【大山茂】「今の若い人たちに戦争の悲惨さを知ってもらい、平和の尊さをかみしめてもらいたい」。元つくば市長で、筑波学園病院(つくば市上横場)を運営する筑波麓仁会の理事長、藤沢順一さん(78)は同病院の敷地内に5年前に建立した戦闘機のモニュメントの前で若い職員たちにこう語る。
病院は戦前の谷田部海軍航空隊(谷田部飛行場)跡地内に建つものの、今ではその面影を失い、過去を知る人は少ない。ところが兵士たちが出撃の際に祈願したという『谷田部神社』が今も病院近くにひっそり佇(たたず)んでいる。毎年桜の咲く時期に元航空隊員たちがこの神社に参拝しているとの話を伝え聞いた藤沢さんが「後世に飛行場が存在した事実を伝えなければ」と、象徴的な零戦像の建立を思いたった。
モニュメントが設置されているのは病院の正面入り口に近い緑地の一角。すぐ隣に飛行場時代から花を咲かせているという桜の老木が2本、まるで零戦を守るかのように枝葉を広げている。御影石のモニュメントは台座を含め高さ約2メートル、零戦の長さは約60センチ。400万円をかけ、笠間市の伝統工芸士に製作を依頼した。
市教育委員会の資料によると、谷田部飛行場は病院の敷地に本館が建ち、常磐自動車道をはさんで向こう側にある農研機構(同市観音台)の研究施設群には芝生の滑走路が、さらにその奥には飛行機を格納する掩体壕(えんたいごう)があった。太平洋戦争の最中には九三式練習機(通称・赤とんぼ)の飛行訓練が行われた。しかし戦局が悪化すると実戦機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が配備され、10代後半の若い兵士が特別攻撃隊(特攻隊)として南方の戦線に送り出された。
モニュメントの除幕式には元航空隊員や霞ケ浦の予科練生、谷田部神社の世話人、地元関係者らが多数出席した。同航空隊の卒業生で千葉県在住の元海軍中尉は「多くの若者がこの地から出撃して命を落とした。生きながらえた者で慰霊祭を行ってきたが、当時を偲ぶ構造物はなく、寂しい思いだった。記念碑が建立されたことで戦友たちの心の拠り所ができた」と紅潮した表情で語ったという。
今回、藤沢さんとモニュメントの前で撮影に応じた病院の女子事務員たちは、妻子を残して戦艦に突撃する特攻隊員の苦悩を描いた百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』の話題に触れながら、「平和な時代に生きていて良かった。これからも日本は平和でいて欲しい」と神妙な面持ちで語っていた。
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