木曜日, 1月 22, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》7 中村不折 洋画・書・挿絵・収集などに多大な業績

《霞月楼コレクション》7 中村不折 洋画・書・挿絵・収集などに多大な業績

「これぞ不折流」

【池田充雄】霞月楼に「霞月」の書を残した中村不折(なかむら・ふせつ)を紹介する。落款には大正丁巳(1917年)二月との年紀があるが、残念ながら由緒などは伝わっていない。

額「霞月」1917年 霞月楼所蔵

「霞月」の書について、不折コレクションを収蔵する台東区立書道博物館主任研究員の中村信宏さんは「これぞ不折流という、特徴がよく出た作品」と述べ、「書の本場である中国には、ただ美しく書けばいいというものではなく、大事なのは気迫であり、それがあれば自然とまとまりが出るものだという理念がある。不折の字は決して美しくはないが、一度見たら忘れられない風格を備えている」と解説している。

不折が霞月楼を知ったのは、1907(明治40)年に東京朝日新聞の仕事で筑波山を訪れた際だろうか。あるいは小川芋銭の線もあり得る。本多錦吉郎の死後、芋銭ら門下生が建てた顕彰碑には不折が銘を書き、書道博物館には合作の「猫の図」が残るなど、2人の交遊を示す証拠もある。1907年や1917年ではなさそうだが、何かの機会に霞月楼で酒を酌み交わしていないとも限らない。

新聞の挿絵画家として頭角現す

中村不折 1937年、72歳 台東区立書道博物館所蔵

不折は1866(慶応2)年、江戸京橋東湊町(現東京都中央区新川)で生まれた。本名鈼太郎。一家は1870(明治3)年、維新の混乱を避けて高遠(現長野県伊那市)へ帰郷。不折は呉服店や菓子店で働きながら漢籍・南画・書を学び、1884(明治17)年からは西高遠学校の代用教員などを務める。

1887(明治20)年上京し、小山正太郎の「不同舎」に入塾、明治美術会の展覧会で作品発表を重ねる。同会は小山や浅井忠、松岡寿、本多錦吉郎らが1889(明治22)年に創立した日本初の洋画団体で、二世五姓田芳柳も創立会員の一人だった。

生計のため教科書や新聞の挿絵などを描き、1895(明治28)年には日本新聞社の記者として日清戦争に従軍。中国各地や朝鮮半島を巡り、「龍門二十品」や「淳化閣帖」の拓本など書の古典とされる貴重な資料を持ち帰った。

日本新聞社では正岡子規と出会い、その縁で小説家らとも親交を深め、島崎藤村の「若菜集」や伊藤左千夫の「野菊の墓」、あるいは雑誌「新小説」「ホトトギス」「馬酔木」などの装丁・挿絵も数多く手掛けた。夏目漱石は「吾輩は猫である」が発売後わずか20日で初版売り切れとなり、「不折の描いた軽妙な挿絵のおかげ」と感謝する手紙を送っている。

夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』上巻(挿画・中村不折、装丁・橋口五葉)1905年、大蔵書店・服部書店 台東区立書道博物館所蔵

渡仏を経て洋画家として大成

1901(明治34)年にはフランスへ自費留学し、ジャン=ポール・ローランスから人物画を徹底して学ぶほか、彫刻家オーギュスト・ロダンのアトリエなども訪問し、イタリアやイギリスにも足を伸ばした。また、不同舎の後輩で同じ長野県人の荻原碌山がパリに来ると親しく世話をした。

1905(明治38)年に帰国し、明治美術会の後身である太平洋画会に所属。東洋の歴史画を目指し、日本や中国の故事を題材にした作品を相次いで発表した。代表作の「建国剏業」では日本の建国神話を、西洋流の立体的な画面構成と、緻密かつ力強い人体表現で描き、1907(明治40)年の東京勧業博覧会で一等金牌を受賞している。

同年から始まった文展では審査委員の一人に任命され、1919(大正8)年に帝国美術院が創設されると初代会員13人中に名を連ねた。また太平洋画会研究所では人体デッサンや解剖学を指導し、2000人以上の生徒を世に送り出した。1929(昭和4)年には太平洋美術学校への改組に伴い、初代校長に就任している。

書家・不折、衝撃のデビュー飾る

洋画と並行して書の研究にも精進し、特に中国南北朝時代の北派の書を基底に、「不折流」と呼ばれる大胆で斬新な書風を展開した。その代表作が1908(明治41)年に発表した「龍眠帖」で、当時の書道界に驚きをもって迎えられ、河東碧梧桐や森鴎外ら熱心な支持者も多かった。

「龍眠帖」1908年、木版印刷折本 台東区立書道博物館所蔵

不折の書は「日本盛」「神州一味噌」「筆匠平安堂」など多くの商品名や商標にも用いられた。特に「新宿中村屋」の看板文字はよく知られている。不折と中村屋の縁は荻原碌山が結んだようだ。碌山は中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻と郷里の穂高村の頃から親しく、帰国後は中村屋の裏にアトリエを構え、彼を慕って若い芸術家たちが集まるようになった。

中村屋サロンの中心人物の一人に中村彝がいる。彼も太平洋画会研究所では不折の教え子だった。碌山は1910(明治43)年に30歳で早世、彝も1924(大正13)年に37歳で世を去り、不折は悲嘆の中で彼らの墓碑銘を書いた。ほかに伊藤左千夫や森鴎外の墓も彼の手による。

収集の精華を見せる書道博物館

中国巡遊から始まった不折の書道研究は生涯に及んだ。40余年にわたり日中の書道史上重要な資料を集め続け、1936(昭和11)年には書道博物館を開館。収蔵品は重要文化財12点、重要美術品5点を含む約1万6000点に及んだ。これらは自身の書や日本画の潤筆料を原資とし、全くの独力で成し遂げられた。

不折は1943(昭和18)年に78歳で他界するが、博物館は1945(昭和20)年の東京大空襲を鉄筋コンクリートの躯体で耐え、戦後も遺族の手で守り抜かれた。1995(平成7)年に台東区へ寄贈されると、中村不折記念館を併設し、2000(平成12)年に台東区立書道博物館として再開館した。

●取材協力・参考資料 台東区立書道博物館▽中村不折自伝「僕の歩いた道」(2016年、台東区立書道博物館)▽「中村不折のすべて」(2020年、台東区立書道博物館)▽新宿中村屋ウェブサイト

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

ごみピット内で出火 一時白煙が充満 土浦市清掃センター

21日午後3時ごろ、土浦市中村西根、市清掃センターで、集められた可燃ごみを一時的に貯蔵する可燃ごみピット内から出火し白煙が発生、ピット内は一時白煙が充満した。 施設の運転管理委託業者が初期消火活動をしたが白煙の発生が止まらず、午後3時2分に119番通報。駆け付けた消防隊員が水をかけるなどして消火活動を実施し、午後4時55分に鎮火が確認された。けが人はいない。 同清掃センターによると、ピット内でごみの一部がくすぶった状態になり、白煙によりピット内を目視するのが難しいほど充満したという。 どのくらい焼けたかや、出火原因は現在のところ特定できていない。鎮火後、ピット内の可燃ごみを調べたところ、ごみ自体に大きな焼け跡などはなかった。ごみ処理施設の設備や建物の躯体にも損傷はなく、同センターは、22日以降のごみの受け入れや処理に支障はないとしている。

立憲の青山氏「中道」に加わらず 衆院選茨城6区 4氏が立候補へ

23日の解散に伴い、27日公示、2月8日投開票が予定されている衆院選で、茨城6区から立候補を予定している立憲民主党現職の青山大人氏(46)が21日つくば市内で開かれた記者会見で、立憲民主党と公明党による新党「中道改革連合」に加わらず、無所属で立候補すると話した。 青山氏は「政治家としての私の信念の中で今回は無所属を選んだ。単純に選挙戦だけを考えれば厳しいことは承知している」とし「有権者の視点から見た場合、有権者が本当にそういうことを求めているのか。自分自身も直感的に違和感を覚えた」と新党結成に疑問を呈した。「我々は有権者から選ばれる立場。信頼される政治という根本の部分を大事にしたい」と述べ、「私の考え、政治姿勢が大きく変わったわけではないし、これからもぶれることはない」などと話した。 青山氏は、立憲の離党と新党の入党届け提出期限となる20日に立憲民主党を離党し、同日、つくば市西大橋で開いた衆院選の事務所開きで、無所属で立候補することを支持者らに明らかにした。無所属だが連合茨城の推薦を受けて選挙戦に臨む。立憲の衆院議員146人のうち新党に加わらなかったのは青山氏と原口一博氏の2人だけ。 共産が新人を擁立 一方、共産党県委員会は20日、茨城6区に、新人の稲葉英樹氏(58)を擁立することを発表した。稲葉氏は土浦市出身、同市在住。半導体製造会社勤務を経て、現在、党南部地区副委員長。 6区にはほかに、自民党現職の国光あやの氏(46)、昨年12月に立候補を表明した参政党新人の堀越麻紀氏(53)を含め計4氏の立候補が予定されている。 前回2024年10月の衆院選茨城6区は、立憲現職の青山大人氏、自民現職の国光あやの氏、共産新人の間宮美知子氏の3氏が立候補し、青山氏が12万票超の得票を得て小選挙区で初めて国光氏を破り、国光氏は比例復活した。青山氏は前回、6区の土浦、石岡、つくば、かすみがうら、つくばみらいの5市すべてで国光氏を上回った。(鈴木宏子)

昨日までの邸宅を脱ぎ捨て、「駅前」という自由をまとう《人生100年時代》

広告【コラム・岩本将哲(サンヨーホームズ)】街を歩けば、庭木の手入れに精を出す紳士淑女の姿をよく見かける。現役時代に築いた広大な邸宅は人生の勲章であり、家族の記憶が染み込んだ聖域だ。しかし、あえて問いたい。その「聖域」が、いつのまにかあなたから「軽やかな自由」を奪ってはいないだろうか? 人生100年時代。私たちはあまりに長く「家を守ること」に縛られ過ぎている。階段の上り下り、冬の廊下の寒さ、駅までの億劫(おっくう)な距離。それらを「年相応の我慢」として受け入れるのは、いささか早計だ。本当の意味で人生を謳歌(おうか)する知的なシニアたちは、今、鮮やかに住まいを「最適化」し始めている。 駅前マンションで人生を2度、恋させる その象徴的な舞台が、JRひたち野うしく駅直結の「サンミットひたち野東ステーションフロント」である。ここを「老人ホーム」と呼ぶのは、野暮(やぼ)というものだ。ここは、自立した大人が自分の意志で選び、自分の資産として登記する「分譲マンション」である。 コンシェルジュによるホスピタリティと、建物1階にクリニックや調剤薬局を備える安心感は、いわば「見えない執事」が常に寄り添っているようなものだ。それでいて、一歩外へ出れば駅に直結するペデストリアンデッキ。都心の観劇へも、なじみのショップへも、雨に濡れず、誰の手も借りずに繰り出せる。 特筆すべきは、入居に際して「身元引受人」や「保証人」を必要としない潔(いさぎよ)さだ。子供に負担をかけたくない、誰にも依存せず自分の人生を完結させたい。そんな現代的なプライドを、この建物は優しく、そして力強く肯定してくれる。所有権分譲だからこそ、将来の売却や相続も思いのままだ。 「今の家が一番」という頑(かたくな)な思いを、少しだけ解いてみてはどうだろう。思い出は、場所を変えても色褪(あ)せない。むしろ、煩わしい維持管理から解放されたとき、夫婦の会話は新婚時代のような軽やかさを取り戻すかもしれない。 「終の棲家」を我慢の場所にしない 人生の後半戦、家はもう「守るもの」ではなく「遊び場」であっていい。「終(つい)の棲家(すみか)」を我慢の場所にしないほうがよい。駅前で、新しい自由を手に入れた人々の顔は、驚くほど若々しい。次は、あなたの番だ。昨日までの重たい邸宅を脱ぎ捨てた先に、見たこともないほどチャーミングな「明日の自分」が待っているはずだ。(福祉住環境コーディネーター・終活カウンセラー) <サンミットひたち野東ステーションフロント>▽所在地:茨城県牛久市ひたち野東1-32-8▽形態:シニア向け分譲マンション(所有権方式)▽特長:駅直結、入居者専用レストラン・大浴場、365日24時間有人管理で緊急対応、身元引受人(保証人)不要▽見学会・相談会:随時受付中(予約制)▽資料請求・見学希望:🆓0120-555-712、または『サンミット』で検索

生物多様性保全、情報発信で協力 つくば市と実験植物園が連携協定

つくば市と国立科学博物館筑波実験植物園(同市天久保)は19日、「相互協力の促進に関する基本協定」を締結し、同植物園で締結式を行った。生物多様性の保全や研究成果の活用、市民への理解啓発など幅広い分野で連携し、今後、企画展や情報発信などを共同で進めていく。 協定では①自然環境の保全②相互の情報・資源・研究成果の活用③市民の安全・安心に関する情報共有④学術研究・科学技術の振興⑤学校教育・社会教育の増進⑥市内大学・研究機関との連携促進⑦これらの目的達成のための必要な事項など7項目を掲げた。 筑波実験植物園は14ヘクタールの敷地内に、日本の植生や世界の熱帯・乾燥地などの自然環境を再現し、絶滅危惧種を含む約7000種類の植物を保有する。そのうち約3000種類を自然に近い形で公開する国内有数の研究施設。企画展やイベントを通じ、年間9万から10万人が訪れている。 市の担当課は今回の協定締結の目的について「昨年3月に市が策定した『生物多様性つくば戦略』が掲げる『生物多様性を守り育むことが当たり前になる社会』という理念は、植物園の『知る・守る・伝える』という方針と合致する」と説明。昨年12月に開催した蘭(らん)展の共催や、今月27日まで開催されているインターネット投票を活用した写真コンテスト「全国に自慢したい!つくばの植物」を協力して実施しており、「市民の理解促進と、子どもたちが自然を身近に感じ継承できる取り組みをさらに進めたい」と述べた。 五十嵐立青市長は「生物多様性は言葉だけでは実感しにくいが、植物園は肌で感じられる場所」だとし、約3000種の蘭を保有する世界有数の保全施設としての同園の特徴を生かし「『蘭のまち』としての発信も検討できる」と述べた。また、市民団体と専門家が協働する循環づくりや、生物多様性センターを拠点としたツアー開催などの構想をあげながら、「都市の中の生態系づくりを専門家の助言のもと進めたい」と語った。 筑波実験植物園の遊川知久園長は「まずつくば市民の皆様に植物園を知っていただきたい。そのために、研究・保全活動、学習支援活動、企画展やイベントの情報発信で市と協力していきたい」とし、「市内にも絶滅危惧種がある。その保護、繁殖に植物園のデータを生かすなど、課題に筑波実験植物園の職員が貢献していくことを考えている」と展望を語った。(柴田大輔)