日曜日, 8月 17, 2025
ホームコラム《吾妻カガミ》89 つくば市議会の愚かな選択

《吾妻カガミ》89 つくば市議会の愚かな選択

【コラム・坂本栄】前回のコラム(8月17日掲載)では、4年前の市長選挙で五十嵐さんが掲げた看板公約「運動公園問題の完全解決」について検証しました。今回はその関連ということで、この問題のプロセスで節目になった市議会の動きを取り上げます。結論を先に言ってしまうと、議会は「愚かな選択をした」ということです。

運動公園問題を整理すると、市原前市長が計画(陸上競技場など3施設をUR都市機構から買った土地に305億円かけて建設)を発表多額の建設費に反対する市民運動(住民投票を求める署名活動)が活発化議会が住民投票実施とその要領を可決建設反対が多数を占め前市長は計画の推進を断念「運動公園問題の完全解決」を目玉公約に掲げた五十嵐市長が誕生それから4年経った今「問題の完全解決」は完全未解決―といった流れになります。

こういった経緯から、運動公園問題は、市民の反応に気落ちして4期目への出馬を断念した前市長にとっても、前回選挙で公約の目玉にして当選した現市長にとっても、とても重い案件であった(ある)ことが分かります。前市長は不出馬で失政の責任を取りましたが、看板公約を実現できなかった五十嵐さんはどうするのでしょうか?

現実策を封じた2択住民投票

話がそれましたので元に戻します。節目の動きは、2015年5月12日、「議会が住民投票実施とその要領を可決」した際に起きました。投票用紙の設問を、執行部が推す3択(計画に賛成、反対、見直し)にするか、市議側が提案した2択(賛成、反対)にするかで、議会が紛糾。採決の結果、2択方式が採用されました。これによって、当初の運動公園計画を見直すという、現実策を探る議論は封じられたわけです。

ところが今になって、公式競技ができる陸上競技場が欲しい、空き地になっている運動公園予定地に造ったらどうか―といった声が市議や市民の間から出ています。これは、当初計画(予定地に公認陸上競技場+サッカー兼ラクビー場+総合体育館を建設)のスケールダウン(予定地に陸上競技場だけを建設)ですから、3択の「見直し」そのものです。

もし住民投票が3択で実施されていれば、見直し+賛成が多数を占め、優先度が高かった陸上競技場はすでに完成、今ごろ利用されていたのではないでしょうか。5年前の議会は、スポーツ施設の是非という議会本来の仕事よりも、反市長会派(グループ)の政治的な思惑に支配され、賢さに欠ける選択をしたことになります。この愚かな行動により、市民の利益が大きく損なわれました。(経済ジャーナリスト)

<参考:市議の投票行動>

▼2択方式に賛成した現市議:久保谷孝夫(自民つくばクラブ・新しい風)、五頭泰誠(同)、小久保貴史(同)、神谷大蔵(同)、黒田健祐(同)、北口ひとみ(つくば・市民ネットワーク)、宇野信子(同)、皆川幸枝(同)、滝口隆一(日本共産党)、橋本佳子(同)、金子和雄(新社会党)、塩田尚(山中八策の会)=敬称略

▼3択方式に賛成した現市議:塚本洋二(つくば市政クラブ)、柳沢逸夫(同)、鈴木富士雄(同)、高野進(同)、須藤光明(同)、大久保勝弘(同)、小野泰宏(公明党)、浜中勝美(同)、山本美和(同)、木村清隆(つくば政清会)=同

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

33 コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

33 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

花火は「安全」の二文字が最優先《見上げてごらん!》43

【コラム・小泉裕司】花火師が最も大切にしていること、それは一に安全、二に安全。花火師は、火薬という危険物を扱うため、製造段階から打ち上げ、そして片付けに至るまで、あらゆる工程で事故が起きないよう細心の注意を払う。もちろん、火薬取締法をはじめ法令や都道府県条例によって、火薬の取り扱いや花火打ち上げには厳しい規制が課されており、従事者には国家資格の取得が定められている。 それでも、今年の春先から夏の佳境に入っても事故が続いている。残念でならないが、花火は打ち上げてみなければ分からないという宿命も背負っている。 打ち上げ時の事故 経済産業省所管の火薬取締法では、花火打ち上げ事故を「火薬類の消費中に発生した危険な事象」と定義。具体的には、筒ばね、過早発、低空開発、地上開発、黒玉、部品落下など、およびこれらに起因する火災などを「危険な事象」としている。ここで「火薬類の消費中」とは、花火打ち上げにかかる一連の作業を言う。 ▽筒ばね:花火玉が上空に上がらず、筒の中で爆発すること。花火玉の不具合や筒の変形により、打ち上げ火薬の火が引火して発生することがある。 ▽過早発:煙火玉が筒から発射直後に開発する。花火玉の導火線の異常により発生する(上の写真参照) ▽低空開発:煙火玉が性能上危険な低い高度で開発する。風の影響や花火玉の不具合など複合的な要因により発生する。 ▽地上開発:煙火玉が上空で開発せず地上に落下し開発する。花火玉の不良、風の影響、打ち上げ場所の不適スなど、複合的な要因による。 ▽黒玉:いわゆる不発玉。上空で爆発せず、そのまま地上に落下してしまうこと。導火線の着火不良や、花火を破裂させる割薬への着火がうまくいかなかったことが要因。 ▽部品落下:煙火の構成部品(燃え殻・破片・星など)が危険な状態で落下する。 打ち上げ事故の推移 危険な事象によって生じた死傷者の人数や物的損害額など被害の程度によって、A級からC2級まで5段階に分かれる。 2009年に遠隔点火(上の写真参照)が義務付けされたことで、打ち上げ事故のリスクは軽減されたというが、国の統計で過去30年の事故の推移を見ると、死傷者数の減少が顕著に読み取れる。一方、23年、24年は、コロナ禍前の3年間と比較すると、事故に至らない危険な事象(C2級)が激増している。 要因は、コロナ禍をきっかけに多くの職人が現場を離れたためと言われる。しかし、後継者の育成には時間がかかるため、海外の安価な花火玉の使用も一因ではないかとの見方もある。土浦の花火の出品規程は、全競技玉を自社製造玉に限定している。 事故に対するペナルティ こうした花火事故を起こした煙火業者に与えられるペナルティは、事故の種類や内容によって業務停止命令や許可の取り消しなどの行政処分、法律違反や過失の場合には刑事罰が科せられる。民事上の責任として、損害賠償を請求される可能性もある。 さらに、花火競技大会への出品も、主催者や日本煙火協会などの判断によって制限が行われる場合や自主的な参加自粛が行われる場合もある。 花火師は見る人を楽しませるための「美しさ」や「迫力」も大切にするが、それらは安全が確保されてこそ初めて実現できるもの。土浦の花火競技大会で、作品の打ち上げを終えたすべての花火師が、作品の出来栄えよりも異口同音に発する言葉は「無事で何より」。 本日は、これにて打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) 参考:経済産業省ホームページ

開拓の地に根を張って 芝と共に歩んだ大日向組合【戦後80年】

黒澤さん夫妻の70年 「当時、2、3年ごとに必ずあったのが春の大霜や夏の干ばつ。苦しい生活にさらに追い打ちをかけるものでした。昔は本当に苦労しました」 長野県大日向(おおひなた)村出身の黒澤武宣さん(83)は、遠くを見つめながら語る。隣には、牛久市出身の妻 美津子さん(77)がいる。ブランド芝のつくば姫、つくば輝、つくば太郎、つくばグリーン等を生み出す日本一の芝産地つくば市。そこで長年、芝生産を支えてきた大穂地区に戦後、黒澤さんら同郷の14家族が入植した。大日向組合による開拓地だ。 陸軍西筑波飛行場跡地 「この滑走路のあたりにあるのが、私たちの家です」 古い地図を指差しながら、黒澤さんが言う。黒澤さんが暮らすのは、つくば市西部にある西高野地区。下妻市に隣接する旧大穂町に位置し、筑波山を仰ぐ自宅の周囲には広い平地に黄緑色の芝畑が広がっている。ここは終戦期まであった旧陸軍による「西筑波飛行場内」の一角にある。「西筑波開拓農協二十年史」(西筑波開拓農業協同組合、中本信治編)によると西筑波飛行場は、旧作谷村(旧筑波町)と旧吉沼村(旧大穂町)にまたがる平地に1939年からつくられた約280ヘクタールの飛行場で、グライダー部隊である旧陸軍第116部隊と117部隊が駐屯していた。戦争末期になると、米軍による爆弾投下や機銃掃射を受け、戦後は一時、占領軍の管理下に置かれていた。 日本は戦後、直面する深刻な食糧不足の解消と、復員兵や引揚者の生活再建を目的に、旧軍用地や未墾地を農地として開墾し、食糧増産と失業対策を同時に進めた。1945年11月、緊急開拓事業実施要領が閣議決定され、約21万1000戸が全国の開拓地に入植した。茨城県には全国の4.2%にあたる262カ所が整備された。西筑波飛行場跡地もその一つだった。 緊急開拓事業の対象地区となった同飛行場への入植が始まったのは終戦翌年の1946年。県内を含む全国から復員者や引揚者らが集まった。黒澤さんがこの地に来たのは1953年だ。先に来ていた祖父を頼り、父と来た。10歳の時だった。50年ごろに同郷の大日向村から14家族が入植し、大日向組合を結成していたという。「西筑波開拓農協二十年史」によると、飛行場内を走る滑走路を中心に、東側に「西筑波開拓」が、西側に「大日向組合」の開拓地が広がっていた。 大日向村から大穂へ 「だだっ広いところだなぁ」。筑波山の麓に広がる平地に初めて立った時、小学5年生だった黒澤さんはあたりを見回しそう思った。故郷の旧大日向村は、長野県と群馬県の境にある山村で、現在は、佐久穂町大字大日向と呼ばれている。山間を流れる抜井川沿いに八つの集落が点在する細長い谷間の村だった。 「生活が厳しいところだった」という。戦前の大日向村住民は養蚕や炭焼きを営みながら、限られた農地で米や野菜を育てていた。1930年代の昭和恐慌の影響で生活は困窮した。生活難を背景に、1938年、村民の約半数が旧満州、現在の吉林省へ渡り、「満州大日向村」を築いた。国策として進められた満蒙開拓の、全国初となる「分村移民」で、国から模範事例と讃えられた。しかし終戦間際にソ連軍の侵攻を受けると、引き揚げまでの約1年間に400人余りが命を落としたとされる。約250人が帰国したものの、多くが満州へ渡る際に土地や家を処分しており村に留まれる者は少なく、再び新天地をめざすことになる。その先駆けとなったのが、1947年、65戸168人による軽井沢町への入植だった。その後、他の土地へも移住者が相次いだ。旧大穂町の「大日向組合」による開拓地もその一つだった。黒澤さんの親族には、満州からの引揚者はいなかった。 2、3年ごとに大霜と干ばつ 黒澤さんは、父親と、先に入植していた祖父に連れられ、2日をかけて大穂にきた。列車で土浦に着くとバスに乗り換え目的地近くの吉沼へ向かった。そこから徒歩で開拓地にたどり着いた。その日はちょうど、大穂が村から町に変わる日で、大勢が役場に集まり祝賀会が開かれていた。バスの車窓から見た活気あふれる風景を今もよく覚えている。 大穂へ来た祖父がくじ引きで割り当てられていたのは、滑走路跡の「砂利だらけ」の土地だった。鍬を振るえば砂利が現れ、作物はなかなか育たない。落花生、スイカ、サツマイモ、麦などを栽培したが、肥料や農薬は乏しく、2、3年ごとに訪れる春の大霜と夏の干ばつが苦しい暮らしに追い討ちをかけた。入植者たちは当初、旧飛行場の兵舎で生活していた。数年後、自力で家を建てたが、周囲に木々は少なく、「燃料はカヤの根を掘り起こして乾かしたものしかなかった」と黒澤さんが話す。 芝栽培が始まり暮らしが安定した 転機は1957年頃。東京から複数の園芸業者がコウライシバ(高麗芝)の種芝を持ち込み、農家に栽培を勧めたのだ。当時、戦災で芝の栽培地を失っていた都内の業者が、首都近郊に新たな栽培地を求めていた。第1次ゴルフブームが到来し、芝の需要が高まっていた時期であり、新たな栽培地として筑波山麓の平地に目をつけた。同時期に、隣接する南作谷の西筑波開拓でも芝栽培が始まった。 黒澤家は当時、大穂町内に支社を構えていた東京・浅草に本社がある「芝万」から種芝を仕入れ、栽培を始めた。周辺には以前から在来の「野芝」が自生しており、入植者らは農閑期の収入源として刈り取り、河川の土手や土木工事用として販売していた経験があった。芝には馴染みがあったのだ。 その後、年を追うごとに芝栽培は少しずつ拡大した。植え付けから管理までを農家が担い、切り取りは業者が行った。1957年頃の第1次ゴルフブーム、1969年頃の第2次ゴルフブームで需要は急増し、関東、東北への出荷ルートが整備され、入植者の暮らしは次第に安定していった。 子ども時代の記憶 入植者の子どもたちは吉沼小学校に通った。文化や習慣の違いから「よそ者」と見られ、集団登校や遊びの輪に入れないこともあったという。当時のことを聞くと、黒澤さんは「涙が出ちゃって、話せないですよ」とうつむいた。電気がきたのは黒澤さんが高校生になってから。それまでは、石油ランプを使っていた。ランプの掃除は、子供の仕事だったし、明かりもなくて「受験勉強どころじゃなかった」と振り返る。 1960年代半ば(昭和40)になると、地元との交流が増えた。地域の人々が協力し、映画上映や踊りの会、遠足などの行事が開拓地でも行われるようになった。 黒澤さんは高校卒業後、試験を経て大穂町役場に就職し、地域づくりに尽力してきた。妻の美津子さんと結婚したのは1970年だった。「仕事一筋、真面目な人」だったと美津子さんが当時の印象を話す。役場は家庭的な雰囲気だった。独身だった黒澤さんを心配した同僚が「黒さんにお嫁をもらう会」をつくっていた。 1987年、4町村合併でつくば市が誕生すると、黒澤さんはできたばかりの市で財政担当として奔走。「ないところに街をつくるという意味では、開拓と似てました。いろんな人の意見に気を遣いながら、無我夢中だった」と当時を振り返る。 過疎化に直面 2人の息子に恵まれて、黒澤さんは役所を定年まで勤め上げた。芝栽培は妻が支えてきた。変化の大きなつくば市で、かつて大日向組合に17軒あった芝農家は今では3軒にまで減少した。後継者不足や、野焼き禁止などの規制が産業を圧迫している。 黒澤さんは「市の中心部が注目される一方で、外側にある多くの地域が過疎化に直面している。よくよくです。耕作放棄地も増えている。置いてかれちゃっている感じがしている」と、戦後70年以上を生きてきた開拓地で黒澤さんは話す。それでも「今でも芝を1町歩作っています」と美津子さんが胸を張る。「私も仕事一筋。百姓やって、子育てして。まだ農業やってます。芝もまだまだ。昔の、死に物狂いでやってきたのを守るっていうのかね。それも、だんだん終わっていっちゃうのかな、と思うこともあります。でも、一生懸命やってきた芝を守りたい気持ちでいます」と美津子さんが前を向く。(柴田大輔)

疎開先で空襲に遭い母に手を引かれ逃げた【語り継ぐ 戦後80年】2

つくば市 山城啓子さん(86) つくば市に住む山城啓子さん(86)は6歳の時、疎開先の福井市で空襲に遭い、母親に手を引かれて逃げた。翌日自宅に戻ると、福井の街は焼け野原になっていた。市街地の84.8%が損壊した福井大空襲だ。1945年7月19日深夜、米爆撃機B-29が127機飛来し、81分間に865トンの焼夷弾を福井の市街地に落とした。2万戸以上が焼失し、9万人以上が罹災し、1900人を超える死者が出た。 啓子さんは東京都文京区湯島で生まれた。父親は沈没船などの引き揚げを行うサルベージ会社に勤務していた。兵庫県西宮市に転勤となり、両親と三つ下の妹の4人で、東京から西宮の社宅に転居した。やがて父親に赤紙(召集令状)がきて、海軍の警備府が置かれていた青森県大湊に水兵として配属された。 1944年、母親と妹の3人で兵庫から青森まで父親の面会に行った。面会室で待っていると向こうから、まるで行進しているかのように両手を大きく振って歩いてくる一人の水兵が見えた。父親だった。何を話したかは覚えていないが、普通の歩き方ではなかった父親の姿だけは今も覚えている。 父親が召集された後、3女となる妹が生まれたが、赤ん坊の時、高熱を出し肺炎で亡くなった。西宮の社宅は母親と娘2人の女ばかりだったので、母親は自身の実家のある福井県に疎開することを決めた。実家近くの福井市内に家を借り、母親と妹の3人で1年ほど暮らした。1945年4月、啓子さんは福井市で小学校に入学した。先生からは、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、近くの家に駆け込むよう言われた。 こんなに広かったのか 福井大空襲があった7月19日夜は、夕食を食べ終え、買ったばかりのラジオを自宅で聞いていた。突然サイレンが鳴り響き。次第に外が騒がしくなった。当時29歳だった母親は落ち着いて身支度を始め、亡くなった3女の位牌を懐に入れ、まだご飯が残っていたお釜を風呂敷に包んで、3歳の妹をおぶった。啓子さんはモンペ姿で肩に水筒を掛け、防空頭巾をかぶった。ラジオを抱えて持っていこうとしたが、母親から「そんなものいいから」と止められた。母親はお釜を持ったもう片方の手で啓子さんの手を引っ張って逃げた。 外は米軍が落とした照明弾で昼間より明るかった。人々は皆、郊外へ郊外へと一方向に向かって走っていた。母親に手を引かれた啓子さんも郊外へと逃げた。途中、焼夷弾が落ちて燃えている炎を、消そうとしている男性の姿があった。 どこまで逃げたか分からないが、郊外まで来て、啓子さんはそのまま眠ってしまった。翌日、明るくなって目を覚ますと、畑のようなところに大勢の人がいた。しばらくするとB-29が上空を飛行し、また爆弾を落としに来たのではないかと怖くなったが、周りの大人に「爆弾を落としに来たのではなく、偵察に来ただけだよ」と言われた。 お釜に残っていたご飯を食べ、自宅に戻った。途中、焼け跡のあちこちから煙が出ていて、焼けた家の前で立ち尽くす人の姿があった。悲しいとか、そういう感情は無く、焼け野原になった福井の街を「こんなに広かったのかと思った」と啓子さんは当時を振り返る。視線を遮る建物は無く、立っているのは人の姿しかなかった。背負われて母親の背中から焼け野原を見ていた妹は当時のことを「焼け焦げた人を大勢見た」と話すが、啓子さんにその記憶は残っていない。 住んでいたところに到着すると、家は全焼だった。買ったばかりのラジオも焼けてしまった。 その日のうちに母親が実家方面に向かうトラックを見つけてきて、大勢の人とトラックの荷台に乗り、母親の実家に行った。1時間ほどで実家に到着し、そのまま終戦の日を迎えた。 8月15日を過ぎて間もなく、復員した父親が軍服姿で家族を迎えに来た。2、3日福井で過ごした後、父親の実家がある東京に家族4人で向かった。湯島にあった実家は東京大空襲で焼けてしまったから、父親の両親は世田谷区に移っていた。戦後は、戦争中よりも食べ物に苦労した思い出がある。 成人し国家公務員の夫と結婚。40歳の時つくば市に転居した。戦後80年経ち「戦争は人間にとっていいことは一つもない。戦争はどんなにつらいことか。人間は人間を大事にしないといけない。とにかく戦争を起こしてはならない」と、次の世代に伝えたいと話す。(鈴木宏子)

公園から消えてしまったバリケン《鳥撮り三昧》4

【コラム・海老原信一】小さな池のあるつくば市内の公園。そこには一時30羽ぐらいのバリケンが生活していました。環境的にはそぐわないほどの数です。どうしてこれほどの数になったのか? 豊富な食べ物は繁殖を促しますから、人の手による給餌が影響して繁殖が可能になったのでしょう。 「給餌をしないで」との立て看板が設置されたためか、餌は以前よりは少なくなった様子。まかれた餌はバリケンだけでなく、その他の野鳥たちの食料にもなります。当然、バリケンたちの取り分は少なくなり、繁殖への影響も出て来ます。少しずつ減っていくだろうと思っていましたが、急激な減少を見せたのです。カワセミと一緒の写真を撮影したとき、バリケンが2羽になっていました。 バリケンが木の上で休むことはあまり見たことがなく、珍しく思いました。地面より不安定な樹上で休むにはそれなりの理由があるはず…。バリケンにとっては地面が安全でなくなり、樹上へと向かわせたのでしょうが、一体何があったのか私には分かりません。 愛くるしいヒナたち 「思い出していたら悲しくなって涙が…」。写真展で上の写真をご覧になったご婦人の一言です。「いま公園にはバリケンが一羽もいなくなりました。季節には子供が生まれ、その可愛らしさに癒されていました。私ばかりでなく、みなさんヒナたち愛くるしい様に笑顔になっていました。思い出していたら悲しくなって…」。 いなくなった理由は分かりません。バリケンは家禽(かきん)として移入されたもので、それが野生化しました。割と多産で、黄色いヒナたちはにぎやかでかわいいし、見る者をハッピーにする魅力を持っています。ご婦人の寂しさはよく理解できました。 私自身、バリケンのヒナたちの様子を楽しみながら撮影していました。この公園にはもうバリケンが戻って来ないのでしょうか。(写真家)