【田中めぐみ】霞ケ浦の沖に向けてまっすぐ伸びた桟橋は、櫻井鯉養魚場(かすみがうら市牛渡)の網いけすにつながっている。代表の櫻井隆士さん(53)の後に続き桟橋を渡ろうと試みたが、思いのほか高く、足がすくんで進めない。橋が揺れているように見える。隆士さんは造作もない様子でどんどん進んでいき、すっかり離されてしまった。遅れた私を見かね「揺れてはいない。落ちた人は一人もいないから大丈夫」と声をかけてくれたが、私は視線を足元から離すことができない。帰れなくなっては迷惑がかかると判断し、謝って途中で引き返した。

80年代ピークに下降線
霞ケ浦のコイの生産量は年々減っている。コイを食べる風習のある山形県などの地域で食文化が廃れ、消費が減っていることが原因のひとつに挙げられる。
コイの養殖が始まったのは1965(昭和40)年ごろ。隆士さんは、半漁半農で生活していた人々が減反政策で米作りをやめ、コイの養殖を始めた背景があると話す。隆士さんの父である謙治さん(80)が周囲の人たちと養殖を始めたのも70年ごろのこと。養殖を始めてはみたが全くの素人が育てるのは難しく、廃業する人も少なくなかったという。謙治さんはめげず、失敗を繰り返しながらも養殖を体で覚え、生産量を伸ばしていった。
63年に常陸川水門(逆水門)が閉まったことで霞ケ浦の水質が変化、73年にはアオコの大発生で養殖ゴイが大量へい死(酸欠死)し、廃業の危機に追い込まれた。当時8歳だった隆士さんも当時のことはよく覚えているという。大量へい死で一時は生産量が落ち込んだものの、高度経済成長の追い風と釣り堀ブームにも後押しされて盛り返し、75には茨城県が生産量全国一となった。

茨城農林水産統計年報によると、82年に霞ケ浦(北浦含む)のコイの生産量は8670トンとなり、ピークを迎える。だがその後は下降の一途をたどった。2003(平成15)年にはコイヘルペスウイルスの発生で全量処分となり櫻井鯉養魚場は2度目の廃業危機に陥った。それでも出荷規制が解除になると立ち直り、なんとか危機を乗り切ったという。しかし、14年、霞ケ浦の生産量は968トンにまで落ち込んだ。(つづく)