条例違反を知っていた 2023年10月14日のタウンミーティングで私は、「つくば市保健センター条例が守られていない状況というのは、やっぱり改善してほしい」と発言した。五十嵐立青市長は「ご指摘の部分はおっしゃる通りの状況で…」と条例違反を自白した。 しかし市長は「建物は存続するが、機能は廃止する」と強弁。条例違反を追認したばかりか、逆に(条例違反の)現実に条例を合わせ、保健センター条例を改悪すると居直ったが、今日まで条例に手が付けられなかった。(2024年4月4日付) 市保健センター条例には、第2条に「名称および位置」として茎崎保健センターなど4カ所が明記されていた。第4条に「業務」として(1)検診等(2)健康相談や健康教育(3)保健指導、栄養指導(4)機能回復訓練(5)衛生知識の普及等ーを明記、第5条で、各保健センターに「必要な職員を置く」となっている。 「茎崎保健センター」では、第4条(1)の検診等は春と秋の2回、茎崎保健センターの建物を使っていたが、貸し会議室のような存在。検診の結果が出ると谷田部保健センターから保健師が来て、会場を借りて、相談希望者に対応している。さらに常駐の保健師がいないので、第4条 (2)(3)(4)(5)は有名無実。また第5条に定める必要な職員は不在だった。 茎崎保健センターから責任者(センター長)と保健師が不在となったのが2010年であり、条例違反が15年も続いていた。 この経過を「NEWSつくば」に投稿したところ、多くのコメントを頂いた。「頼れる福祉」ではなく「頼りにならない市長だった」としたツッコミには、思わず噴き出した。現市長の「公約ロードマップ(工程表)」の5本の柱の3番目が「頼れる福祉」だが、それを皮肉ったコメントであった。 その場しのぎの市幹部、問われる議会のチェック機能 何度も言うが、条例違反の状況は、2010年から15年間も続いていた。「意図的な長期間の違反放置」が、住民や市議会議員が条例空文化に疑問を持たせないための行政側による仕掛けとなってはならないことは言うまでもない。 「茎崎保健センター」から保健師等が不在となり、利活用を検討した当時の担当が公有地利活用推進課だったことは、市が保健センター条例違反を追認していたことになる。仮に「利用者が少ない」としても、条例違反を常態化して良いことにはならない。 その当時、市議会の本会議で、茎崎保健センターの解体問題が取り上げられた。五十嵐市長は「(保健センターとしての)相談件数が減っている」と強弁したが、橋本佳子議員(当時)が「保健師が撤退したから、相談件数が減るのは当然」と反論した。 地域にドラッグストアがあれば、住民は利用するが、ドラッグストアがなければ、住民は利用しない。そもそも利用できない。そして市街地がさびれるという悪循環となる。 しかし、今年9月議会では、市長を追及した会派も含め全会一致で、「茎崎保健センター」の名称削除を決定し、保健センター機能の復活の芽が摘まれることとなった。 ちょうど5年前の2020年に、茎崎庁舎跡地利用に関する住民説明会があった。市から「保健センターの建物を解体し、その跡地を商業施設の用地にする」の提案があり紛糾した。 住民から「保健センターの機能は蒸発するのか」(保健部が担当)、「解体工事中の茎崎窓口センターは、どうなるのか」(市民部が担当)などの質問に対し、都市計画部(公有地利活用推進課)から責任ある答弁がされず、さらに「行政のタテ割りの弊害が問題ではないか」と批判された。 この住民説明会には、事前に内容を知っていると思われていた複数の現職の市議会議員までもが疑問に感じたのか発言があり、意見を述べた。 当時担当課は「40歳以上の集団健診については最悪、谷田部保健センターになる可能性もある」などと説明したが、とうてい納得できるものではなかった。 茎崎保健センターの建物が、都市計画部公有地利活用推進課の担当となったことで、当時の茎崎庁舎の跡地利用問題に対し、商業施設誘致と保健センターの建物と、どちらかを選択せよという誤ったメッセージを、茎崎地区の区長会、住民に与えることになったことになったのではないか(2020年8月7日付)。  結局、茎崎保健センターの建物は、解体は阻止され、現在地でリニューアルとなり、この12月に茎崎交流センター別館としてオープンとなる。また集団検診の会場として利用することにもなった。 そして新たな商業施設は、当初の計画より規模を縮小し、昨年2023年に車の通行量の多い県道沿いにオープンした。 だれも責任をとらないまま これら一連の動きの中で、茎崎保健センターは、保健師の配置等、条例違反だったという問題はだれも責任をとらないままであった。 この条例違反は、いまの市長就任前からであるが、現市長には再発防止も含めた説明責任がある。とくに①条例違反になったことを知ったのはいつか、②条例違反を知っていたのに、条例を守らず、現状を放任していたのはなぜか、など説明する義務がある。また市議会こそ追及すべきであった。 条例違反を既成事実化し、既成事実をもとに条例改悪を押し付けた市長と市幹部。条例があるのに勝手に無視し、長期に役割を放棄してきた不都合な真実がばれた。ばれなかったら、表沙汰にならなかった。 役所の密室の中で、住民が知らないうちに、いや、知らせないお上(おかみ)体質の中で、住民は口出しするな、批判するなということではないか。 条例違反を15年続けていながら、だれも責任をとらないまま、ある日、交流センター別館に代わるのであった。とりわけ市議会のチェック機能、市民への情報公開の意欲が欠如していると感ずる。 地方政治に関心が高まる流れも 「地方自治は民主主義の学校」と言うが、多くの一般住民は地方行政や住民サービス、納めた住民税の使われ方についての関心が薄い。市長の名前も知らない有権者も相当数であろうし、市行政への提言要望やチェック機能を担う市議会議員も存在感が薄い。 つくば市は、首都圏の通勤圏内にあるTX沿線で若い世代を中心に人口が増加、子供の人口も増えて、学校の新設が相次いでいる。一方、周辺部は高齢化が進み、子供の数が減り人口減少が進んでいる。 いま市内の保健センターは、子供の多い地区など3カ所のみの配置となり、高齢化が進む市内周辺地域には存在しない。 地方政治には国政ほど関心がないし、国政選挙と重ならない地方選挙では、投票率が3割を切るケースも出ている。 ところが昨今、国政では大きな変化がみられる。投票率でみると、昨年の衆議院選挙(53.9%)よりも、今年の参議院選挙(58.5%)の方が高いという逆転現象がみられた。参議院選挙は身近でないと思われ関心も薄く、今年は7月の3連休の真ん中の日曜日であった。 いま18歳選挙権の定着もあって、若い世代が投票に行くようになった。6年前の参議院選挙(48.8%)と比べると、投票率が10%も増えている。ここ数年の国政選挙の投票率の上昇局面は、若者ら有権者の関心の高まりがあり、ニューメディア・オールドメディアを問わず、政治や行政が大きく取り上げられている。 地方自治への無関心は、地域住民の生活や福祉の停滞に、深くかかわってくる。自治体の政治や行政に、国政と同様に関心を強めることは当然である。 この国政への関心の高まりは、地方政治・行政にも押し寄せるのではないだろうか。「世界のつくば」の中身が問われてくる。 (政治労働問題研究者・認定コメンテーター)

自然と等身大で向き合う遊び仕事(4)《デザインを考える》27

【コラム・三橋俊雄】今回取り上げる「遊び仕事」は、京都府宮津市由良地区に伝わる「にごりすくい」と「手長エビ漁」についてです。 にごりすくい 由良川は、大雨で濁ると水中の酸素が不足し、魚たちはふらついて川のよどみに集まります。そこを「タモ」と呼ばれる大きな網で上流から下流へすくい、ぐるりと岸へ寄せて捕える漁法があります。アユもコイもウナギも一度に捕れるため、「これほど面白い漁はない」と評されたものです。 昭和30〜40年頃までは広く行われていましたが、現在では大雨時の危険性から禁止されている地域もあります。タモは、杉の枝を巧みに曲げ、直径数ミリのしなやかな枝先を両側から重ね合わせて糸で縛り、輪を作ったものです(図1)。柄の長さは約4メートル。網の部分には絹糸が用いられ、女性たちが編み上げ、毎年柿渋に浸して干すことで補強していたとのこと。 手長エビ漁 網を使った漁法では、サナギや身欠きニシンを餌に糸でつり下げ、手長エビをおびき出します。エビが姿を現したところを、直径20センチほどの細長い小さな網で捕えます。エビは驚くと後方へ逃げようとするため、その習性を利用し、背後からそっと網を差し入れて捕えます。 一方、「モンドリ」を用いた漁は、由良川で6月から12月にかけて行われます。モンドリにサナギを入れて円錐形のふたをし、10カ所ほどに沈めて紐(ひも)の一端を川辺の石に結び固定します(図2)。2日ほどたったら、Y字型の枝先にひっかけて仕掛けを引き上げます。一つのモンドリに7〜8尾、合わせて80尾ほど捕れることもあります。 捕れた手長エビは高級食材ですが、売るのではなく、天ぷらにして家族や友人に振る舞われます。私も学生たちとともに、何度もその味を楽しませていただきました。 地域の伝統的生活文化を継承 これこそが「遊び仕事」の世界です。自然に分け入り、プリミティブな道具を用いて相手と同じ土俵で獲物を追う。これまでの体験で培ったスキルを駆使し、身体感覚を総動員して得られた成果は、自らの喜びとなるだけでなく、仲間内での誇りや自慢にもつながります。さらに、その成果をお裾分けすることによって、また新たな喜びが生まれていきます。 すなわち、「遊び仕事」とは、①人間行動の本質である「遊び」を通じて、自らが自然との関係を結ぶ第一歩であり、②自然と人間が等身大で向き合える貴重な共生の場でもあります。さらに、③「遊び仕事」を通じて身近な自然や生活文化の豊かさを再認識することができ、地域の伝統的生活文化の継承・保全、そして地域の活性化にもつながります。 翻って、今日の私たちは情報化やバーチャル社会のただ中にあります。だからこそ、「遊び仕事」の経験は、④自然との「生身の」付き合い方を体験できる、大切な学びの場ともなるのはないでしょうか。(ソーシャルデザイナー)

「支える人が守られる環境を」児童相談所元職員 飯島章太さん講演会 21日 土浦

「誰かを支えたいと願う人こそ、大切にされる職場であってほしい」—。千葉県の児童相談所・一時保護所で勤務していた元職員の飯島章太さん(32)はこう訴える。 飯島さんは、過酷な労働環境で体調を崩し退職を余儀なくされたとして、千葉県に未払い賃金や慰謝料の支払いを求めて提訴している。21日、土浦市川口の古書店「生存書房」で、飯島さんの講演会「労働としてのケアを考える~千葉児童相談所裁判が問うこと」(茨城不安定労働組合主催)が開かれる。「心身が守られない職場環境のしわ寄せが、本来守られるべき子どもたちに及んでいる」と語る。 精神疾患の長期療養 3倍 飯島さんが、千葉県 市川児童相談所の一時保護所で児童指導員として勤務を始めたのは2019年4月。虐待などで家庭に居られなくなった子どもを保護し、生活支援や自立に向けたサポートを行う役割だった。現場では、定員の倍となる約40人が入所し、多い日は一人で20人の子どもを見なければならなかった。 職員不足の中、休憩はほとんど取れなかった。午前8時半から午後5時15分までの日勤では、学習支援、食事や掃除のサポート、レクリエーションなどに対応した。精神的に不安定な子どもも多く、けんかや事故など不意のトラブルにも注意を払わなければならない。不慣れな職場で十分な研修もないまま、先輩の仕事を「見よう見まね」で覚えていった。残業も頻繁で、行動観察記録や学習プリントの確認などの事務作業を終える頃には、午後8時を過ぎることも多かった。 月に4~6回の宿直勤務は、2人の職員で40人を担当した。約21時間勤務の上、残業もあった。子どもたちの就寝後は、翌日の会議や行事の準備、子ども一人ずつの記録作成に追われた。緊急一時保護の受け入れや体調不良の子どもへの対応で、仮眠時間は廊下に布団を敷いて待機し、「横になれても眠れたことはほとんどなかった」と振り返る。 こうした勤務の中で飯島さんはうつ病を発症。休職と復職を繰り返し、2021年11月に退職することになる。翌22年7月、千葉県を相手取り総額1200万円の損害賠償を求め千葉地裁に訴訟を起こした。 「自分の経験を個人的な問題で終わらせたくなかった」と飯島さんは話す。千葉県では2020年度、児童相談所の専門職員の精神疾患による長期療養取得率は、他の県職員の3倍以上にのぼり、その約半数が20代だった。体調を崩したのは、決して飯島さん個人の問題ではなかった。 子どもを管理する葛藤 勤務する中で飯島さんが最もつらかったのは、「子どもを支えたい」という思いで選んだ職場で、いつしか子どもを「管理する側」に回ってしまったことだった。飯島さんは、大学2年から6年以上、子どもの電話相談ボランティアを続けていた。修士論文のテーマにもしたこの経験を生かし、「子どもの側に立ち、丁寧に話を聞き、支えになれる仕事」として選んだのが児童相談所だった。 しかし実際の現場では、思い描いた仕事はできなかった。子どもたちは多数の細かいルールに縛られていたからだ。ティッシュ1枚を使うにも職員の許可が必要とされ、起床時間まで布団から出てはならず、食事は完食が原則で、残すには許可と謝罪が必要とされた。根拠があいまいな規則に従わないと、強く叱責される子どももいた。集団生活を送る上で規律は必要とはいえ、「刑務所みたい」とつぶやく子どもを目の当たりにし、「家庭で傷ついた子どもを、さらに傷つけてしまっているのではないか」と葛藤した。しかし激務の中で、抱いた違和感はまひしていったという。 「本当は一人ひとりの話を丁寧に聞き、その子の背景を理解しながら支援につなげたかった。学生時代にしていた電話相談の延長線のような仕事がしたかったんだと思う」と飯島さん。学生時代に積み重ねてきた経験が無価値になっていくことに追い詰められていく。ふと我に返った時、自分を信じられなくなる恐怖に襲われた。そして、心身は限界を迎えた。 応援してくれる人は必ずいる 訴訟では12人の弁護士が弁護団「じそう弁護団ちば」を結成し飯島さんを支えている。千葉地裁は、飯島さんが、人員不足や多忙により十分な研修がないまま現場に配属されたこと、休憩や仮眠時間にも作業があったことなどが「安全配慮義務違反」にあたると認め、県に50万円の支払いを命じた。県は即日控訴し、東京高裁での控訴審は10月9日に結審。現在、和解協議が進められている。 飯島さんは「紆余曲折の中でも、今こうして生きてこられたのは、多くの人の支えがあったから」と語る。一方で、「児童相談所に対して世間からは厳しい声も多い。職場では、社会に味方がいるのかと不安になる職員もいた。でも裁判を通じて、応援してくれる人は必ずいると実感できた」と振り返る。 今回の講演会に向けて「今も不安を抱えながら現場で働く職員はたくさんいる中で、120%の力で働く職員に『頑張って』とは言えないが、こういう仕事を選び、子どもたちのために働く人がいることを多くの人に知ってほしい。社会の中で、児童相談所が抱える問題に関心が広がり、職場環境が改善されることで職員が安心して働けるようになれば、それが何より子どものためにつながる」と語る。(柴田大輔) ◆飯島章太さんの講演会「労働としてのケアを考える~千葉児童相談所裁判が問うこと」は21日(日)午後2時から、土浦市川口2-2-12、古書店「生存書房」で開催。参加費無料。参加申し込みは専用サイト、またはメールibarakifuantei@gmail.com(茨城不安定労働組合)、電話050-1808-8525(生存書房)へ。