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児童虐待防止訴え 土浦から たすきリレー出発

【崎山勝功】児童虐待防止の啓発活動「オレンジリボン運動」を広める「子どもを守ろう!オレンジリボンたすきリレー2020」の出発式が6日、土浦市役所うらら屋外広場で開かれた。今年は新型コロナウイルス感染防止対策として従来のリレー形式に代わり、児童施設職員4人が広報車に乗って、ゴールの県庁(水戸市)に向かって出発した。 出発式で児童養護施設「窓愛園」(土浦市殿里)の上方仁理事長は、コロナ禍で家庭内の児童虐待が増えている現状に触れ「今年も(リレーを)止めるわけにはいかない」と訴えた。 同リレーは、県児童福祉施設協議会、県要保護児童対策地域協議会が主催して開かれ、今年で8回目。 コロナ禍で潜在化か 休校明けに通告増加 県警人身安全対策課によるとコロナ禍の今年は、1月から6月末までに「児童虐待や虐待の疑いがある」として、警察が児童相談所に通告した件数は798件と、前年同期比で95件増加した。県警の担当者は、一般論と前置きした上で「児童虐待の認識が広まったためではないか」と分析する。 土浦児童相談所の中林貴紀所長は「4、5月は学校が休みで、子どもたちの所属する集団が活動していなかったので通告件数はあまり増えなかった」と述べた。学校や保育所が再開した6月以降から通告件数が増え始めたという。「4、5月は(休校のため虐待が)見えなかったのが、6月以降、上がってきた傾向がある」と指摘した。 その上で中林所長は「誰かがきちんと(虐待を)見付けてあげないといけない。見付けたらためらわずに通報してほしい」などと呼び掛けた。 過去最高を更新 県青少年家庭課の統計などによると、つくば、土浦市など県南14市町村を管轄する土浦児童相談所管内の2019年度虐待相談対応件数は1116件(全相談件数2182件中51%)。県全体でも3181件(全相談件数6754件中47%)といずれも過去最高を更新している。 土浦児童相談所によると、19年度の虐待相談の内訳は▽心理的虐待584件、52%(県全体は1844件、58%)▽身体的虐待362件、32%(同856件、27%)▽ネグレクト(育児放棄)155件、14%(同439件、14%)▽性的虐待15件、1%(同42件、1%)―となっている。 県内では、県子どもを虐待から守る条例が19年4月から施行され、児相の体制が強化された。土浦児相は副所長が配置され、職員が7人増加した=3月31日付。一方で、児童虐待死亡事件が相次いだ千葉県では、県社会福祉審議会が今年6月に松戸市周辺など人口の多い地域に児相を2カ所新設し、計8カ所に増やすことを答申した。柏市と船橋市はそれぞれ市独自の児相を立ち上げるという。 ※メモ 【オレンジリボン運動】04年、栃木県小山市で当時3歳と4歳の兄弟が、同居していた父親の友人から暴行を受けた末に川に投げ込まれて死亡した事件を受けて、05年に同市の市民グループ「カンガルーOYAMA」が事件の再発防止と児童虐待防止を目指して始まった。 【県子どもを虐待から守る条例】児童相談所や市町村間での適切な引き継ぎの実施や警察との連携強化、児童福祉司などの専門職員の増加を盛り込んだ議員提案条例。18年12月県議会で成立し、19年4月1日から施行された。

《霞月楼コレクション》9 東郷平八郎 霞ケ浦を愛した日露戦争の英雄

【池田充雄】霞月楼の「すみれの間」に、東郷平八郎海軍元帥の書「感神明」がある。東郷は霞ケ浦海軍航空隊が気に入って、たびたび阿見を訪れては霞月楼に立ち寄り、ここで遊んだという。店内では最も小体な8畳の部屋だが、3畳の脇間と2畳の畳縁も備えた粋な造り。美丈夫として名高い東郷は、若い頃は料亭遊びが盛んで何日も居続けたというが、当時はすでに70代半ば。軍神の鎧兜を脱ぎ、穏やかにくつろぐ一時だったに違いない。感神明の書は自ら揮毫して「ここに掛けておきなさい」と言い置き、以来ずっとすみれの間に掲げられている。 丁字戦法でロシア艦隊を撃破 東郷平八郎は1848(弘化4)年、薩摩藩士・東郷吉左衛門の4男として鹿児島市加治屋町に生まれた。初陣は1862(文久3)年の薩英戦争。戊辰戦争では三等砲術士官として薩摩藩の軍艦「春日丸」に乗り、1868(慶応4)年の阿波沖海戦や1869(明治2)年の箱館戦争で幕府軍の艦隊と交戦。これが日本における近代海戦の始まりとされる。 1894(明治27)年の日清戦争では巡洋艦「浪速」艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛海戦などで活躍。1904(明治37)年2月10日に日露戦争が始まると、連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に座乗し、旅順港封鎖作戦や黄海海戦など主要作戦全般を指揮。同年6月6日には大将に昇進した。 戦況を打開すべくロシアはバルチック艦隊を極東に派遣するが、1905(明治38)年5月27日早朝、連合艦隊はこれを対馬沖で迎撃。一列単縦陣から会敵直前に突如回頭、敵艦隊と並走しつつ砲撃を加える「丁字戦法」で完勝を収めた。 この日本海海戦で、世界屈指の戦力を誇るロシア精鋭艦隊を撃破し、日露戦争を勝利に導いた東郷は、世界的な名提督として「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」などの名で賞賛され、国民の尊崇を広く集めた。 1905(明治38)年から5年間、海軍軍令部長。1913(大正2)年、元帥に昇進。1914(大正3)年から7年間、東宮御学問所総裁を務めた。その後も海軍の長老として影響力を発揮、1934(昭和9)年に86歳で逝去した。 航空隊創設前の霞ケ浦を視察 東郷は1921(大正10)年9月28日、皇族で海軍大将の東伏見宮依仁親王の随行員として阿見を訪れている。同行は加藤友三郎海軍大臣、野村吉三郎大臣副官、山下源太郎軍令部長ら。ここには霞ケ浦海軍航空隊の創隊に先立ち、同年4月6日、臨時海軍航空術講習部が設置されていた。 第一次世界大戦後、軍部は航空機の重要性を痛感し、海軍は1916(大正5)年、横須賀鎮守府に最初の航空隊を設置。次いで本格的な教育訓練を始めるため、飛行場の展開が容易で水上訓練にも適した阿見の地が選ばれた。指導者養成のための教官団も英国から派遣され、ウィリアム・フォーブス=センピル大佐以下約30人、いずれも航空機の操縦ほか整備、兵器、爆撃、偵察、写真、落下傘などの専門家揃いだった。 東伏見宮ら視察団一行はセンピル大佐の案内で、教官団と共に日本に来た各種飛行機や、隊員らの飛行訓練などを視察。講習部本部前ではそれぞれ記念植樹をしたが、これらは戦中から戦後にかけて枯死し残っていない。 土浦に数多く残る東郷の書 国立病院機構霞ケ浦医療センター(土浦市下高津)の応接室には、東郷の書「制機先」が掛かる。1941(昭和16)年に霞ケ浦海軍病院として開設した経緯から、出征迫った軍人が託したという日本刀や短剣なども保存され、雑記帳には戦時中に慰問に訪れたのか「赤毛のアン」などの翻訳で知られる村岡花子のサインもある。 「当院は海軍病院時代に予科練の学生を多く治療した。その中には戦争末期に特攻隊に行った人もたくさんおられ、彼らの犠牲の上に今の日本がある。そういったルーツを持つ病院であることを誇りに思い、歴史を発掘し続けている」と、山口真也部長は話す。 土浦で常陽運送を営んだ秋元梧楼は俳人として知られ、小林一茶の句を夏目漱石が揮毫し、小川芋銭が俳画を添えた「三愚集」を編んだほか、東郷への崇拝から「東郷義会」という団体を結成し活動した。彼が結んだ縁により、市内には東郷の書が多く残るという。県立土浦一高(土浦市真鍋)にある「質実剛健」の額もその一つだ。 ●取材協力・参考資料国立病院機構霞ケ浦医療センター▽県立土浦第一高等学校▽陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽「阿見と予科練」(2002年、阿見町)▽阿見町民話調査班「爺さんの立ち話」(2003年、阿見町)▽阿見町郷土戦史調査会「日露戦役あれこれ」(2005年、阿見町)▽永山正「土浦町内史」(1989年、土浦市)▽東郷神社ウェブサイト▽記念艦三笠ウェブサイト▽ウィキペディア シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

13人超の41人が届け出 つくば市議選告示

【鈴木宏子】任期満了に伴ってつくば市長選と同日の18日告示された同市議選(定数28人)には、定数より13人多い41人が立候補を届け出た。有権者数は18万7565人(17日現在) 内訳は現職が23人、新人が17人、元職が1人。政党別は自民11人、公明3人、共産3人、市民ネット4人、新社会1人、諸派1人、無所属18人。男女別は男性26人、女性15人。現職5人が引退する。 ▷つくば市議選立候補者一覧 届け出順(氏名・敬称略、年齢、職業、政党・政治団体、現職・新人・元職の別・過去の当選回数) 五頭 泰誠(ごとう・やすまさ)52 つくば市産業育成協議会代表理事 自現②【略歴】栃木県立小山高校卒。TOKYO自民党政経塾13期生。つくば秀英高校PTA会長。境町出身。吉瀬在住。 高野 文男(たかの・ふみお)57 損保代理店 無現①【略歴】藤代高校卒。元牛久茎崎ライオンズクラブ会長。元県倫理法人会副事務長。つくば中央倫理法人会相談役。つくば市出身。上岩崎在住。 浜中 勝美(はまなか・かつみ)67 政党役員 公現③【略歴】中央大学卒。党茨城第6支部副総支部長。つくば市出身。上郷在住。 鶴田真子美(つるた・まこみ)55 動物愛護団体理事長 無新【略歴】東京外語大学大学院修了。武蔵野音楽大学講師。NHKイタリア語会話講師。動物愛護団体「認定NPO法人CAPIN」理事長。神戸市出身。二の宮在住。 仲村 健(なかむら・けん)38 大学院生 無新【略歴】筑波大学大学院システム情報工学研究科修了。元NTT東日本社員。元筑波大学職員。筑波大学大学院博士後期課程。埼玉県所沢市出身。研究学園在住。 飯岡 宏之(いいおか・ひろゆき)68 会社員 無元⑤【略歴】日本大学理工学部卒。元アイ・エヌ・エー筑波研究所勤務。飯岡建設営業。市こども会育成連合会会長。つくば市出身、上野在住。 加藤 純子(かとう・じゅんこ)72 無職 無新【略歴】元婚活支援事業「ハッピーサークル」代表。元中高年男女の親睦支援事業「ゆうゆうクラブ」代表。小田自治会会長。つくば市出身。小田在住。 鈴木富士雄(すずき・ふじお)72 農業 自現⑥【略歴】下妻一高卒。元市議会議長。全国芝生協会会長。土浦税務署管内納税貯蓄組合連合会筆頭副会長。つくば芝生事業協同組合顧問。つくば市出身。寺具在住。 皆川 幸枝(みながわ・ゆきえ)49 市議 市民ネット現②【略歴】山形大学人文学部卒。元ソフトウエア開発会社勤務。元生活クラブ生協茨城理事。山形県南陽市出身。高崎在住。 山中 真弓(やまなか・まゆみ)42 党市委員 共現①【略歴】茨城大学農学部卒、東京農工大学大学院連合農学研究科修了。元ツムラ勤務。現共産党つくば市委員会委員。栃木県市貝町出身。並木在住。 川久保皆実(かわくぼ・みなみ)34 弁護士 無新【略歴】東京大学大学院法学政治学研究科修了。鳥飼総合法律事務所勤務。IT会社「リージット」代表取締役。IT会社「シンプルウェイ」取締役。つくば市出身。竹園在住 長塚 俊宏(ながつか・たかひろ)58 会社社長 自現①【略歴】茨城高校卒。元土浦関東商事社長。県環境保全協会副理事長。学園関東サービス社長。つくば市出身。谷田部在住。 小村 政文(こむら・まさふみ)26 勝手につくば大使 無新【略歴】筑波大学生物資源学類卒。情報サービス業「勝手につくば大使」。北海道網走市出身。花島新田在住。 川村 直子(かわむら・なおこ)48 市民ネット運営委員 市民ネット新【略歴】日本福祉大学社会福祉学部卒。元日本聖公会名古屋学生青年センター主事。新潟市出身。花園在住。 藤岡 輝子(ふじおかてるこ)49 中国語通訳 自新【略歴】水海道一高、中国・南京大学卒。元常総市議2期。ヤギ出張レンタル会社「山羊印本舗」経営。農産物直売所「七福交換の郷」経営。常総市出身。手代木在住 山本 美和(やまもと・みわ)50 政党役員 公現③【略歴】創価大学卒。元松代小父母と教師の会会長。元手代木中PTA会長。元土浦一高PTA会長。市議会副議長。つくば中央ライオンズクラブむすび支部会長。東京都出身。松代在住。 神谷 大蔵(かみや・だいぞう)47 会社役員 自現②【略歴】霞ケ浦高校卒。元つくば青年会議所理事長。市議会議長。つくば観光コンベンション協会副会長。つくばフェスティバル実行委員長。つくば市出身。沼田在住。 中村 重雄(なかむら・しげお)50 自営業 無新【略歴】東洋大牛久高校卒。中村米穀店社長。元市消防団谷田部第一分団長。元谷田部中おやじの会会長。市商工会理事。内町評議委員会委員長。つくば市出身。谷田部在住。 木村 修寿(きむら・しゅうじ)66 元つくば市職員 無現②【略歴】土浦日大高校卒。元谷田部町職員。元つくば市職員。市島名地区体育協会会長。市島名地区まちづくり協議会副会長。保護司。つくば市出身。島名在住。 小野 泰宏(おの・やすひろ)60 政党役員 公現⑤【略歴】中央大学経済学部卒。元大曽根小PTA会長。元大穂中PTA会長。党つくば支部長。党茨城第6総支部長。くすのき会会長。常総市出身。花畑在住。 木村 清隆(きむら・きよたか)56 市議 無現②【略歴】日本大学卒。元連合茨城副会長。元産別労組JAM茨城副委員長。国際IC日本協会理事。市立豊里中学校評議員。つくば市出身。上郷在住。 久保谷孝夫(くぼや・たかお)69 会社役員 自現⑨【略歴】東洋大牛久高校卒。元久保谷商事役員。ミユキコーポレーション役員。つくば市出身。前野在住。 木村 芳美(きむら・よしみ)57 行政書士 無新【略歴】吉沼中卒。石下高校中退。つくば市出身。西高野在住。 須藤 光明(すどう・みつあき)78 市議 自現⑤【略歴】上郷高校卒。元市経済部長・企画部長。県つくば芝振興協議会会長。インプルーブファーム代表取締役。つくば市出身。吉沼在住。 黒田 健祐(くろだ・けんすけ)39 市議 自現②【略歴】学習院大学文学部哲学科卒。元会社員。つくば青年会議所理事。つくば市出身。東平塚在住。 野友 翔太(のとも・しょうた)26 自営業 無新【略歴】早稲田大学社会科学部卒。元会社員。システム企画・運用支援の自営業。稲敷市出身。研究学園在住。 塚本 洋二(つかもと・ようじ)48 会社顧問 自現③【略歴】県立土浦産業技術専門学院卒。元大曽根タクシー整備管理者。信輝インターナショナル顧問。社会福祉法人博愛会理事。つくば市出身。花畑在住。 滝口 隆一(たきぐち・りゅういち)72 党市副委員長 共現⑨【略歴】法政大学社会学部卒。元土浦信用金庫職員。元民青同盟茨城南部地区委員長。土浦市出身。栄在住。 宮本 達也(みやもと・たつや)48 宮本ファーム代表 無新【略歴】谷田部高校卒。元市農業委員。つくば市谷田部農協理事。県猟友会谷田部支部事務局。つくば市出身、飯田在住。 小森谷佐弥香(こもりや・さやか)46 薬剤師 市民ネット現①【略歴】富山医科薬科大学薬学部卒。元製薬会社MR勤務。薬剤師。前橋市出身。研究学園在住。 小久保貴史(こくぼ・たかし)47 農業生産法人代表 自現②【略歴】八ケ岳中央農業実践大学校卒。元・小久保造園土木社長。元つくば青年会議所理事長。元筑波東中学校PTA会長。農業生産法人筑波農場代表。つくば市出身。小田在住。 ヘイズ ジョン 57 会社経営 無現③【略歴】カナダ・リジャイナ大学卒、音楽教育学学士取得。元英会話教師。イマジネリク代表取締役。カナダ出身。二の宮在住。 浅野英公子(あさの・えくこ)59 市民ネット運営委員 市民ネット新【略歴】東京外国語大学卒。元学習塾経営。元高校講師。元オーガニック検査員。富山市出身。吾妻在住。 下神納木加枝(しもこうのき・かえ)38 理学療法士 自新【略歴】四條畷(しじょうなわて)学園短大卒。一般の病院で7年、動物病院で7年勤務。県理学療法士会理事。NPO法人HA-HA-HA理事。大阪府堺市出身。みどりの東在住 中山 道世(なかやま・みちよ)34 飲食店経営 無新【略歴】藤代紫水高校卒。JTBトラベルカレッジ中退。中国上海で飲食店勤務。カクテル世界大会優勝。飲食店経営。つくば市出身。二の宮在住。 福田 恵(ふくだ・めぐみ)35 会社社長 政治団体「スーパークレイジー君」新【略歴】東放学園高等専修学校卒。エステサロン「美肌コンシェルジュ」代表取締役。経営コンサルタント。阿見町出身。赤塚在住。 伊藤 栄(いとう・さかえ)56 行政書士 無新【略歴】湘南高校卒。元陸上自衛隊勤務。行政書士伊藤栄事務所代表。山形県東根市出身。研究学園在住。 橋本 佳子(はしもと・けいこ)66 党県委員 共現⑤【略歴】聖徳学園短大保育科卒。共産党茨城県委員。土浦市出身。自由ケ丘在住。 金子 和雄(かねこ・かずお)76 党県委員長 新社会 現⑨【略歴】NHK学園卒。元竹内猛社会党衆院議員秘書。元県立土浦養護学校後援会会長。群馬県高崎市出身。下広岡在住。 塩田 尚(しおた・ひさし)70 行政書士 無現⑧【略歴】神奈川大学法学部卒。行政書士。愛媛県四国中央市出身。真瀬在住。 田中 美華(たなか・みか)38 販売員 無新【略歴】立正大学法学部卒。元飲食店店員。販売員。常総市出身。島名在住。 (18日午前11時現在)

【気分爽快 りんりんロード】6 サイクルツーリズムの先駆者 張替幸一さん

【伊藤悦子】土浦市の張替幸一さん(63)は「HMBアウトドアクラブ」という社会教育団体の会長として、妻のゆかりさん(57)と、家族向け、初心者向けなど、誰でも参加できるサイクリングイベントを多数企画している。 元公立学校の教員で、現在は土浦市小岩田西にある学習塾「學藝(がくげい)塾」を経営する。 ボーイスカウトの指導者だった経験を生かし、もともと塾の子供たち向けにアウトドア活動を行っていた。サイクリングの楽しさも伝えたいと考え、2004年に第1回「霞ケ浦サイクル&クルーズ」を企画した。 霞ケ浦で遊覧船を運航するラクスマリーナ(土浦市川口)のホワイトアイリス号をチャーターし、土浦から潮来まで自転車を載せてクルーズ、潮来から土浦まで約55キロを自転車で戻るというイベントだ。 以来「サイクリング天国いばらきを走ろう」を合言葉に、「自転車を通して休日を1日丸ごと楽しもう」という理念で、季節ごとにサイクリングイベントを企画している。 サイクル&クルーズは04年から07年まで4年連続実施し、18年に復活、19年に6回目を開催した。6回の参加者は延べ400人に及ぶ。 つくば霞ケ浦りんりんロードを活用したサイクルツーリズムは、17年の自転車活用推進法施行を受け、県が19年に自転車活用推進計画を策定して本格始動したばかり。張替さん夫妻の活動は、県を挙げての取り組みより15年も早く、つくば霞ケ浦地域のサイクルツーリズムの先駆者の1人でもある。 夫妻が目指すのは、みんなが驚いたり感動したりするテーマパークのアトラクションのようなイベント。ファミリー向けの「くるっと霞ケ浦35キロ」、ビギナー対象の「筑波山麓ご朱印ライド」、レンタサイクルで参加できる「つくば土浦カフェランチ自転車散歩」などユニークだ。 会員制ではなく、イベントごとに「この指とまれ」式で参加者を募集をする。すべてのイベントにはサポートカーが同行し、安全にも考慮している。 のんびり走り 楽しさに目覚めた 幸一さんと自転車との出合いは32歳のとき。筑波大学出身のトライアスロン選手から競技用の自転車一式を譲り受けたのがきっかけで、自転車競技に夢中になり練習に打ち込んだ。自分を追い込み、ひたすら霞ケ浦周辺を走った。今思うと「当時はつらかった」と振り返る。 しかし43歳のとき、体調を崩したことをきっかけに、のんびり走る家族向けサイクリングイベントに参加し、楽しさに目覚めた。かつて練習で何度も走った、霞ケ浦周辺の美しさや走りやすさに改めて気づいたという。 ゆかりさんも幸一さんの影響を受けて、クロスバイクに乗り始めた。2002年には30キロを走る東京シティーサイクリングに参加した。 サイクリングの魅力をゆかりさんは「初めて会った人同士でも、1本激坂(げきさか=激しい勾配の坂)を一緒に登ると、苦しさのあまり自然に笑顔になり途端に打ち解けてしまうところ」だと話す。 張替さん夫妻にとってりんりんロードの魅力は「ずばり筑波山と霞ケ浦があること」。風光明媚な景観はどこにも負けないと強調する。特に筑波山は、見る方向、見る時間によって表情を変えるところが魅力的だという。 一方で「心配なこともある」と話す。「りんりんロードには街灯がほとんどない。生活道路や通学路として使っている人もいる。安全のためにも街灯を設置してほしい」と訴える。また「トイレが少ないのもサイクリストにとっては不安」だという。 ◆HMBアウトドアクラブへの問い合わせは、https://hmb.lets-sports.net/。ツイッターアカウントは、HMBアウトドアクラブ 霞ケ浦 Cycling Team-イベント再開しました-

《霞月楼コレクション》番外編 一色五郎ゆかりの場所

【池田充雄】前回(9月20日付)取り上げた土浦出身の彫刻家、一色五郎のゆかりの場所と、土浦周辺で見られる主な作品を紹介する。 1、一色五郎生家 土浦市西真鍋町10-4 2001(平成13)年に「一色家住宅主屋」として国の登録有形文化財に指定された。1863(文久3)年築の家屋を、元土浦藩家老で五郎の祖父である一色範疇が、明治維新後に隠居所として移築したもの。裏には小堀遠州流の庭もある。かつて日本料理店「一色園」として使われ、後に「和食つじ山」になったが昨年閉店した。現在、内部は非公開。 2、西真鍋獅子 西真鍋町公民館 土浦市西真鍋町3-13 1930(昭和5)年に制作、当時の真鍋町青年会館に寄贈された。毎年、真鍋鹿島神社例大祭(通称真鍋のまつり)に獅子屋台(幌獅子)で出て満身創痍となり、当初は長かったたてがみも短くなった。1980(昭和55)年に全面修復され、それ以降まつりにはレプリカを使用、オリジナルは同期間中(例年8月最終週の金・土・日曜日)に西真鍋町公民館で公開されている。満州皇帝献上獅子は西真鍋獅子と同時制作され、1933(昭和8)年に当時の満州国溥儀執政に贈られた。 3、純鏡上人像  光照山浄真寺 土浦市立田町3-28 純鏡上人は浄真寺中興の祖。 1925(大正14)年~1962(昭和27)年に住職を務め、10年の歳月を費やして庫裏の新築、本堂の改築など復興を遂げた。 像は1967(昭和42)年に建立され本堂前にある。 開門時間は通常午前6時~午後6時、お盆・お彼岸午前5時~午後8時。 4、希望の像  土浦市亀城プラザ 土浦市中央2-16-4 同館が創立した1983(昭和58)年に、1階ホールの入口上に設置された。 像は3体、いずれもブロンズ製で高さ45cmほど。 1965~67(昭和40~42)年頃に制作された「大気」「芽」「時」の3部作で、同時期の日展出品作のリサイズ版と思われる。 開館時間は午前9時~午後10時(施設利用者がない場合は午後5時閉館)、水曜休館。 5、梅峯大和尚像  宝珠山神龍寺 土浦市文京町1-27 秋元梅峯和尚は1926(昭和3)年に土浦全国花火競技大会を創始したほか、免囚の更生保護や小作争議の調停など、数多くの社会奉仕活動に尽力した。 像は1936(昭和11)年、3周忌の際に本堂前に建立された。 元は立像だったが戦時供出され、後に胸像として復元された。 神龍寺は土浦藩家老一色家の菩提寺でもある。 6、原脩次郎君之像  亀城公園 土浦市中央1-13 原脩次郎は台湾総督府警視・保安課長、台東拓殖合資会社代表社員などを経て、1912(明治45)年に茨城県から衆議院議員に選出、以後6期を務めた。 1931(昭和6)年には拓務大臣と鉄道大臣も歴任した。 碑文に作者の名はないが、書籍「むかしの写真土浦」に一色五郎作とある。 1935(昭和10)年に立像として建立後、戦時供出され、戦後になって胸像で再建された。 7、色川三郎兵衛之像  旧水郷汽船発着場前 川口運動公園東隣 色川三郎兵衛は1890(明治23)年から衆議院議員を2期務め、土浦の水害対策に力を注いだ。 像は当初1937(昭和12)年に紅葉ケ丘公園に建立された。同地は市内を一望できる景勝地で、かつての茨城百景の一つ。現在は常福寺紅葉ケ丘霊園の一部だ。 現在は戦時供出を経て1980(昭和55)年に川口運動公園東隣に再建された。 当時の寺内龍太郎市議会議長らが発起人となり、療養中だった五郎に代わり、次男の一色邦彦さんが残された写真から復元した。後に発着場はなくなり跡地はポケットパークのような場所になっている。 10 小川芋銭翁 三日月橋生涯学習センター 牛久市庄兵衛新田町210-3 小川芋銭は「河童百図」などで知られる明治末~昭和初期の日本画家。像は当初木彫で制作され、1949(昭和24)年の第5回日展に出品。後に原型からブロンズ像が数体造られた。現在は常陽銀行が木彫を、県近代美術館がブロンズ1体を所蔵するが、いずれも公開の予定はない。三日月橋生涯学習センターの開館時間は午前9時~午後9時(施設利用者がない場合は午後5時で閉館)、休館日は毎月第2・第4月曜日(祝日と重なる場合は翌日)、年末年始。 その他・鹿島神宮(鹿嶋市宮中)がブロンズの「佐久良東雄像」を所蔵しているが、宝物館が休館中のため現在は観覧できない。再開時期は未定。・笠間市山麓公園にはかつて加藤煕(桜老)の銅像があったが戦時中に供出された。現在、笠間小学校(笠間市笠間)に新たな桜老像の設置工事が進んでいる。 ※施設によって公開日や開館時間が限られる場合もあるので注意のこと。なお各施設では新型コロナウイルス感染拡大防止のため長時間の滞在は控えるよう求めている。 ●取材協力・参考資料一色邦彦▽茨城県近代美術館▽常陽藝文センター▽土浦市▽「むかしの写真土浦」(1990年、土浦市文化財愛護の会編、土浦市教育委員会発行)▽雑誌「大法輪」(1936年7月、大法輪閣発行)▽文化遺産オンライン シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

《霞月楼コレクション》8 一色五郎 地域を愛し地域に愛された彫刻家

塑造のように柔らかな写実表現 霞月楼にある「白鷺(しらさぎ)」は、一色五郎が土浦に帰郷した頃の作品だ。冠羽や尾羽の優美な曲線など、実物かと見まがうほど写実的に表現されている。これは油粘土や石こうで造った原型を、星取り法という技術で木彫に起こしたため。 星取り法は明治期に導入された西洋の石彫技術で、東京美術学校で木彫に応用され広く普及したが、戦後は顧みられなくなった。「身近に残るものではこの白鷺くらいか。素晴らしい出来で僕も大好きな作品。大事にされているのはありがたい」と、五郎の子で牛久市在住の彫刻家・一色邦彦さんは話す。 ちなみに五郎の妻・千代子の実家は当時土浦で名をはせた料亭・日新楼で、霞月楼からは本家筋に当たる。 母の応援で彫刻家の道へ 一色五郎は1903(明治36)年、新治郡真鍋町内(現土浦市西真鍋町)に生まれた。祖父・範疇は土浦藩の国家老を務め、維新後は困窮した元藩士らの生活再建に尽力し、1878(明治11)年に県内初の国立銀行である第五十銀行(常陽銀行の前身の一つ)を設立。父・範叙は範疇の長子で2代目頭取を務めた。 五郎は幼少より手先が器用で、特に虫かご作りが得意だったという。母・鶴の「せめて下の子たちには好きな道を行かせたい」との願いにより、5男の五郎は彫刻家、弟の達夫は報道写真家の道を進むことになる。 1920(大正9)年に上京し、長谷川栄作に弟子入り。栄作は当時31歳の若さながら、この2年後には帝展審査員を拝命するなど、すでに彫刻界の第一線で活躍していた。余談だが長谷川家は江戸詰めの土浦藩士の家系で、乃木希典陸軍大将の母・壽子を出し、栄作は希典の甥に当たる。このため乃木将軍像を出世作としながら多彩な作品を造った。戦前の茨城県庁前庭にあった巨大な農人形像もその一つだ。 真鍋と満州に贈られた獅子頭 1923(大正12)年、五郎は東台彫塑会展で「闇ニ棲ム獣」が一等賞受賞。痩せさらばえた獣が獲物を求めるがごとく首を垂れたこの作品は、フランスの小説家アンドレ・マルローが来日時に「東洋の神秘主義の具現」と激賞したという。1924(大正13)年の「自像」が第5回帝展で初入選、1926(大正15)年には「牛置物」を皇太子に献上するなど、若くして高い評価を得た。 1928(昭和3)年アトリエを王子町上十条(現北区上十条)に構え、1932(昭和7)年に結婚。翌年には師の長谷川栄作と共に芸術使節として満州国へ渡り、五郎は獅子頭を溥儀執政(後に皇帝)に贈った。これに際しては母が桑の苗木を売却し用立ててくれた資金で雌雄一対の獅子頭を造り、うち一つを真鍋町に寄贈した。邦彦さんによれば地元にある方が雄獅子だそうだ。 帝展にはその後も出品を重ね、1932年の第13回展で「軽機兵」が特選になり、以後無鑑査。1936(昭和11)年の文展招待展には「電信兵」を出品し、文部省買い上げとなった。1939(昭和14)年に陸軍美術協会が発足すると、その一員として時局に沿った作品を多く制作した。 県内の彫刻界で指導的立場に 1943(昭和18)年に家族を伴い帰郷。当初は大町に住み、後に若松町へ移った。子どもは4人とも男児で次男が邦彦さん、4男が建築史家で今年物故した一色史彦さん。大町の家は狭くて独立したアトリエは持てず、貧困の中で帯留めやペンダントなども彫って生活の糧にした。 終戦までの2年間は筑波山神社にこもり、山麓から食料を調達して自炊しながらイザナギ、イザナミの両神像を制作。終戦を告げる玉音放送を直立不動で聞き、B29の編隊が低空で飛来するのを見て残念に思う気持ちと、焦土から立ち上がる決意がわき上がるのを感じたという。 1947(昭和22)年の第1回土浦市展開催には中心的役割を果たし、後年まで運営に携わった。県展では1948(昭和23)年の第1回から審査員を務め、以後第10回まで出品を続けた。日展では1949(昭和24)年の第5回展から1967(昭和42)年の新第10回展まで計16回出品した。 1969(昭和44)年に脳血栓で倒れてからは療養生活を送り、1985(昭和60)年に82歳で永眠。「働き盛りの時期に戦争が重なり、いろいろと苦労したはずだが、愚痴や不平不満は一言も言わなかった。明治生まれの精神力だと思う」と邦彦さんは述懐する。 郷土の偉人らを彫像にして顕彰 五郎は戦前・戦後期に郷土の偉人像を多数制作した。その顔ぶれを一部紹介しておく。藤森天山(弘庵)は幕末の儒学者で、土浦へ招かれ藩校・郁文館の創立に貢献し、後に江戸で私塾を開く。ペリー来航の際には海防論を説き、徳川斉昭に建白書を奉ずるなど活動した。 加藤桜老は笠間藩士で、水戸藩の会沢正志斎や藤田東湖に学び、江戸の昌平坂学問所に入った。笠間城下の隠居所「十三山書楼」には諸国から志士が集まり、後に高杉晋作らの推薦で長州藩校・明倫館の教授に迎えられた。 佐久良東雄は浦須村(現石岡市浦須)出身、善応寺(土浦市真鍋)の第18代住職を務め、天山や桜老らと交わった後、江戸で平田篤胤に国学を学ぶ。尊王論で各地を遊説し、桜田門外の変では幕府の手を逃れた水戸浪士を援助した。 色川三郎兵衛は元貴族院議員。日本鉄道海岸線(現JR常磐線)の敷設ルートを変更させ、線路の盛土を湖岸堤の代用とすることで、土浦の街を水害から救った。また川口川・田町川の逆水門建設にも尽力した。 助川喜四郎は大穂村(現つくば市大穂)出身のウイルス学者。犬への狂犬病の予防注射法を完成させたほか、鶏卵内培養法による天然痘ワクチンの製造に成功し「昭和のジェンナー」と呼ばれた。助川弘之元土浦市長の父。 藤川捨吉は県内の土木工事を多数手掛けた。土浦では海軍霞ケ浦飛行場建設工事、常南電鉄土浦-阿見線敷設工事、川口川埋設工事など。特筆すべきは桜川河口の16ヘクタールに及ぶ干拓事業で、ここが後に宅地造成され港町になった。 ●取材協力・参考資料 一色邦彦▽茨城県近代美術館▽図録「一色五郎彫刻展」(1980年、県立美術博物館)▽雑誌「常陽藝文」142号(1995年3月、常陽藝文センター発行)・146号(1995年7月、同)▽新聞「いはらき」1985年12月7日付▽市村壮雄一「藤川捨吉」(1941年、土浦書房)▽真船始編「助川先生とその業績」(1958年、喜誠会)▽茨城県地域学習資料研究会編「茨城の先人たち」(1983年、光文書院)▽ウィキペディア シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

【気分爽快 りんりんロード】3 自転車好きとラーメン好きのクロスロード

【伊藤悦子】サイクリストのためのラーメン店「カフェと迷ってラーメン屋」が20日、霞ケ浦総合公園のすぐ近く、土浦市大岩田にオープンする。店を切り盛りするのは柴沼政寛さん(53)と律子さん(51)夫婦。ともに水戸市で公立中学校の教員をしていたが、自転車好きとラーメン好きが高じて、職を辞し、土浦に転居してきた。 ユニークな店名は、政寛さんの「その瞬間に一生懸命なら、貫かなくてもいい、諦めたっていい、迷ったっていい」という思いから付けた。政寛さんは大学時代、自転車競技に打ち込んでいた。しばらく乗ることがなかったが、5年前子供が独立したのをきっかけに久しぶりにロードバイクに乗ってみたそうだ。自転車はのんびり漕ぎながら景色を眺める楽しみもあれば、筑波山や愛宕山に登り体を鍛えることもできる。 平坦なスプリントを走る自転車競技とは異なる楽しみを見つけたという。水戸からよく、つくば霞ケ浦りんりんロードを訪れた。霞ケ浦も筑波山にもアクセスがいい土浦には特に心惹かれたそうだ。自転車は1人で楽しむこともできるし、仲間で走ることができることも魅力的だと話す。 律子さんが初めてロードバイクに乗ったのは3年前。その楽しさにすっかり虜になったという。「初めて乗った時、その軽さに驚いた。漕いでも漕いでも疲れないし、私にもできるんだと思った。何十キロ走っても疲労感がない。夜少し疲れたかな? と思う程度。景色が見ながら漕ぐのが本当に気持ちよかった」 土浦の食材を使ったラーメン 政寛さんのもうひとつの好物がラーメン。10年前から独自に麺の研究をしてきた。開業の地を大岩田にしたのは、「霞ケ浦総合公園がすぐ近く、岩瀬(桜川市)から土浦へのコースと霞ケ浦一周のポイント地点。サイクリストに休憩してもらうのにちょうどいい場所だから」と話す。 ラーメンには柴沼醤油醸造(土浦市虫掛)のしょうゆ、市川蓮根(同市手野町)のレンコン、佐藤畜産(同市板谷)の県産豚バラチャーシューと、土浦の食材を使っているのが特徴だ。 自家製の手打ちつけ麺は、目を引くカラフルな6色。「6という数字が好きだから」がその理由。カボチャやトマト、ホウレンソウなどの野菜で色付けされていて、着色料は使用しない。化学反応で色が落ちてしまうため、かんすいの使用も避ける。かんすいは麺にコシを出す働きがあるため、代わりにお酒を使用している。「試行錯誤を重ね、お酒を入れるとコシがでることを発見した」 つけ麺の出汁は、メーンにサンマ節を使用、カツオなど魚介のみで肉類の出汁は使っていない。「濃厚な出汁はサイクリングで疲れた体にほどよい」と政寛さんの自信作。店舗近くに高校が2校あり「高校生も食べて欲しい」と、サイクリスト割のほか、学割、SNS割なども用意した。 ◆「カフェと迷ってラーメン屋」土浦市大岩田1287-1 電話:090-8800-0546営業時間:午前11時30分~(20日、21日、22日は午前11時オープン)定休日:毎週月曜日お店のTwitterはこちら

経済効果5億円突破 2019年度県内ロケ 作品数は減少

【山崎実】茨城県フィルムコミッション推進室(FC)は、2019年度の県内ロケ支援実績をまとめた。作品数、撮影日数は前年度より減少したが、経済波及効果は増加して5億円を突破した。 19年度のロケ支援作品数は515件(18年度は606件)で、ロケ延べ日数は1253日(同1318日)、経済波及効果の推計額は5億1000万円(同4億5000万円)だった。 映画やドラマの主なロケ支援作品は▽NHK連続テレビ小説「エール」(ロケ地は土浦市や水戸市など)▽同大河ドラマ「麒麟がくる」(常陸大宮市、県北)▽同ドラマ「少年寅次郎」(常陸大宮市)など。 ほかに、▽7月に亡くなった三浦春馬さんが主演のフジテレビ系ドラマ「TWO WEEKS」(土浦市)▽テレビ朝日の「仮面ライダー ゼロワン」(水戸市)▽北川景子さんなどが出演した映画「スマホを落としただけなのに」(県央)▽佐藤健さん主演の映画「ひとよ」(大洗町、神栖市)▽アニメを実写映画化した「映像研には手を出すな!」(笠間市、水戸市、美浦村)ーなどがあり、延べ約1万6000人の県民がボランティアエキストラとして映画やドラマ246作品に参加した。 旧筑波東中が5位 利用頻度の高いロケ地のベスト10は、①筑波海軍航空隊記念館/県立こころの医療センター敷地(笠間市)②採石場(常陸大宮市)③袋田の滝(大子町)④旧筑波東中学校(つくば市)⑤猿島環境センター(境町)⑥茨城空港(小美玉市)⑦大洗海岸(大洗町)⑧自然散策の森(つくばみらい市)⑨水戸赤十字病院(水戸市)⑩茨城県庁・議会棟(同)の順。 県FC推進室が2002年に設置されて以来、17年間の支援作品は累計7023件となり、ロケ支援推計7000作品を上回った。経済波及効果の推計額も累計で約83億2000万円に上っている。 すでにFCが設立されているのは34市町村。現在、設立を検討しているのは、下妻、坂東、かすみがうら、那珂市と茨城町の5市町という。

大岩田小の放課後クラブ室などを抗菌 土浦の塗装会社社長が無償で

【崎山勝功】新型コロナウイルスの感染拡大防止が求められる中、土浦市大岩田の市立大岩田小学校(児童数387人、原井一永校長)放課後児童クラブ室や保健室など3カ所を28日、市内で塗装工事会社を経営する小椋直樹さん(41)が無償で抗菌塗装した。 机などに光触媒塗料を吹き付けた。同塗料は光が当たると細菌やウイルスを分解するとされ、机や椅子などを毎日何度もアルコール消毒しなくても済むとされる。 小椋さんは同小のPTA副会長でもある。「(コロナ禍で)子どもたちに窮屈な思いをさせたくない。会社としても地域に貢献したいと思った」と語る。 小椋さんの会社では今年春、つくば市内のオフィスを同塗料で試験的に塗装し、7月から本格的に同塗料を使った塗装事業を始めた。 2~3年前から、インフルエンザ予防対策として、別の抗菌塗料を使った抗菌塗装工事を実施していたが、コロナ禍で引き合いが急増。しかし従来の抗菌塗料では、塗装する箇所以外はビニールシートをかけるなど準備が大掛かりになるため、顧客側に負担が掛かっていた。今回の塗料は速乾性で、塗料が乾いたらその日のうちに部屋が使用でき、利用者の負担を軽減している。 小椋さんは「安心をアピールできれば」と話す。

【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

【相澤冬樹】松岡義和著「土浦からの便り」という本がある。サブタイトルは「北見出身海軍予科練習生の記録」、1992年に北海道の郷土出版社、北見叢書から刊行になった。土浦市立図書館に照会すると蔵書になく、県立はじめ県内の図書館を検索できるレファレンスサービスでも所蔵を確認できなかった。ネット経由で取り寄せると共に、著者の健在を聞いて、北海道北見市に松岡義和さん(82)を訪ねた。 七つボタンの下は傷だらけ 著作にいう「土浦」は、土浦海軍航空隊、いわゆる「予科練」のこと。1939(昭和14)年、阿見町青宿の霞ケ浦畔に設置され、全国から志願してきた14歳半から17歳までの少年を試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をした。戦争末期には神風特別攻撃隊(特攻)の主力となった。予科練出身の戦没者は1万8564人を数える。基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)になっている。 「便り」は、1943年6月に15歳で海軍予科練習生(甲種12期)として入隊、45年4月28日に沖縄戦で特攻死した竹村久志が、北海道訓子府町(くんねっぷちょう)の実家に書き送った25通の軍事郵便と2通の遺書に基づいている。配属された名古屋海軍航空隊で書かれたものや、出撃基地となった鹿児島国分第二基地で書かれたものも含まれるが、「北海道では予科練といえば土浦が代名詞、逆に土浦といえば今も予科練以外のイメージは浮かばない」と松岡さん。同じ時期、北見地方から入隊した予科練生数人の足跡も追っている。 現在、北見市で私設の絵本美術館を運営している松岡さんは名寄短期大学の元学長、劇作家や画家の肩書もある。竹村はその叔父に当たる。松岡さんの母親の実家が竹村家で、12人の兄弟姉妹の長姉、久志が末弟だった。 竹村家に男子は4人いたが、長男(茂)はビルマ、2男(信雄)は北支、3男(実)はシンガポールに出征しており、4男(久志)が軍人になるには志願する以外になかった。家業の雑貨店は戦時中、母親のツタ(1974年没)、妹の佐津子ら残った女性たちで細々と維持していたが、やがて売る品もなく廃業した。兄3人は戦後復員している。 松岡さんは、年齢が10歳しか離れていない叔父の久志を兄のように慕った。1944年1月、ふるさと訓子府に最後に帰省した日のことを、国民学校1年生だった松岡さんは今も克明に覚えている。七つボタンのりりしい制服姿を見に、雑貨店の店先には人だかりができたという。 名指しされ、得意になって一緒に風呂に入ったが、流した背中は傷だらけだった。海軍精神棒、通称「バッター」による罰打をはじめとする過酷な訓練(制裁)による傷跡は、自身の母親には到底見せられない姿だったのだ。 執筆に当たって松岡さんは、土浦に2度足を運んだ。竹村久志が「下宿」とよんで、休日にあそばせてもらった布川屋(土浦市川口)を探しあてたりしている。焼き鳥店の若主人から「裏の長屋のおばさんが予科練の若者を世話していた」という話を聞くことが出来た。おばさんは他界していたが、姓は松井か吉井だったという。 2通の遺書の意味 竹村久志は2度特攻出撃をしている。一度目の出撃のとき、どこの島かは記されていないが不時着し、島民に救助されて一度は帰還したと軍事郵便の中にある。搭乗したのは九九式艦上爆撃機。複座に操縦と偵察の要員2人が乗ったが、戦争末期には機体を軽くするため偵察関係の機器類はすべて取り外されていた。「久志は偵察要員だったから、やれる仕事がほとんどない。どんな気持ちで片道燃料の飛行機に乗ったのか」と2通の遺書を読み返す。 前略 色々お世話になりました。愈々(いよいよ)これが最後です。お母さん皆様お元気で。白木の箱が届いたならば、たいした手柄はたてないが泣かずにほめて下さい。桜の散る頃に散るのは本望です。遺品は皆下宿にあります。ひまの時に取りにきて下さい。挙母(ころも、現在の愛知県豊田市の町名)に来たら下宿と愛知さんのお母さんの所まで行って下さい。佐津子も体に気を付けろ、皆様お元気で、さようなら。 国分航空基地にて 久志より 故郷のお母さんへ整列の声がきこえます。今出ます。出撃だ! スクヤケ 松岡さんは出版後も、2通の遺書にこだわり続けた。1通は万年筆でしっかりとした楷書で書かれていたが、もう1通はざら紙に鉛筆の走り書きで、文も短く、左端に「スクヤケ」と書かれていた。「スクヤケ」は「すぐ焼け」のことだと推察したが、なぜ焼かなければならないのか、すぐには理解出来なかった。 後に特攻隊に関する書籍、記録文献、報道番組などによって、鹿児島県内の特攻隊基地のうち、陸軍は知覧から、海軍は鹿屋と国分から、それぞれ出撃したと知る。陸軍では、機体のエンジン不調や敵艦隊を発見出来ず不時着した生存者は、知覧近郊の「寺」に収容され2度と出撃することはなかった。死んだ者として、敗戦の日まで寺で写経などをして生き残ったと聞かされた。 ところが、海軍特攻隊は一度遺書を書いた者は、戦死者として2度と遺書を書くことを許さなかったと松岡さんは断じる。だから、2度目の出撃の時は隠れて鉛筆で走り書きをして、戦友か見送りの婦人会の人に頼んでふるさとへ送られてきた。それが「スクヤケ」の意味だと解せた。 自身が関わる北見叢書はことし結成30周年。叢書は18集まで数え、うち4冊が戦争をテーマにしている。しかし、ここ数年刊行が止まっている。松岡さんは「もう久志の話は書き足すことがあまりない。戦争については、あの時代の関係者や話を伝え聞いた縁者まで多くが亡くなってしまった」と残念がった。 取材後、松岡さんから郵便が届いた。新書判の「土浦からの便り」が同封されていて、「土浦の図書館に届けてほしい」旨信書が入っていた。土浦市立図書館に持参したが、扱いがどうなったか返事はない。

夏休みの思い出づくりに スタジオ’Sが工作・イラストをウェブで提案

【池田充雄】関彰商事(関正樹社長)が地域の文化創造の場として運営している、つくば市二の宮のスタジオ’Sが「夏のキッズアート体験 2020-ONLINE(オンライン)」を開催中だ。家の中で楽しい時間を過ごすことができ、夏休みの作品づくりにも適している。 「キッズアート体験」は2016年から毎年夏と冬に体験型のイベントとして開かれてきたが、今夏は新型コロナウイルスの感染が拡大している状況から、ウェブでの開催となった。 2つあるプログラムのうち「おうちでワークショップ」は、家庭でできる3種類の工作メニュー「ガーランドカレンダー」「シャカシャカカード」「ビー玉めいろ」を紹介している。いずれも厚紙や段ボールなどを材料とし、型紙はスタジオ’Sのホームページからダウンロードできる。完成した作品や工作中の様子を写真に撮って投稿すると、オリジナルのスマホ壁紙がもらえる。また投稿写真のうち選ばれたものは、インスタグラムやホームページに掲載される。 もう一つのプログラム「みんなでつくろう!こどもおえかき水族館」は、中学生以下を対象に、海の生き物のイラストを募集し、集まった作品をスタジオ’Sの壁に飾って、大きな水族館アートを作ろうというもの。募集は31日まで、公開は9月14日からホームページや各種SNSなどで行う。応募者の中から抽選で、自分の作品をプリントした水筒やトートバッグなどがもらえるプレゼント企画もある。 コロナ禍の今年は夏休みが短縮され、つくば市の小中学校は8月1日から23日、土浦市は8日から23日までが夏休みとなっている。加えて今年は地域の行事や催しが軒並み中止となり、旅行や帰省などを取りやめた家庭も多い。春の外出自粛期間ほどではないにしろ、子どもたちとって不自由の多い夏休みになっている。 この企画に携わった関彰商事総務部の草野伸一さんは「例年は会場に直接お越しいただき、筑波大学の学生にもお手伝いいただきながら制作していた。今年はこのような大変な時期でもあり、少しでも何かお役に立てればと思って企画した。一人でも多くの方にご参加いただければうれしい」と話している。 詳細は同ホームページへ。

《霞月楼コレクション》5 小林巣居人 田園と水郷を生涯描いた自然画人

芋銭・百穂の二師に鍛えられる 【池田充雄】小林巣居人(そうきょじん)は1897(明治30)年、稲敷郡長戸村(現龍ケ崎市半田町)の農家に生まれた。本名は善。長戸尋常小学校(現長戸小学校)を経て、1911(明治44)年に長戸農業補修学校を卒業、地元の青年学校で農業指導助手を務めた。 1917(大正6)年に画家を志し、牛久の小川芋銭を訪ねる。芋銭の勧めで翌年春に上京し、平福百穂の画塾に入門。後に巣居人は「第一の師・芋銭より発想の自由を教えられ、第二の師・百穂からは厳しい写生を叩きこまれた」と語っている。 1921(大正10)年の第2回中央美術展に初入選。茨展には1923(大正12)年の第1回から出品、2~5回に県賞を連続受賞し、その後無鑑査。院展では1928(昭和3)年の第15回展に「竹林」で初入選、1931(昭和6)年には院友に推挙され、画壇の評価を高めていく。 1929(昭和4)年に帝国美術学校(後の武蔵野美術学校、現武蔵野美術大学)が開校すると、日本画科長の百穂の下で助手として勤務。芋銭との交流も続き、1935(昭和10)年には銚子市海鹿島の潮光庵で数カ月にわたり起居を共にして制作を助けた。余談だが海鹿島は竹久夢二の詩「宵待草」の誕生の地でもある。 院展を出て新興展を設立・再興 1937(昭和12)年、同志11人と共に日本美術院を脱退し「自由拘束なき新興清新なる芸術」を目指して新興美術院を結成。だが1943(昭和18)年の第6回新興展に出品した「土機光象」を巡り意見が対立、巣居人ら3人が同院を脱退する。 戦時疎開を経て1946(昭和21)年、新治郡高浜町(現石岡市高浜)の篠目(笹目)八郎兵衛の下に移住。八郎兵衛は霞ケ浦に蒸気船を導入した水運業の大立者で、土浦の色川三郎兵衛らと共に日本鉄道土浦線(現JR常磐線)の開通にも尽力した。芋銭の支援者でもあり、潮光庵も篠目家の別荘だった。 この頃の巣居人の活躍は多岐にわたる。1947(昭和22)年の土浦市美術協会設立に協力、1949(昭和24)年の県南美術協会展で審査員。1948(昭和23)年に武蔵野美術学校教授に就任。1950(昭和25)年には戦時中の混乱で途絶していた新興美術院を再興。県展では1952(昭和27)年から審査員を務めた。後の県芸術祭にも晩年まで出品を続け、没後の1979(昭和54)年に「小林巣居人賞」が創設された。 故郷の土と水に生きる小さな命 巣居人は故郷の身近な自然を生涯描き続けた。当初、師2人から得た「枝上人」「巣居」の雅号はいずれも、その人の心の置き所を示すかのようだ。幼少期より育まれた土への親しみは「土機光象」で結実した。上巻では地上の花や鳥や虫などが、下巻では地中の球根やドジョウやタニシなどが、それぞれに生を謳歌する作品だ。自然界の小さな命を愛おしむ心は、宮沢賢治の世界観とも共鳴し「やまなし」「よだかの星」などの作品を生み出した。 戦後は高浜を拠点に、水面の移ろいや風に揺れる芦原など、霞ケ浦の風物を主な題材とした。1957(昭和32)年の東京転居後もこの傾向は続く一方、湖面の波立ちや雲の流れをリズミカルに描くなど、表現の様式化・抽象化が進んだ。1958(昭和33)年から約10年間、日本橋の三越本店で個展を開くが、この頃には画面構成はより装飾的になり、色彩もより鮮やかさを増していった。冒頭に掲げた霞月楼所蔵の作品にも同時期の特徴がよく出ている。 老境にたどり着いた清澄な世界 巣居人は1975(昭和50)年、妻の療養のため高浜へ戻った。最晩年の作品では穏やかな色彩と柔らかなタッチで清澄な世界を作り上げた。「春雪」では静かに舞い落ちる淡雪を小鳥たちが見上げ、春の到来を予感する様子を、優しい眼差しで描いている。1978(昭和53)年、81歳で他界。その遺風は三男の小林恒岳が受け継ぎ、高浜や八郷の自然を慈しむ作品を描いていたが、彼もまた2017(平成29)年に鬼籍に入った。 取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽図録「小林巣居人遺作展」(1980年、茨城県立美術博物館)▽図録「小林巣居人の世界」(2010年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「小林巣居人・恒岳展-故郷への思い」(2013年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「故郷を愛した作家たち」(2014年、とりでアートギャラリーきらり)▽画集「田園の詩」(1982年、京都書院発行)▽雑誌「常陽藝文」1999年3月号(常陽藝文センター発行) シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

《食う寝る宇宙》67 ネオワイズ彗星観察、筑波山に阻まれる

【コラム・玉置晋】2020年3月に発見された新彗星(すいせい)「ネオワイズ彗星」が7月に肉眼で見えるというニュースが流れ、観たいなあと思っておりました。都市部で天体を観るためには、肉眼だと1~2等級の明るさにならないと厳しいです。だから、彗星を肉眼で観られる機会はそうそうありません。 20年以上前になりますが、僕が高校生のころ、学校の帰り道、自転車をこぎながら「百武(ひゃくたけ)彗星」(1996年に接近)を観て以来でしょうか。ボヤ~とした小指の先ぐらいのコマがみえたものです。その数年前には、ハレー彗星(1986年に接近)も大きな話題になりましたね。 そんなわけで、是非とも観たかったネオワイズ彗星。今年は6月ごろから雨続きで、全く夜空を楽しめませんでしたが、7月19日には久しぶりに晴れ。今日こそは「観るぞ~」と決意していました。どちらの方角を向けばよいのか調べたところ、北西方向、地平面から拳(こぶし)2個分の高さとのこと。随分、低いところなのね。 僕が住んでいるのは茨城県土浦市。自宅窓から北西方向を観ると、そこには標高877メートルの筑波山。我が家から見て、拳5~6個分の高さでございます。「筑波山、どいてください!」。結局、ネオワイズ彗星を観ることはできませんでした。残念! 新たな太陽活動サイクルの始まり? 話を変え、最近の話題を紹介。太陽活動は11年周期で、活発な時期と静穏な時期を繰り返しています。今は、1755年に記録が始まった第1太陽活動サイクルから数えて、24番目の活動サイクルの末期の極小期におります。 太陽を眺めてもほとんど黒点が現れない状態が続き、このまま地球は氷河期に突入してしまうのではないかという話もチラホラ出ておりましたが、ここに来て黒点が姿を現すようになりました。黒点は強い磁場を持っており、S極とN極のペアで現れます。 S極とN極の並びがポイントで、太陽活動周期により入れ替わります。太陽の北半球の場合、今の第24太陽活動サイクルでは、地球から見て右側がS極、左側がN極という並びだったのですが、今見えている黒点の並びは右側がN極、左側がS極(南半球では順番が反対)です。次の第25太陽活動サイクルの並びに他なりません。 間もなく、新たな太陽活動サイクルの始まりが宣言されることでしょう。第25太陽活動サイクルのピークは2025年と予想されています。(宇宙天気防災研究者)

《食う寝る宇宙》67 ネオワイズ彗星観察、筑波山に阻まれる

【コラム・玉置晋】2020年3月に発見された新彗星(すいせい)「ネオワイズ彗星」が7月に肉眼で見えるというニュースが流れ、観たいなあと思っておりました。都市部で天体を観るためには、肉眼だと1~2等級の明るさにならないと厳しいです。だから、彗星を肉眼で観られる機会はそうそうありません。 20年以上前になりますが、僕が高校生のころ、学校の帰り道、自転車をこぎながら「百武(ひゃくたけ)彗星」(1996年に接近)を観て以来でしょうか。ボヤ~とした小指の先ぐらいのコマがみえたものです。その数年前には、ハレー彗星(1986年に接近)も大きな話題になりましたね。 そんなわけで、是非とも観たかったネオワイズ彗星。今年は6月ごろから雨続きで、全く夜空を楽しめませんでしたが、7月19日には久しぶりに晴れ。今日こそは「観るぞ~」と決意していました。どちらの方角を向けばよいのか調べたところ、北西方向、地平面から拳(こぶし)2個分の高さとのこと。随分、低いところなのね。 僕が住んでいるのは茨城県土浦市。自宅窓から北西方向を観ると、そこには標高877メートルの筑波山。我が家から見て、拳5~6個分の高さでございます。「筑波山、どいてください!」。結局、ネオワイズ彗星を観ることはできませんでした。残念! 新たな太陽活動サイクルの始まり? 話を変え、最近の話題を紹介。太陽活動は11年周期で、活発な時期と静穏な時期を繰り返しています。今は、1755年に記録が始まった第1太陽活動サイクルから数えて、24番目の活動サイクルの末期の極小期におります。 太陽を眺めてもほとんど黒点が現れない状態が続き、このまま地球は氷河期に突入してしまうのではないかという話もチラホラ出ておりましたが、ここに来て黒点が姿を現すようになりました。黒点は強い磁場を持っており、S極とN極のペアで現れます。 S極とN極の並びがポイントで、太陽活動周期により入れ替わります。太陽の北半球の場合、今の第24太陽活動サイクルでは、地球から見て右側がS極、左側がN極という並びだったのですが、今見えている黒点の並びは右側がN極、左側がS極(南半球では順番が反対)です。次の第25太陽活動サイクルの並びに他なりません。 間もなく、新たな太陽活動サイクルの始まりが宣言されることでしょう。第25太陽活動サイクルのピークは2025年と予想されています。(宇宙天気防災研究者)

《霞月楼コレクション》4 永田春水 土浦に始まる戦後美術復興の先導者

対を成す郷土美術界の双璧 【池田充雄】色紙2枚を貼り交ぜた額が霞月楼にある。左の小川芋銭作は堂々たる雄の軍鶏(しゃも)のようで、右の永田春水作はその幼鳥にも見える。それぞれ時期も作風も異なるが、戦前・戦後の茨城画壇を牽引した2人の作品が肩を並べるのは、奇遇というか象徴的だ。 父母への恩愛を雅号に刻む 永田春水は1889(明治22)年、北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生まれた。本名良亮。幼少から画才を現わし、取手市宮和田の三軒地稲荷神社には12歳時に奉納した絵馬が残る。 1907(明治40)年、県立龍ケ崎中学校(現竜ケ崎一高)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。永田家は大地主で父は町会議員も務めたが、息子が一人前の画家になるまで故郷の地は踏まぬと、田畑も売り払う決意の上京だった。同年荒木寛畝に入門。寛畝からは「筑畝」の号を授かったが、父・清太郎、母・春への恩義から後に「春水」と改めた。 1913(大正2)年、東京美術学校日本画科を卒業し、国華社に入社。雑誌編集や古画研究に従事する一方、1916(大正5)年の第10回文展に「露のひぬま」で初入選。1920(大正9)年には大英博物館で敦煌発掘仏画の模写に携わるほか、欧州各国を訪ねて見聞を深めた。 本邦を代表する日本画家に 帰国後は帝展で活躍し、1921(大正10)年の第3回展から6度の入選を重ねた。第10回の「薫苑麗日」と第11回の「雪晴れ」で2年連続の特選。以後無鑑査となり、1936(昭和11)年からは文展審査員を務めた。茨展では1923(大正12)年の第1回から入賞、第3回から無鑑査、第8回から審査員。 海外での評価も高い。1924(大正13)年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。前出の「薫苑麗日」は日本政府がロンドン大使館へ寄贈。皇室にも多くの絵を献上している。 後進の育成にも励み、1930年頃に「如春会」を設立。同郷の寺田弘仭や根本正らも東京・大塚の春水邸で学んだ。1939(昭和14)年には東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)の日本画講師を拝命した。 県南美術協会副会長に就任 戦災で東京を離れた春水は1947(昭和22)年、藤代の生家に戻り制作に従事する傍ら、郷土の美術再興にもさまざまに尽力した。 当時、中央で活動していた作家らの帰郷により、各地で美術活動が活発化していた。急先鋒は土浦で、1947年に福田義之助や一色五郎らの呼び掛けで第1回土浦市展が開催され、それを核に茨城県南美術協会が発足。会長は土浦市長、副会長は春水ほか1人、会員は洋画が服部正一郎、鶴岡義雄ら52人、日本画が小林巣居人(当時巣居)、浦田正夫ら25人、彫塑・工芸が中島敦、古宇田正雄ら10人。1949(昭和24)年に第1回展を開いた。 1950(昭和25)年に県展が始まると春水は第1回から審査員を務め、1955(昭和30)年に東京・吉祥寺へ転居しても、1962(昭和37)年の第17回まで継続した。1970(昭和45)年に82歳で世を去った後、1973(昭和48)年の第8回県芸術祭で永田春水賞が創設され、小林恒岳が第1回受賞者となった。 丹念な写生を作品へと昇華 春水の真骨頂は花鳥画で、特に鳥は数・種類とも多く描いた。1963(昭和38)年ロンドン開催の世界鳥類画展には日本代表として6点を出品し、「雉子」ほか2点は英国政府買い上げとなった。 作品はいずれも丹念な写生に基づくが、「ただ、あるがまま、観察したままを描いたのでは写真になる。それから更に昇華させるのだ」とも語っている。 取手市在住の日本画家で春水に詳しい大畑久子さんは「写生によって筋肉や骨格などの基本的な構造と、正しさや美しさを理解しており、それをデフォルメせず、科学的に嘘はつかず、でも一部は省略しながら、表現として描いている」と説明する。 実際に写実には厳しい人だったようで、寺田弘仭はスケッチを何十回と描き直させられたという。写生の中には、通常は絵にしない鳥の腹部や羽根の裏側までも詳細に写し取ったものもある。 春水の遺品は10年ほど前に市場へ流れ、つくば市の古書店がまとめて引き取った。巻紙の下図や和綴じの画帳、スケッチブック、少年時代の習作などが段ボール10箱分ほどあり、早急の保全と研究が願われる。 ●取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽取手市文化芸術課▽文化工房ふじしろ▽ブックセンターキャンパス▽「土浦文化活動史編集資料」(1980年、土浦文化活動史編集委員会)▽「藤代の歴史散歩」(2000年、藤代町)▽「藤代町史暮らし編」(2005年、藤代町史民俗調査員会▽図録「故郷を愛した作家たち」(2014年、とりでアートギャラリーきらり) シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

【夏の高校野球県大会】初日 土浦勢は土浦二が初戦突破

2020年夏季茨城県高等学校野球大会が11日開幕。初日は土浦市から3チームが出場した。土浦二は石岡商・潮来・竜ケ崎南・神栖の四校連合と対戦し6回コールド勝ち。18日の2回戦では優勝候補の霞ケ浦とぶつかる。土浦三は麻生に、土浦工は江戸川取手にそれぞれ敗れ、1回戦敗退となった。 逆転から一気に突き放す 【池田充雄】土浦二は2-3と1点ビハインドで迎えた4回表、堀越岳と小松崎拓馬の連打でまずは同点。その後1死満塁とすると、佐藤耕平が救援投手から四球を選んで逆転に成功。5・6回も大量得点で突き放した。小松崎主将は「最初は先発投手の球に合わず、自分たちのペースが出せなかったが、あわてず全員の力でコールドにもっていけた」と、チームの結束力を誇った。 先発の長峰光は初回3被安打で3失点したが、2~5回はテンポのよい投球で2被安打無失点、抑えの佐藤につないだ。「初めての公式戦先発で、最初は思うように腕が振れなかった。打線の援護をもらってからはリラックスし、野手の前に凡打を打たせることができた」と長峰は、大役を無事に終えて安堵の表情。 坂本武司監督は「特別な大会なので3年生を主体にしたが、練習の成果を出してくれた。長峰は5回を無四死球で成長した姿を見せ、打線も打つべき選手が打ち、後半は1年生にも公式戦を経験させることができた」と話し、次戦にも全力で挑む姿勢を見せた。 最終回に意地も及ばず 【池田充雄】「三高の看板を背負って何もせず終われない。最後まであきらめずよく頑張ってくれた」と松浦三喜男監督。0-5で迎えた最終回、土浦三が意地を見せた。先頭から4人が連続出塁し、渡辺の三塁打など3安打で4点をもぎ取り、なおも2死一塁とチャンスをつなぐが、あと1点が届かなかった。最後の打者となった宮城優斗は「ボールだと思って見送った球で三振になり、頭が真っ白になった。自分がしっかり決められなくて悔しい」と涙をぬぐった。 起塚怜主将は「相手の左投手を攻略できず、ミスから失点を重ねてしまった。それでも最後まで諦めず食らいつけたことは、今後にもつながると思う」と振り返り、「開催できるかどうかも危ぶまれたが、同じ学年のみんなでこの大会に臨めてよかった。こういう大変なときだから得られることもある。それを後輩たちにも学んでほしい」と後を託した。 エースが投げ切る 【高橋浩一】土浦工は毎回得点を許し、5回コールド負けを喫した。小林悟樹監督は「練習不足で練習試合も雨で流れ、ぶっつけ本番だったのでミスはある程度覚悟していた。それでも零封ではなく四球をもらいヒットも5本出たので、能力的にはそれなりの結果が出せたと思う」と感慨深げ。一人でマウンドを守ったエースの野島聖良については「上の代がいなかったので1年の秋から主将をやり、いろいろ苦労もあったと思う。投げ込み不足はあったが、思いきり投げてくれた」と評した。 野島は「最後まで投げられて満足した。力は出し切った。夏の大会が中止と分かった時は唇をかんだが、状況を受け入れるしかないと思った。開会式や応援もなかったけれど、こういう形を作ってくれた高野連には本当に感謝している」と振り返った。 チームはコールド負けはしたものの4点を奪い、無得点だった昨年との違いを見せることができた。「バッティングの強化や筋トレの成果もあり、打球に速さや強さが出た」と野島。2年生の市塚航太は「チーム初ヒットを打ててうれしかった。チーム全体で声も出せていたし、来年は守備を高めていきたい」と先を見据えた。

《霞月楼コレクション》2 浦田正夫 土浦疎開を機に新たな作風開花

【池田充雄】日本芸術院会員、日展事務局長などを務めた日本画の重鎮、浦田正夫は土浦とも縁が深い。1910年(明治43)熊本県山鹿市生まれ。代々画家の家系で祖父は浦田雪翁、伯父は高橋廣湖、父は浦田廣香。 1915(大正4)年、父に連れられ上京。中学卒業後は画家を目指し、伝統の大和絵に近代的な造形感覚を加味した「新興大和絵」を唱えた松岡映丘に入門。並行して岡田三郎助らに洋画も学ぶ。東京美術学校日本画科に入学し、在学中の1933(昭和8)年、第14回帝展に「展望風景」で初入選。その後も帝展や文展などで受賞を重ねた。 美校卒業後は同じ映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社(るそうがしゃ)を結成。後にその活動は一采社(いっさいしゃ)に引き継がれる。正夫は両団体を通じて中心的役割を果たし、仲間と共に新しい日本画の創造に取り組んでいく。 戦後の美術復興を土浦から始める 1945(昭和20)年、空襲で池袋の家を焼失した浦田一家は藤沢村(現土浦市藤沢)に疎開。1948(昭和23)年には栄村(現つくば市上境)、1951(昭和26)年には土浦市内へ転居した。その間、正夫は永田春水らと県南美術協会を設立するなど地域の美術復興に貢献。栄公民館報の表紙絵も担当した。1953(昭和28)年には東京に戻るが、その後も県展審査員などの形で茨城との縁は続いた。 1951(昭和26)年から山口蓬春に師事。蓬春も古典的な大和絵から出発し、西欧近代絵画を取り入れながら新しい日本画を模索していた一人だった。 この頃から正夫の作調も大きく変化する。端緒となったのが1952(昭和27)年の「牛」だ。当時、土浦市下高津の国立霞ケ浦病院(現霞ケ浦医療センター)に入院中、窓外に見える牧場の牛を数多くデッサンした。まず生き物としての牛を研究するために描き、次に構図や色彩を考え、試行錯誤を重ねながら作品に落とし込んだという。 自然の風景を柔らかな表情で描く 疎開先に土浦近郊を選んだのは、絵を描くのに必要な環境を考えた結果でもあった。朝昼晩と姿を変える風景があり、水辺や田園の音があり、土地の人情すら感じられる。そうした自然のすべての要素と一体となりながら、自身の琴線に触れた美を絵筆によって定着させていった。 土浦を離れてからも北関東や東北の自然に題材を求め、特に蓮のある水辺の風景は生涯の重要なモチーフになった。水彩画を思わせる柔らかな色彩とタッチを得意とし、一見すると無造作に描き上げたような印象の作品も、実は「牛」と同様に多くのデッサンや下絵の工程を経て、綿密な計算が施されている。 神龍寺障壁画に最期の思いを託す 1998(平成10)年に落成した神龍寺(土浦市文京町)本堂には、正夫と弟子で養女の浦田由佳子の手による障壁画がある。 正夫は1995(平成7)年に依頼を受けると、土浦での日々を思いながら構想を練り、写生など取材を重ねていたが、肝臓がんのため1997(平成9)年11月に87歳で他界。残された小下図を元に由佳子さんが制作を進め、完成させた。 障壁画は全部で39枚。大間天井に「龍」、外陣3室には「松」「白梅・太陽」「紅梅・月」、室中には「蓮花」と杉戸の「竹」、室中脇間には「赤牡丹・白牡丹」がそれぞれ描かれている。由佳子は「小下図には部屋の大きさに対してふさわしくないものもあり、大幅に変更せざるを得なかったが、義父の思いは引き継ぐことができたと信じている」と話している。(文中敬称略) 取材協力・参考資料▽茨城県近代美術館▽宝珠山神龍寺▽浦田由佳子氏▽図録「現代作家デッサンシリーズ浦田正夫展」(1987年、朝日新聞社)▽図録「茨城近代美術の精華」(1992年、茨城県近代美術館・茨城県つくば美術館)▽図録「浦田正夫の世界展」(2000年、茨城県近代美術館)▽桜村史下巻シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

湖上スクール再開、霞ケ浦で救助訓練 新型コロナで2カ月遅れ

【鈴木宏子】子供たちが霞ケ浦の湖上に出て水環境について体験しながら学ぶ今年度の「霞ケ浦湖上体験スクール」が11日から始まったのを受けて、17日、土浦市川口の土浦港と霞ケ浦の湖上で落水者の救助訓練と船上火災消火訓練が実施された。 毎年4月に訓練を実施しているが、今年は新型コロナウイルス感染拡大による学校の休校や外出自粛要請を受けて、3月から5月まで湖上スクールがすべてキャンセルとなっていた。学校が再開し湖上スクールが4カ月ぶりに再開したのを受けて、例年より2カ月遅れの訓練実施となった。 湖上スクールの指導員と、遊覧船を運航するラクスマリーナ社員のほか、県霞ケ浦環境科学センター職員、土浦市消防本部、土浦警察署の署員など計53人が参加した。 救助訓練は、土浦港から沖合約1キロの湖上で実施された。湖上スクールに参加していた小学生が船から湖に落ちたと想定。ラクスマリーナの社員が浮き輪を投げて落水者を引き上げ、スクール指導員がデッキで心肺蘇生をした。さらに通報を受けた土浦市消防本部の消防艇が駆け付け、救急隊員が船に乗り込んでAED(自動体外式除細動器)を使った心肺蘇生などを実施した。 続く火災訓練は土浦港で実施された。船のデッキに置かれたごみ箱から出火したと想定。船上のスクール指導員が子供たちを落ち着かせて風上に移動させ、別の指導員が消火器を使って初期消火をする訓練を実施した。さらに通報を受けて駆けつけた市の消防艇とポンプ車による消火訓練が実施された。 消防艇で船に乗り込み遊覧船のデッキで落水者の心肺蘇生訓練をする土浦市消防本部の救急隊員=同 湖上体験スクールは県の森林湖沼環境税を活用した子供たちの体験学習で、遊覧船で沖合に出て、船上で霞ケ浦の水質調査をしたり、プランクトンを観察したり、霞ケ浦の広さや生き物、流域の様子を勉強する。毎年、流域の小学4、5年生などがクラス単位で参加し、年間約300回のスクールを開いているという。 一方今年度は、新型コロナウイルスによる休校の影響で、11日に石岡市内の小学4年生が実施したのが始まり。6月は例年なら50回ほど開催するが、今年は10分の1の5回だけという。 学校が再開しても、新型コロナウイルスの感染防止対策が求められることから、スクールでは、船上で子どもたちが3密になるのを防ぐため、船室内のテーブルを撤去して椅子と椅子の間隔を1メートル空けたり、デッキの床にペンキで印を付けて乗船者同士が1メートル距離をとれるようにしたり、水質調査を3班に分けて実施するなどしている。 ラクスマリーナの高野利夫専務は「湖上スクールや遊覧船運航を安全に実施したい」と話している。

【オンライン授業奮闘記】教育現場から考える(下) 『徒然草』の伝え

【田中めぐみ】土浦市内の小中学校、義務教育学校では今週から通常登校となった。土浦日本大学中等教育学校でもオンライン授業をひとまず終了し、通常登校が始まる。新しい学校生活様式はどのようになるのだろうか。 感染を防ぐ教室環境の整備 生徒も教職員も登校前に体温を測定し、登下校時や学校にいる間はマスクを必ず着用する。教職員にはフェースシールドの用意もある。昇降口や教室、職員室にはアルコールを置き、手指を消毒できるようにしている。手洗いの徹底、こまめな水分の補給も指導する。ドアの取っ手やスイッチ、階段の手すりなど生徒が手を触れる場所は教職員が1日1回以上消毒を行う。 さらに、教室はできるかぎり2方向の窓を同時に開けて換気しなければならない。しかし、これからの時期、雨風の強い日、蒸し暑い日は一体どうなるのだろう。マスクをしたままの活動は熱中症の危険もある。エアコンを適宜使用し、快適な教室環境を守りつつも感染を防ぐ配慮が必要となってくる。 制限される国語の活動 近距離で一斉に大きな声で話す活動はできない。国語の授業では全員一斉に大きな声で教科書を朗読したり、活用表を読み上げたりすることがある。今までは生徒たちに「もっと大きな声で言ってみよう」などと促していたが、このような音読活動はしばらく控えるべきだろう。 複数の生徒が近距離で話す活動も「密集」「密接」になるおそれがある。発表したり話合わせたりする活動は、これまでグループワークで行ってきたが、それも当面は見合わせることとなる。生徒が楽しみにし、毎年白熱する百人一首のかるたも現状ではできないだろう。 課題の提出・採点にオンライン利用 生徒同士が持ち物を共有したり、個人の持ち物に触れたりすることも良くない。これまでノートや課題などの回収を生徒に任せることがあったが、回収係の生徒を感染のリスクにさらすことになるかもしれない。回収用のボックスを作り、各自入れてもらうなどの工夫が必要だ。もしくはGoogle Classroom(グーグル・クラスルーム=課題のオンライン管理システム)を用いる。先月は作文の課題を配信した。 生徒は課題についての質問をチャット形式で教員に送ることができ、提出もオンラインでできる。採点結果やコメントもシステム内でフィードバックされるので感染の不安がない。 非常事態だからこそ学びを 兼好法師『徒然草』に「世に語り伝ふること」という段があり、高校2年生と読んでいる。冒頭に「世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くはみな虚言(そらごと)なり」とある。世の中で語り伝えられていることは嘘が多い、というのである。 また、こうもある。「よき人はあやしきことを語らず」―教養がある人は疑わしいことを語らない、と。『徒然草』の別の段には、発熱する疫病が流行しそれに伴って鬼を見たというデマが流れ、人々が騒然としたという記述もある。鎌倉時代に書かれたこの古典を、生徒らはどのように考えるだろうか。 テレビやインターネットに様々な情報があふれる今、子どもは放っておくとSNSや動画サイトなどで、特定の情報にばかりにアクセスしてしまう。不確かな情報が飛び交う中、必要以上に不安を煽(あお)られたり、反対に感染の危険性を軽視したりすることもあるだろう。 学校では様々な問題、課題に触れ、情報の扱い方について学んでいく。根拠を示した意見と感想の違い、一次情報と二次、三次情報の違いなど、様々な教科で考え、新たな視点を手に入れていく。自分を取り巻く状況について考え、問題を解決しようとする主体性を身に付ければ、フェイクニュースに躍らされることもない。また、もし身近に感染者が出てしまった場合、差別をしたり誹謗中傷をしたりすることは絶対にあってはならないことだが、正しい知識を持つことは偏見を防ぐことにもつながる。このような非常事態だからこそ、学ぶことには大きな意味がある。 今後、感染拡大の第2波、第3波の可能性もあるといわれている。オンラインの備えをしながら感染を防ぎ、より良い学校生活を送るにはどうすればよいのか。教材を通じて、生徒らと共に考えたいと思っている。

《霞月楼コレクション》1 大川一男 国芳派の流れを汲んだ美人画

【池田充雄】長い間、土浦には美術館がないと指摘されていた。美術品を収集・展示する公共空間だ。アルカス土浦内に市民ギャラリーが2017年開館し、展示の機能は備わったが、収集による文化の保全・継承面は十分といえない。かつての土浦では、市民がそうした文化をよく担ってきた。その代表的存在が料亭・霞月楼(土浦市中央、堀越恒夫代表)。本シリーズでは霞月楼に残された地域ゆかりの名品に目を向けていく。 霞月楼 1889(明治22)年創業、130年の歴史を誇る土浦きっての老舗料亭。各時代の政治家、軍人、文化人ら、土浦に降り立つあまたの著名人をもてなした。2代当主の堀越正雄はかつて東京・麹町(現永田町)の星岡茶寮に在籍し、その草創期を支えた名料理人だったという。 往時の土浦の風情を漂わせる 「わかさぎ焼」は土浦出身の日本画家、大川一男が1938(昭和13)年に描いた作品だ。当時の川口町(現川口1丁目)あたりは、霞ケ浦から揚がった新鮮なワカサギを焼き売りにする店が川筋沿いに立ち並び、あぶられた魚の香ばしい匂いが街中に漂っていたという。土浦小唄にある「焼かれながらも二本差し」の風情のまさにそのままだ。 この絵は当初、町内にあったさる薬局の依頼により屏風として描かれたが、一男が戦後になって訪ねてみると薬局はすでになく、尋ね歩くうちに絵だけが霞月楼に保存されていることが分かった。モデルになった女性も後年に霞月楼を訪れており、絵姿は姉さん被りの手ぬぐいのひょうたんの柄まで、当時のものをそのまま写し取っていると話したという。 図案工を経て深水に弟子入り 大川一男は1914(大正3)年、新治郡上大津村(現土浦市田村町)に400年以上続く豪農の長男として生まれた。上大津東尋常高等小学校を卒業後、農業の道に入るも画家への夢は捨てがたく、母校の恩師のとりなしで京都図案協会の研究生となり、西陣織の図案工として才能を発揮し始める。 1930(昭和5)年、京都で開催された帝展を見て、伊東深水の作品に心酔。手紙を送り内弟子となることが許され、東京・大井町の深水画塾で日本画の基礎技術を学ぶ。浮世絵の歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水と続く系譜を「玄冶店(げんやだな)派」と呼ぶが、一男もその末流に名を連ねたことになる。 1935(昭和10)年、茨城会館開館記念美術展に大川朝勢の画号で「朝霧」を発表し3等賞。これが公募展への初出品で初入選にもなった。 戦後の土浦で農業と絵を両立 戦時には2度にわたる招集を受け、中国戦線を転戦中に終戦を迎えた。1946(昭和21)年6月に復員したが、実家を支えた弟たちはいずれも戦死し、両親や親族の強い要望により家業を継ぐことになる。 一方で絵への情熱も絶やさず、1948(昭和23)年土浦に県南美術協会が発足するといち早く作品を発表。当時土浦近郊に疎開していた浦田正夫の下に通い、小林巣居人や永田春水の知遇も得る。ここに養父清直、鈴木草牛、根本正、片岡巳代子ら地域作家の面々が加わり、巣居人が再興した新興美術院や県展などを舞台に、互いに競い合い精進を重ねていく。 1980(昭和55)年に新興美術院理事、県芸術祭美術展委員、県文化団体連合常任理事に就任。1994(平成6)年には県つくば美術館で画業60年記念展を開催。2001(平成13)年に88歳で亡くなった。 現代美人画、風景画にも名作 一男の作品は、最初の師である伊東深水の薫陶よろしい、伝統的で気品漂う美人画に定評がある。一方で、あでやかな洋装の中に現代女性らしい精神性を感じさせる作品群もあり、広く人気を集めている。 深水からは「過去の様式をなぞった単なる美人画ではなく、自分なりの発見に基づき、個性を大切にした人物画を描くように」という主旨の教えを受け、その後の創作活動の大きな刺激になったという。 戦後は花鳥や風景にも画題を広げた。その代表作が奥入瀬渓谷を描いた「流奏」で、1982(昭和57)年の第32回新興展で文部大臣奨励賞を受賞した。風景画では師と仰ぐ人はなく「農村に暮らし、自然に触発され、気の赴くまま、型にはまらずに描いている」と話している。(文中敬称略) 取材協力・参考資料 ▽茨城県近代美術館▽常陽芸文センター▽大川家▽画集「画業60年記念大川一男展作品集」1994年▽リーフレット「大川一男展」(1996年、芸文ギャラリー)▽1994年9月20日付茨城新聞▽1996年1月14日付産経新聞 シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

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