火曜日, 10月 6, 2026
ホームつくば【震災10年】1 つくばで100年の歴史をつなぐ 原田功二さん

【震災10年】1 つくばで100年の歴史をつなぐ 原田功二さん

東日本大震災から10年を迎える。福島原発事故から避難し、つくば、土浦で生活を再建しようとしている6人に話を聞いた。

【柴田大輔】「浪江に住み続けたい」と誰もがそう思える街をつくりたかった。震災は、原田功二さん(44)らが未来を見据えた街づくりの最中に起きた。

つくば市学園の森の新興住宅地に、元・浪江町商工会青年部長の原田さんは眼鏡店「グラン・グラス」を2018年にオープンさせた。真新しい店内だ。

グラン・グラス店内=つくば市学園の森3-10-2

地域おこしのさなかに起きた

「私は浪江の人に育てられたんです」

千葉県柏市出身の原田さんは、結婚を機に福島県浪江町に移住した。妻・葉子さん(44)の実家は浪江で3代続く「原田時計店」。1925年に開業し、時計や眼鏡、貴金属などを扱う地域に根ざした老舗の商店だ。原田さんは千葉県の大学を卒業後、当時交際していた葉子さんの実家の家業を継ぐため、専門学校で認定眼鏡士の資格を取り、眼鏡部門を担当した。

葉子さんは2人姉妹の長女。将来は福島に行くのかなという思いはあったし、浪江ののんびりした雰囲気も気に入っていた。

浪江では生活に慣れるまで時間がかかった。当初は友人もなく、新しい仕事に忙殺され「ほとんど引きこもり状態」だった。「人との距離が近く、横の繋がりが不可欠」な浪江の社会にも馴染めなかった。

「外で静かに飲もうとしても、必ず知り合いに会って話し掛けられる。それが苦手でした。でも、その距離感が心地よくなっていきました」

誰もが見知る地域だからこその信頼感、互いを気遣う「持ちつ持たれつ」の暮らしに、原田さんは次第に「安心感」を覚えた。その後、地元消防団、商工会に入り、会合や祭りに積極的に参加した。

震災前の浪江は、日本中の地方同様、後継者不足に直面する事業者が少なくなかった。こうした中、若い世代が手を取り合い「子どもたちが住みたいと思える、いきいきした街づくり」に動き出していた。その輪に原田さんは積極的に参加し「よそ者」から浪江の一員になっていく。夜は仲間と飲みつつ街の将来を語り合い、地域おこしに取り組んだ。震災は、そんな充実した日々の中で起きた。

故郷の味が仲間をつなぎとめた

その日、店で卸業者の応対をしていると、突然揺れた。店の窓が割れ、ものが散乱した。直後に流れた津波警報。原田さんは家族と高台に避難し車で夜を明かす。翌朝、片付けのため店に戻ると、今度は原発事故による避難指示。落ち着く間もなく店を出た。

隣町の親戚宅に滞在中、福島第1原発1号機が爆発し浪江に戻れなくなった。その後、避難所や親戚宅など、つくばにたどり着くまで県内外5カ所を移動した。

原田さんが浪江商工会青年部長に就任したのは、震災直後の4月。前年に決まっていたことだった。東京の都営住宅に移ったばかりで自身も混乱の中にいた。原田さんはこう考えた。

「『よそ者』の自分は、浪江が故郷の仲間に比べ気持ちに余裕がある。自分だからできることがある」

震災前に購入したスマートフォンで避難者に有益な情報を収集し発信、仲間の安否確認をした。さらに原田さんは青年部の仲間と、名物「浪江焼きそば」を各地に散らばる避難所で振る舞い、被災者の「心の復興」に取り組んだ。避難所で焼きそばを作ると、故郷の味に浪江の人たちが涙を流したのがきっかけだった。活動はバラバラになった仲間をつなぎ止めるためでもあった。浪江の暮らしは地域のつながりがあってこそ。そこから2年、仲間と各地のイベントで焼きそばを作り、メディアでの情報発信に力を注ぐ。

そのころ浪江町民の中で、町外に住民がまとまり暮らせる「代替地」の用意を町長に求める声が上がった。だが、将来的に町への帰還を考える町長と思いは一致しなかった。

「帰るのは無理だと思い始めました。40歳を超え、新しい土地で何かを始めるなら体力のあるうちに動きたかった。県外も考えたいと社長である義父に相談すると、承諾してくれました」

福島での事業再開を望んでいた義父が、原田さんの希望を受け入れた。

愛された浪江の店がお手本

浪江の知人につくばを紹介された。

「つくばは開発中のこれからの街。一目ぼれでした。郊外に広がる山と田畑が浪江に似ていました。ここでやろうと覚悟を決めました」

消防や青年部の仲間に思いを伝えると、励ましの言葉が返ってきた。

浪江の原田時計店から運び込んだ柱時計

新しいお店は「1歳からお年寄りまで来られる眼鏡店」がコンセプト。時間をかけてお客さんの声を聞き、その人にとって最適な眼鏡を決めていく。お客さんがゆっくり過ごせるよう、子どもが遊べるスペースも用意した。住民に愛された浪江の店がお手本だ。店内にある柱時計と壁時計は浪江の店から運び込んだ。「原田時計店」の原点を引き継ぐ。義父は現在、福島県二本松市に同名の店舗を構える。つくばはその支店にあたる。

「私にとって故郷は『人』です。生まれ育った柏でも、浪江でも、私は人に育てられました。特に浪江では、社会人としてたくさんのことを教えられました。つくばでは、地域の方と一緒に育っていけたらと思っています」

原田さんは現在、妻の葉子さん、8歳になる長男と暮らしている。

「息子は浪江焼きそばが好きなんです。まだ小さいので震災のことは話してません。でも、『これ、お父さんとお母さんが住んでたとこの食べものだよ』って伝えてます」

原田時計店は2025年に100周年を迎える。つくばの街で、人の縁と歴史をつないでいく。

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