火曜日, 10月 14, 2025
ホームつくば3氏の横顔紹介 つくば市長選

3氏の横顔紹介 つくば市長選

【鈴木宏子】任期満了に伴うつくば市長選と市議選は25日投開票される。市長選に立候補した新人の富島純一氏(37)=無所属=、現職の五十嵐立青(42)氏=同=、新人の酒井泉(71)=同=3氏の横顔を紹介する。

事業成長の秘訣は「素直に聞き、信じて任せる」

富島純一氏

【富島純一氏】22歳のときつくばで起業し、現在、自動車販売、障害福祉、保育・学童、農業など幅広い事業を展開する。経営に携わるグループ企業は14社。140人以上の社員を抱える。

コロナ禍の今年、苦境にあるつくばの飲食店に呼び掛け、県内で初めて、ドライブスルー型弁当販売イベントを仕掛け成功させた。

土浦市生まれ。10代のころヤンチャし、中学を出て父の仕事を手伝った。父の会社が倒産、16歳で一人暮らしを始め、土木建築や塗装の仕事をして自立した。

18歳を過ぎたころ、ネクタイを締める仕事に就きたいと思ったが、中卒という学歴がネックになった。

姉の死をきっかけに心機一転。仕事に就けないなら自分で会社をつくろうと思い立ち、22歳で中古車販売会社を起業した。

成功の秘訣を「(自身の)素直さ」だと話し、「分からないところは聞いて、人に仕事を任せたら信じて任せ」てきたと振り返る。

本業のほか、若手経営者の異業種交流会を立ち上げたり、県立八千代高校の臨時派遣教員として講演したり、少年院を出た少年たちの就労支援にも尽力する。

座右の銘は、明治生まれの哲学者で教育者、森信三の「人生二度なし」。信三は「職業に上下もなければ貴賤もない。世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。しかし、どうせやるなら覚悟を決めて10年やる…」と説いた人物だ。

家族は、妻と息子2人の4人。早朝の2時間が自分の時間で、朝起きて半身浴をしながら1日のスケジュールを確認する。2歳の長男を保育園に送迎するのが日課という。

留学先で衝撃「目の前にいる人に何ができるか」

五十嵐立青氏

【五十嵐立青氏】筑波大学大学院在学中、26歳で最年少の市議となり、2期務めた後、2012年に市長選に初挑戦した。当時の現職に次点で敗れたが、総合運動公園問題が浮上した15年、住民投票運動の中心的役割を果たした1人だ。翌年の市長選で、幅広い議会会派や市民に推され初当選を果たした。

政治家を志したきっかけを、留学先での体験だったと振り返る。

4年のとき大学を1年休学し、スコットランドのグラスゴーに留学した。かつて工業地帯だった街だ。留学先で熱を出し病院で診察を待っていたとき、目の前に座っていた母親が、ぐずる娘を殴った。自分が殴られたようにショックを受けた。

当時大学で安全保障を学び外交官の仕事に引かれていた。「目の前にいる子供の安全が保障されていなかった。殴った母親も自分の安全が保障されてなかったからだと思う。目の前にいる1人の人間の安全を保障することが先だと思った」と当時の体験を振り返る。

「目の前にいる人に何ができるかを考える場所にいたい、そういう思いはグラスゴーのときと変わってないし、今の方が強くなっている」と話す。

つくばに戻り、志を遂げようと市議に挑戦した。市議の仕事と大学院の勉強をこなしながら、企業組織向けコーチング事業を展開する会社のプログラムを受けてコーチの資格をとり、2008年にコーチングオフィスを設立。2010年には障害のあるスタッフが働く農場を運営するNPO法人を設立した。

母親は元つくば市議。家族は、内閣府職員の妻と3男1女の6人。家事は、妻が料理、子供が皿洗い、自身は洗濯を担当しているという。

心を空っぽにするため毎朝15分程度、瞑想している。コロナで飲み会がなくなり6キロやせたと話す。

沿線開発見直し つくばの屋敷林守られた

酒井泉氏

【酒井泉氏】高エネルギー加速器研究機構の元研究者。TX沿線開発区域の地権者の1人としてまちづくりに関わり、中根・金田台地区で緑地と菜園と住宅が一体となった緑農住一体型住宅を提唱する。

研究者として、放射性廃棄物を無毒化する研究を行っていた。素粒子を使って核交換し短寿命化する方法だ。「ミューオンを使う核交換は将来有望で、原理的には可能。埋設処分は反対。何万年も地面に埋めるきれるものじゃない」という。

高エネ研では、2008年から稼働を開始した東海村の大強度陽子加速器J-PARC(ジェイパーク)の設計に、計画段階から中心メンバーの1人として関わった。陽子ビームを直線型加速器から円形型加速器に入れる装置は酒井さんの設計だ。独創的なアイデアで、当時は別の方法が検討されていたがひっくり返したという。

つくばのまちづくりには関わったのは、TX沿線開発がスタートする30年前から。バブル景気真っただ中だった1990年代始め、当初、県などから示されたつくば市の沿線開発区域は、集落も屋敷林も含めた計2000ヘクタールを開発するという計画だった。

つくばの屋敷林を全部つぶして何が残るのか。もう一回まちづくりを考え直そうと、「区画整理事業の改革について」という論文を書き、開発区域の見直しを提唱した。谷田部地区など他地区の地権者と協力し、開発区域は2000ヘクタールから1300ヘクタールに削減された。つくばの屋敷林がこうして守られた。

現在は中根・金田台地区の地権者らでつくる桜中部まちづくり協議会の副会長を務める。

家族は、97歳の母親と妻、長男夫婦の7人。趣味は剣道と山登り。剣道は6段の腕前だ。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

旧日本軍の二つの飛行場から「戦争とつくば」考える 戦後80年企画展

2カ所で巡回 戦後80年を迎え戦争の記憶が徐々に失われつつある中、アジア・太平洋戦争中につくば市にあった旧日本軍の二つの飛行場から、戦争とつくばの関わりを考える巡回企画展「戦争とつくば」が同市小田、小田城跡歴史ひろば案内所で開かれている。併せて原始・古代から近代までの戦争と地域の人々との関わりを発掘出土品や古文書などの資料から振り返る。写真や地図、出土品などの資料約100点が展示され、初公開の資料もある。 二つの飛行場は、市南部にあった谷田部海軍航空隊と、北部にあった西筑波陸軍飛行場。 隊員らのスナップ写真を初公開 谷田部海軍航空隊 谷田部海軍航空隊は、現在の同市上横場、観音台、高野台にまたがってあった。1938(昭和13)年12月、阿見町にあった霞ケ浦海軍航空隊の谷田部分遣隊が設置され、翌39(昭和14)年12月に谷田部海軍航空隊として独立し、「赤とんぼ」と呼ばれた練習機の訓練などが行われた。現在、筑波学園病院がある上横場には、木造2階建ての本部や宿舎などの建物があり、農研機構の各研究所がある観音台は、縦横1.8キロ×1.3キロの芝生の滑走路があった。滑走路の南東の高野台には、敵襲から飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)が多数設置されていた。市の調査で3基の掩体壕跡が残っていることが確認され、写真と地図で紹介されている。 戦局が悪化した1944(昭和19)年11月以降は、神之池海軍航空隊(現在の鹿嶋市)の実戦部隊が谷田部に移設され、谷田部にあった練習機部隊は神町基地(現在の山形県東根市)に移設。神之池から零戦などがやってきて、実用機で訓練する実用機教程が行われた。1945(昭和20)年2月、米軍が群馬県の軍用機生産工場、中島飛行機工場や、霞ケ浦海軍航空隊があった阿見・土浦方面を攻撃した際は、谷田部から迎撃に向かい計4人が死亡した。その後は実用機訓練から特攻隊訓練に切り替わり、神風特攻隊「昭和隊」が編成され、同年4月7日以降は隊員らが次々に鹿児島県の鹿屋海軍航空基地に向かった。昭和隊は第7次まで編成され、54人いた隊員のうち40人が死亡した。 企画展では、カメラが趣味だった当時の隊員(故人)が撮影した隊員らのスナップ写真や、昭和隊が鹿屋に向けて出撃する1945年4月7日、水杯を酌み交わす隊員らの様子など、当時の貴重な写真を展示している。写真を撮影したのは、企画展を主催する市文化財課職員、久保田昌子さん(33)の祖父が撮影したもので、初めて一般に公開された。ほかに2006年、地元のつくば工科高校(現在つくばサイエンス高)の生徒が、宮城県白石市を訪ね、当時の昭和隊隊員にインタビューした貴重な証言を記録したビデオを会場で上映している。 竹内浩三の「筑波日記」を紹介 西筑波陸軍飛行場 西筑波陸軍飛行場は当時の作岡村、吉沼村にまたがる約300ヘクタールの広大な敷地で、地元の勤労奉仕による工事で1940(昭和15)年7月、陸軍航空士官学校西筑波文教所として開設された。指令室などの建物のほか、鉄骨造の格納庫が3棟、木造の格納庫が6棟あり、谷田部と異なりコンクリートで舗装された滑走路があった。士官学校として利用されたのは2年程度で、その後は落下傘やグライダーを用いて敵地前方に進む挺身部隊の訓練地となった。1943(昭和18)年11月には滑空歩兵部隊と滑空機操縦部隊のグライダー部隊となった。 企画展では、当時西筑波の隊員だった三重県出身の詩人、竹内浩三(1921-45)が遺した「筑波日記」を紹介し、小田城跡で訓練をしたり、作岡で掩体壕を掘ったり、吉沼にたびたび出掛けて外食を楽しんだり、銭湯や書店に足しげく通ったりなどの一節をパネルで展示している。ほかに中菅間の個人宅で保管されていた西筑波飛行場で使われていたと伝わる灰皿などを展示している。 近代以前の展示では、つくば市内で確認できる最古の武器として、古墳時代前期の4世紀後半ごろ出土した鉄剣などが紹介。戦国時代、落城と奪還が繰り返された小田城の堀跡から発掘された、2カ所に刀傷とみられる鋭利な外傷がある中年女性の頭蓋骨が初公開されている。 市文化財課は「アジア・太平洋戦争で大きな空襲を受けなかったつくばが戦争について大きく取り上げられる機会は多くなかったが、戦争と無関係でいたわけではなく、戦争の痕跡は身近なところに残されており、戦争の悲惨さと平和の大切さについて考える機会になれば」としている。(鈴木宏子) ◆巡回企画展は10月4日(土)~来年2月8日(日)まで市内2カ所で開催される。①10月4日~12月7日(日)は同市小田2532-2、小田城跡歴史ひろば案内所で、②12月18日(木)~2025年2月8日(日)は同市谷田部4774-18、谷田部郷土資料館で開催。入場無料。開館時間はいずれも午前9時~午後4時30分、月曜など休館(祝日の場合は翌日)。▽会期中、二つの旧日本軍飛行場跡をバスと徒歩でめぐり、地割や地形に残る痕跡を見学する体験講座「飛行場の痕跡をめぐる」を11月29日(土)に開催する。定員20人。事前申込必要。申し込みはこちら。▽ほかに、筑波大名誉教授の伊藤純郎さんによる講演会「谷田部海軍航空隊と民衆—本土防衛、特攻隊に対するまなざし」を12月6日(土)午後2~4時、市役所コミュニティ棟1階1~3会議室で開催する。定員約100人。当日受付。

山頭火 椋鳩十 孫の名は?《続・平熱日記》185

【コラム・斉藤裕之】マングローブの木炭は安いけど匂いがイマイチ…。この夏の山口での話。立ち寄った道の駅で地元産の木炭の袋を見つけた。山の中では煮炊きや暖を取るのに使うので、ひとつ試しに買ってみることにした。しばらくして、別の用事でその道の駅の近くを通ることがあったので、お土産にもう一袋と思って寄ってみると、定休日。がっかりしたが、ネットで検索するとすぐ近くに製造元があるではないか。 そこは材木や伐採林などを扱う大きな工場で、事務所に入ると女性社員の方が対応してくれて、段ボール入りの製品でもいいかと聞くので「御意」と答えると、別のところからガラガラと台車でブツを運んできた。その箱には赤い文字で「山頭火(さんとうか)」とある。 言わずと知れたご当地出身の俳人の名前であるが、木炭製品に山頭火とはこれ以上のネーミングもないもんだと思った。恐らく深い意味があるに違いない! 名前の由来はと、ネットで検索。あれ? 特に深い意味は…ない。ちなみに、山頭火は日本酒の銘柄やラーメン屋の屋号にも使われているようだ。 椋の木に鳩が十羽とまる 役所から名前のフリガナについてのハガキが来た。西洋に比べ、この国の名前の表記、読み方のバリエーションはほぼ無限で、近年特に自由奔放である。身近なところでは、生徒の名前はフリガナなしではほぼ判読不可能になった。 名簿のフリガナを見ては想像力豊かな漢字と読み方に感心することしきりだが、相変わらず生徒の名前はほとんど覚えられない。そんな中、「椋介」という名前が目に留まった。その由来を聞いてみると、「椋(むく)の木に鳥が集まるように人が集まってくるような人になって欲しいという願いから」名付けられたという。 「椋鳩十(むく はとじゅう)」という動物文学者に出会ったのは小学校の図書室だったか。随分と不思議な名前だと思いながら、「椋の木に鳩が十羽とまる…」に由来していることを知ったのはそう昔のことではない。「椋の木ねえ…いい名前だねえ…」 そろそろ「山頭火」の出番 ところで、長女のおなかが目立つようになってきた。来年早々に3人目が生まれてくる。どんな名前にするんだろう…。そんなこと考えながらパクと散歩していると、大きな椋の木の下に黒くなった実がぼたぼたと落ちている。この実が食べられるということを知ったのも近年のことだが、どうも食べられる気がしなくて、いまだに口にしたことがない。ちなみに、この木の下には十羽とはいかないが、つがいと思われる二羽の山鳩をよく見かける。 喉が腫れて熱があると思ったら、はやりの病。その後しばらくの間、コーヒーの匂いが鼻を突いて飲めずにいた。暑さがやっと秋の空気に入れ替わったころ、ようやく鼻と舌が元に戻ってきた。そろそろ山頭火の出番か。今年のサンマは久しぶりに安くて脂がのってうまいという。炭の香りと共に楽しもう。(画家)

出土品の文字から遺跡の性格探る 開館30周年企画展 土浦

上高津貝塚ふるさと歴史の広場 土浦市を始め県内各地の遺跡から出土した文字が記された土器などを展示し、文字に注目して遺跡の性格や社会的背景を探る企画展「文字が語るもの」が11日から、同市上高津の博物館、上高津貝塚ふるさと歴史の広場で開かれている。 文字刻まれた県内出土品約100点を一堂に 開館30周年記念として、土浦市内だけでなく、つくば、鹿嶋、石岡、水戸、古河、かすみがうら市など県内各地の遺跡の、文字が刻まれた出土品約100点を一堂に紹介する。 展示されているのは、墨で文字が記された土器、土師器(はじき)、文字が刻まれた板碑や銅製品、瓦など。県指定文化財や市指定文化財など貴重な資料もある。群馬県高崎市の特別史跡である飛鳥時代の石碑「山上碑」や国宝に指定されている福岡市史博物館所蔵の金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」なども写真で紹介されている。 同館学芸員の松田俊太さんは「出土品の文字から当時の土地名や社会の状況、人々の営みが推測できる」と話す。 文字から分かる当時の社会や暮らし 展示は5部構成で、出土品の文字から、役所や寺院だったことが分かる遺跡、当時の地名から地域の生業(なりわい)が推測できる遺跡など、「役所・寺院」「地名」「人物」「神・仏」「中世の祈り」の5つのテーマに分けて展示されている。 まず「役所・寺院」では、鹿嶋市の神野向(かのむかい)遺跡の、墨で文字が書かれた墨書土器「鹿島郡厨」を紹介。出土品から奈良・平安時代に鹿島郡の役所跡だったことが分かる。ほかに石岡市の常陸国分尼寺跡から出土した墨書土器「法華」など27点を展示する。常陸国分尼寺跡から出土した墨書土器には「法華」と書かかれており、平安時代の寺の名称が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」だったことがわかる。 「地名」では、地名に関係する墨書土器を5点展示している。霞ケ浦や筑波山、桜川と天の川に囲まれた一帯は中世、「南野牧」と呼ばれ、馬が飼育されていた。入ノ上遺跡群(土浦市沖宿)からは「青毛」と記された墨書土器が出土している。「青毛」は黒い馬を意味することから、平安時代にはすでに周辺で馬の飼育が行われていたと推測できるという。 「人物」では、書かれた文字から人物の活動が推測できる出土品を19点展示している。常陸大宮市の小野遺跡から出土した銅印「丈永私印」は、「丈部永○」という名前が彫られており、丈部永〇という人物が用いたとされる。 「神と仏」は、奈良時代から平安時代の集落から出土した、祭祀や仏教などに関連した墨書土器、木製品、素焼きの土器の土師器(はじき)など21点を展示している。寺畑遺跡(土浦市田村)から出土した墨書土器には「千手寺」と記されており、集落に寺があったと推測できる。さらに、僧侶の名が「案豊」だったと考えられる墨書土器も見つかっている。つくばエクスプレス沿線の島名・福田坪地区で発掘調査が行われた島名熊の山遺跡(つくば市)には、奈良時代に祭祀を行ったと推測できる水場跡が発見されている。水場跡からは「川」「山人」などと書かれた墨書土器が多数出土しており、集落内に川などに関わっていたとみられる特定の集団がいたと考えられるという。 「中世の祈り」では、法雲寺(土浦市高岡)や般若寺(土浦市宍塚)が所蔵する中世の文字が刻まれた石碑「板碑(いたぴ)」など4点を展示している。板碑は鎌倉時代や室町時代など中世、生前供養や追善供養に使われたとという。 松田さんは「開館30周年の企画として遺跡の文字に注目した。当時書かれた文字からどのようなことがわかるのか。皆さんにぜひ見ていただきたい」と語る。(伊藤悦子) ◆「開館30周年 第28回企画展『文字が語るもの』」は10月11日(土)~11月30日(日)まで、土浦市上高津1843 上高津貝塚ふるさと歴史の広場で開催。開館時間は午前9時~午後4時30分。休館日は月曜、月曜が祝日の場合は翌日。入館料は一般150円、高校生以下無料。11月3日(月)と13日(水)は無料。▽記念講演会「中世の祈りのしるし-板碑・石塔の世界」を10月26日(日)午後1時30分~3時に開催する。講師は立正大学文学部准教授の本間岳人さん。▽ワークショップ「消しゴムはんこを作ってみよう」を11月9日(日)午前10時~11時30分と午後1時30分~3時の2回開催する。講師はイータの小屋店主のかとうみのりさん。▽ギャラリートークを10月12日(日)と11月22日(土)いずれも午後2時~2時30分まで開催する。

「人体の自然」に添う食が健康体をつくる《邑から日本をみる》187

【コラム・先﨑千尋】「私たち人間の体は120歳まで生きられるようにできている。植物食を食べ、長生きしよう」。9月18日、那珂市瓜連の常陸農協レインボーサロンで「『人体の自然』に添う食-それが健康体をつくる」という演題の講演会が開かれた。講師は牛久市在住の長谷山俊郎さん。私と同年で、50年来の友人だ。 長谷山さんは大学を出て農水省の研究員になり、現役の時は地域農業の改善や地域づくり、地域活力の向上などの支援を行ってきた。退職してからは日本地域活力研究所を立ち上げ、もっぱら健康づくりをテーマとし、執筆や講演活動を続けている。それは、10代から病気のオンパレードで「不健康で病弱だったから」。60歳の時に水野葉子さんの本を読み、その本には「食を改善したら、持病が直った」とあった。 それから持ち前の研究熱心さで、食や健康の研究にのめりこみ、今では医療費はほとんどゼロ。健康に関する著作も多い(コラム5 とコラム162参照)。 長谷山さんはこの日、約40人の参加者を前に、20ページを超える資料を基に、人体の自然に添う植物食が健康を生み、人体の自然に添わない動物食や食品添加物、化学物質、加熱油、小麦が病気を生む、と話した。 アルカリ性体質だと健康になる 以下、長谷山さんの講演から、ここが大事だと私が思ったことを列記する。 ・今の医療は、薬などで病状を和らげる「対症療法」であり、病気を生まない「原因療法」でない。今の医学と栄養学は食と体の関係を知らない。健康は「バランスのとれた食品群を食べること」ではない。 ・私たちの体は、人類が誕生した200万年前と変わっていない。その頃は果物中心のアルカリ性体質なので、病気にならない。腸内細菌叢(そう)は免疫力を高め、栄養の吸収を良くし、老廃物を蓄積せず、体に炎症を起こさない。これが人体の自然で、健康をもたらす。 ・アルカリ性体質だと健康、酸性体質だと不健康になる。アルカリ性食品を80%以上取る。食品添加物は慢性腎臓病をもたらす。肉の摂取で坐骨神経痛や痛風になる。 ・動物性食品や加工食品などの酸性食品は、血管や脳によくない影響を与える。がん細胞は酸性環境で活動し、アルカリ性環境では活動できない。アルカリ性体質はコロナを防ぐ特効薬。インフルエンザにもかからなくなる。認知症の予防にもなる。 ・アルカリ性体質にする食材は、生野菜、果物、海藻類、キノコ類、発酵食品、漬物など。 ・酸性食品は肉類、卵、乳製品、小麦、紅茶、チョコレート、加工食品、電子レンジ食品、炭酸水など。 ・小麦は1955年以降品種改良が行われ、グルテンが以前の40倍になった。それによって体の多くに炎症を起こす食品に変わった。病気を生まないためには小麦を食べないこと。私はこのことを知らなかった。(元瓜連町長) <参考>長谷山さんは5人以上集まれば講演に来てくれる。連絡先は電話029-871-4645、メールはjuhht71724x@kna.biglobe.ne.jp。