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《ことばのおはなし》20 私のおはなし⑨

【コラム・山口絹記】サイドテーブルに妻の電波時計と、私のメモ帳とペンケースが置かれていた。寝ている間に妻が届けてくれたのだろう。

深夜0時。失語発症から約7時間。文庫本に書かれた文字は全く認識できない。とにかく、今は勉強だ。寝ている場合ではない。

左手人差し指を挟んでいた脈拍測定器を右手に付けかえ、左手で鉛筆を持ち、少し考えて文字を書いた。

“Cogito ergo sum. I think therefore I am.”

左手で第2言語を書くことはできた。思考が鈍る様子もない。しかし、私には英語よりも使いこなしていた言語があったはずなのだ。それがどのような言語だったかがわからないことが問題だ。

今度は左手で右手に鉛筆を握らせてみる。深呼吸をして何かを書こうと試みるも、腕はあらぬ方向に動いてメモ帳の上に置くこともできない。掛け布団の上で右手がもぞもぞと動いている。

左手で右手を導き、両手でメモ帳のマス目をなぞる。まだ痺れている右手に感覚を集中させ、右手だけで線を書いているとイメージし続ける。

1時間ほど、いびつなアルファベットを書き続け、試しに左手を離してみた。右手は意志とは関係なく文字を書き続けるものの、腕が動かずに同じ場所に文字を書き続けてしまった。壊れたタイプライターのようである。手ではなく、紙を動かしながら書いてみると、どうにか判読できる文字が書けた。

忘れないうちに失語発症からのことを断片的に記録し始める。ちょうど記録が現在に追いついた3時頃、何の前触れもなく部屋の明かりが消えた。

今の私のことばを書きたかった

「停電嗎?」私の口が唐突に中国語を発した。「我想…」暗闇でつぶやきながら、世界の認識に再起動がかかるのを感じた。今、頭の中に思い描いているのは、漢字だ。さっきまでどうしてもイメージできなかった漢字が頭の中に溢れてくる。

江碧鳥逾白
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年

なぜ杜甫の絶句が頭に浮かんだのかはわからないが、暗闇に慣れてきた目と両手で必死にメモ帳に書きつけた。文庫本の文字に目を凝らすと、さっきまで何もわからなかった文字列の所々にぼんやりと意味を感じた。今私は、言語を学ぶ上で最高に楽しい瞬間を、自分の母語で味わっているのだ。看護師の巡回が来るたびに寝たふりをしてやり過ごし、ページをめくる。

本に挟まれた、かつての自分が書いたメモを見、それを右手と左手交互に使いながら書き写し始めた。ペンケースに入っていた鉛筆すべての芯が潰れてしまい、万年筆を取り出した頃には、外が明るくなり始めていた。唇を噛み切って眠気を堪える。

文字を書き写すのではなく、自分で新たに文章を書くことはまだできなかった。「今日は…」と書き写して、続きを書こうとすると、「今日は今日は今日は…」と1ページ書きつくしてしまうのだ。

私は、今の私のことばを書きたかった。過去の私のことばを書き写すのではなく、今の私のことばを。

再び深呼吸をして、頭の中を真っ白にする。どこかまだ自分のものではないような右手が書いたのは、娘の名だった。-次回に続く-(言語研究者)

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