火曜日, 4月 7, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》3 小川芋銭 農村と水辺の風物を愛した文人画家

《霞月楼コレクション》3 小川芋銭 農村と水辺の風物を愛した文人画家

「浮れ舟」紙本淡彩 霞月楼所蔵

長期滞在の礼にと贈られた作品

【池田充雄】小川芋銭(おがわ・うせん)が霞月楼に滞在した際、主人に贈ったとされる作品「浮れ舟」を掲げる。制作年代は1934(昭和9)年春と伝わるが定かではない。かつての霞月楼は宿泊もでき、長逗留(とうりゅう)して作品に向かう文人墨客(ぶんじんぼっかく)が多くいたそうだ。

落款(らっかん)には「芋銭併題」とあり、これは画と題(賛、添え文とも)共に芋銭という意味。題の冒頭にある「花」と「月」の図柄で「花月」と読ませ、店の名である「霞月」を折り込んだ。全文は以下のように読める。

「花月美なるてふ 千金のよい おぼろ月夜や かすみが浦に 遊ぶなら あの うき草の 浮れ舟」

洋画を学び挿絵画家として出発

小川芋銭は1868(慶応4)年、江戸・赤坂溜池の牛久藩邸に生まれた。本名茂吉。父は同藩大目付職を務めたが、1871(明治4)年の廃藩置県を機に帰農し、牛久沼畔の新治県城中村(現牛久市城中町)に住んだ。

小川芋銭

芋銭は1879(明治12)年に上京すると、本多錦吉郎の画塾「彰技堂」で洋画を4年間学んだほか、独学で和漢洋の画技や教養を修めたという。その後、政治家でジャーナリストの尾崎行雄の推挙を受けて「朝野新聞」の画工となるが、1893(明治26)年、父の意思により牛久に戻り、農業に従事する。

1903(明治36)年、「読売新聞」の懸賞絵画に応募した「新年の意」が第1等当選し、元旦の紙面に掲載された。この頃から「いはらき」「平民新聞」など多くの新聞雑誌に挿絵や短文を発表し始める。1908(明治41)年には初の作品集「草汁漫画」を刊行し、挿絵画家としての名声を高めた。

院展の同人になり土浦で初執筆

1911(明治44)年、友人の小杉未醒(放庵)と2人で初の展覧会を東京と大阪で開催。1915(大正4)年には平福百穂、川端龍子らと「珊瑚会」を結成し、1917(大正6)年6月の第3回珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に激賞され、日本美術院の同人に迎えられた。

「肉案」1917年 紙本墨画軸装 137×64cm 茨城県近代美術館所蔵

同年8月、芋銭は院展同人としての初作品を制作するため、画想を霞ケ浦に求めた。舟で数日かけて巡った後、神龍寺(土浦市文京町)の一室を借りて2景を描き上げ、牛久へ戻って残り3景を完成させ、「澤國五景」として9月の再興第4回日本美術院展に出品。これを斉藤隆三は「やや漫画的な臭いを残しつつ、克明な写生に基づく細心な風景」と評している。

内助の功により画家として大成

生来虚弱だった芋銭が農業を営みながら画業を続けられたのは、1896(明治29)年に結婚した妻こうの働きぶりが大きかったという。河童や獺(かわうそ)などの妖魅を多く描いたのも、神経衰弱による幻覚の現れと見る人もいる。

画号の「芋銭」は「自分の絵が芋を買うほどの銭になれば」という思いによる。また「牛里」の号で俳人としても活躍し、正岡子規らとも交流があった。雑誌「ホトトギス」では1910(明治43)年から没年まで、表紙絵や挿絵を数多く手掛けている。

芋銭は1938(昭和13)年12月、自宅前の画室「雲魚亭」で没した。この建物は現在、小川芋銭記念館として牛久市が管理し、作品や遺品、書簡などを展示している。墓は近くの稲荷山得月院にある。

「水魅戯」1923年 紙本淡彩軸装 62.4×95.2cm 茨城県近代美術館所蔵
  • 取材協力・参考資料 ▽茨城県近代美術館▽赤坂美術▽図録「小川芋銭展」(2012年、茨城県近代美術館)▽書籍「芋銭書簡拾遺」(1942年、山雅房発行)▽北畠健「小川芋銭研究」ウェブサイト▽牛久市観光協会ウェブサイト

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

「芥川龍之介記念館」来年夏に開館《ふるほんや見聞記》

【コラム・岡田富朗】芥川⿓之介は、東京帝国⼤学(現・東京⼤学)学⽣であった1914(⼤正3)年から亡くなる1927(昭和2)年まで、北区⽥端に暮らしました。その芥川の居住跡地に、「芥川龍之介記念館」(仮称)が、没後100年を迎える2027(令和9)年夏に開館する予定です。命日である7月24日は「河童忌」と呼ばれ、毎年芥川龍之介をしのぶ催しが行われています。 ⽥端には、明治から昭和期にかけて、1キロ四方の狭い地域に累計100人以上もの芸術家や文筆家らが暮らしていました。1889(明治22)年に東京美術学校(現・東京藝術⼤学)が上野に開校すると、上野への便がよい⽥端には、芸術を志す若者たちが住むようになりました。 そして1914(⼤正3)年に芥川⿓之介が転⼊し、その後、室⽣犀星、菊池寛、堀⾠雄、萩原朔太郎、⼟屋⽂明らも転⼊し、芸術家のみならず、多くの⽂⼠も住む地域となっていきました。 陶芸家の板谷波山も、1903(明治36)年から、当時、人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる場所ということで、田端に居を構えていました。1945(昭和20)年、戦災により住居兼工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び戻り、終生田端で暮らしました。 芥川⿓之介の没後、⽥端の家にはご遺族が居住していましたが、1945年の空襲により焼失し、ご遺族は転居しました。その後、集合住宅1棟と個人住宅2棟が建ちましたが、2017(平成29)年、そのうち1棟が売却されることとなり、翌18年に北区はその⼟地を購⼊し、国内初となる「芥川⿓之介記念館」(仮称)を建設することを表明しました。これまで芥川⿓之介を単独で顕彰する記念館・⽂学館は設置されてきませんでした。 大正期の暮らしを体感できる場所 芥川龍之介が居住し、多くの作品を生み出したこの地において、記念館は大正期の暮らしや創作環境を体感できる場所となります。邸宅2階にあった書斎は、創作の場として再現され、芥川が実際に使用していた文机やインク入れ、ペンなども複製して配置されます。来場者は再現された書斎に実際に入ることができ、これらの複製品に触れることもできます。 また建物や内装、庭園に至るまで、当時の姿を参考にしながら空間の雰囲気を大切にし、庭の木々や石の配置についても、写真資料などを手掛かりに芥川が見ていた風景の面影を感じることができるよう、整備をする予定です。館内には展示スペースのほか、ミュージアムショップの設置も予定されています。 北区地域振興部文化施策推進課の飯塚さんは「今では、田端に住む人の中でも芥川龍之介が実際に田端に住んでいたことを知らない方が増えています。北区民、文学ファンの中でも「芥川といえば⽥端」ということを知らない人たちに、是非足を運んでいただき、芥川が数多の名作を生み出した書斎などを「体感(feel)」して、楽しんでもらいたい」と話してくれました。 芥川⿓之介の作品は40を越える国・地域でも翻訳され、現在も世界中で高く評価されています。開館に向けてクラウドファンディング(CF)も行われており、海外からの支援も寄せられているそうです。今後のCFは今年の夏ごろを予定しているそうです。(ブックセンター・キャンパス店主)

開幕戦は引き分け つくばFC

1年で1部復帰目標 第60回関東サッカーリーグが4日開幕した。2部男子のジョイフル本田つくばFC(本拠地つくば市)は5日の開幕戦でオノデラFC(本拠地 横浜市)と対戦、互いに決め手を欠き、0-0の引き分けで終わった。開幕戦はホームのつくば市山木、セキショウ・チャレンジスタジアムで開催された。 第60回関東サッカーリーグ2部 第1節(4月5日、セキショウ・チャレンジスタジアム)つくばFC 0-0 オノデラFC前半0-0後半0-0 つくばFCは1年での関東リーグ1部復帰を目標に掲げ、開幕に向けて2カ月前から準備に取り組んできた。試合前半はその成果が出て、相手のシュートを0本に抑えつつ、ボールを保持して主導権を握る戦いができていた。だが後半はボールへの出足や運動量が鈍り、押し込まれて後手に回るようになった。最終的に、後半だけで7本のシュートを相手に許している。 「無失点で粘れたことは非常に良かったし、前半は良い守備から良い攻撃という形で、何度も相手ゴールに迫ることができた。だが後半は相手が戦い方を修正し、準備が整っているところへ自分たちが飛び込んでいく形になってしまった」と楠瀬章仁監督。 「陣形が間延びして中盤でセカンドボールを拾われ、自分たちがボールを前へ送っているつもりでも、逆に押し込まれる展開を作られてしまった。攻撃しながら守備もしっかりイメージしないといけないし、守備から攻撃への連動も必要。攻守が表裏一体でつながっている部分は、チームとしてもっと突き詰めないといけない」と菅谷将人主将。 楠瀬監督は「今日は前の動き出しが少なく、長いボールが増えてしまった。そこには開幕戦の緊張や負けたくないという思いもある。次は緊張もほぐれると思うので、フォーメーションやシステム、ボールの動かし方を調整し、もっと自分たちの目指すサッカーをやりたい」と強調する。 若手とベテランの良いバランス 今季新規加入選手の一人に関口訓充がいる。かつてベガルタ仙台や浦和レッズなどで活躍し、日本代表にも選出されたミッドフィルダーだ。5日は2列目の中央で先発し、攻撃のスイッチを入れたり、自らゴール前へ走り込んだり、ボールを落ち着かせたりなどチームの要として90分間走り続けた。「つくばはチームの雰囲気が明るく、若くて野心ある選手が多い。もっとやれるし、もっと上へ行かないといけないチーム。昇格のために少しでも力になりたい」と話す。 楠瀬監督も現役時代はヴィッセル神戸や松本山雅FCで活躍。こうした経験豊富な人材から、若い選手が学ぶことは多いはずだ。 「関口は言葉でもプレーでもチームを引っ張り、いい流れをもたらしてくれる存在。他の選手はそれに引っ張られているだけでなく、追い越していかないとトップレベルへは行けない。選手として非常に大切なこと」と楠瀬監督。 「若い選手も自分をしっかり表現することでは全然劣らず、前向きなパフォーマンスを見せている。そこで少しの食い違いやバランスの悪さを感じた時に、広い視野で働きかけるのが自分や関口の役割。経験豊富な選手にうまく頼りつつ、任せきりではなく協力し合ってチームの力を引き上げていきたい」と菅谷主将は目論む。 開幕戦でつくばFCは勝ち点1を獲得し、順位は10チーム中5位。次節は12日、とちぎフットボールセンター(栃木県矢板市)でヴェルフェ矢板と対戦する。(池田充雄)

里山に響く若者たちの声《宍塚の里山》134

【コラム・齋藤桂子】宍塚の里山には、月1回、法政大学のサークル「キャンパス・エコロジー・フォーラム(略してキャンエコ)が通ってきています。初めて来たのが2002年11月と聞いていますから、今年で24年になります。私がキャンエコと活動するようになってから10年になります。私の体力は少しずつ低下する一方で、学生たちのエネルギーはますます々アップしているように感じます。 最近の参加人数は、平均すると30人ほどですが、50人に達することもあります。具体的な活動内容は、外来魚や外来植物の駆除、雑木林での落ち葉かき、増え過ぎた植物の伐採や抜き取り、竹細工、溝さらいなどですが、彼らの表情はいつも明るく楽しそうです。 最近は、学生たちからの「〇〇をやってみたい」という提案で始める活動が増えています。提案は、学生の代表から出る場合もありますが、1年半前から実施している活動後のアンケート結果から生まれることもあります。その結果、生き物調査、里山ダンスの創作、山道の階段づくり、森の看板づくり、森づくり、ピザづくり、竹炭づくりなどの活動が進行しています。 これらは、全員でやるよりも数人で取り組んだ方が効率が良いので、希望者を募ってプロジェクトチームを結成して進めています。 階段づくりプロジェクトチームは5人で結成し、昨年11月からの3回で二つの階段を造り上げました。仲間と試行錯誤しながら仕上げたときの達成感は、この上ない喜びとなったことでしょう。寒い中で顔を真っ赤にして汗を流す彼らの表情は、喜びと充実感がみなぎっていました。活動後の反省文に「またこのようなプロジェクトに参加してみたい」とありました。 今日は一番楽しかった さまざまなプロジェクトは、まだ始まったばかりですが、細分化されればされるほど私1人の力では動かすことが難しくなります。しかし、宍塚の会の方々はみなさん協力的で、学生の気持ちに寄り添いながらサポートしてくれます。里山に集まってくる人たちは、やさしさも一緒に連れてくるような気がするのは、私だけの感覚でしょうか。 学生たちの活動が活性化しているもう一つの要因は、彼らが上手にSNSを使っていることだと思います。アンケート調査と集計はネットでやっています。また、事前に私から活動内容を受け取ると、代表が参加者の希望を聞きながらグループを決め、里山に到着した後、すぐに活動に入れるようになっています。 キャンエコ代表の任期は、10月から翌年の9月までです。昨年10月、新代表が初めて35人のメンバーを連れて里山にやってきました。代表としての初日、さぞかし緊張しているのだろうなと見守っていましたが、活動後のあいさつで「代表になって初めての活動でしたが、今日は今までで一番楽しかったです」と、ニコニコ顔で話した瞬間、みんなの拍手が里山に響き渡りました。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

切り捨て《短いおはなし》

【ノベル・伊東葎花】 2100年、人間は2種類に分けられる。AIを使う人間と、AIに使われる人間。約7割の人間は、AIに使われている。AIロボットの指示で働き、失敗すると容赦なく切られる。切られた人間はスラム街へ流れ、一生這い上がれない。 私はもちろんAIを使う側の人間。 「おはよう、アンジー、西区の売り上げを出してちょうだい」 「かしこまりました。ケイト様」 「Bブロックの業績が悪いわ。原因は何だと思う。アンジー」 「ロボット30台に対し、人間200名は多いかと。人件費が無駄です」 「そうね、50名ほど切りましょう。ピックアップお願い」 「承知しました」 AIロボットは、人間みたいに迷わない。的確に、能力が低い人間を切り捨てる。 「ケイト様、今日はマリアさんのバースデーです」 「あら、そうだったわ。ぬいぐるみでも贈っておいて」 「ケイト様、マリアさんは12歳です。アクセサリーがよろしいかと」 「そう。じゃあアンジー、お願いね」 結婚はしていないけど娘はいる。遺伝子を残すために作った娘。それがマリア。研究施設に預けて、優秀な子育てロボットに全てを任せている。面会は年に一度。成長を確認しに行くだけ。 今日はマリアとの面会日。高級なお菓子を持って、研究施設に行った。ここには人間の大人はいない。完璧なシステムを組み込んだAIロボットが、食事から学習、運動能力から就寝まで管理する。「いらっしゃいませ、ケイト様」 「こんにちは。マリアはどこかしら」 「マリアさんはC棟です」 「C棟? そんな施設あったかしら」 オートカートに乗って着いたC棟は、まるでスラム街のようだ。すさんだ目の子どもたちが、私からお菓子を奪ってむさぼるように食べた。ひどい場所。こんなところにマリアがいるはずない。 「ママ」 振り向くと、マリアがいた。擦り切れたジーンズを履いている。 「マリア、いったいどうしたの? ママが送った服は?」 「高価な服は、落ちこぼれ棟には回ってこない」 「落ちこぼれ? マリアが?」 「そう。あたし勉強できなくて、AI先生に切られたの」 「何ですって?」 「でもね、こっちの方がいい。自由だもん」 何てこと。信じられない。私はすぐに、施設長に苦情を言った。 「多額の寄付をしているのに、どういうことなの?」 「マリアさんは、われわれの理想とするレベルには程遠いです。よって、切り捨てました」 「切り捨てた?」 「私たちはそのようにプログラムされておりますので」 「戻しなさい。すぐにマリアを戻しなさい」 AI警備隊によって、私は外に出された。クレーマー対応ボタンが押されたのだ。 能力が低ければ切り捨てる。すべて私がAIにやらせていたこと。それが正しいと信じていたこと。混乱しながら、フェンスを伝って歩いた。 「ママ、バイバイ」 C棟の前で、マリアが無邪気な顔で手を振った。娘の笑顔を初めて見た。そして私は、初めて泣いた。 (作家)