火曜日, 9月 26, 2023
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斉藤裕之

「3年後、海外旅行に行こう」《続・平熱日記》136

【コラム・斉藤裕之】妻が亡くなってから次女とメールのやり取りをするようになった。それまではほとんど連絡を取ることがなかったのに…。とはいえ、何を食べたとかどこに行ったとかというような他愛もない内容で、でもそんなことのやり取りをしていたら、本当に突然に次女と海外旅行に行くことを思いついた。なんとなく3年後ぐらいに。 何年も先のことを考えて予定を立てるという能力がない。目の前のこと、とりあえず明日のことを考えて暮らすのが精いっぱいだったからだろう。例えば、割と年を取ってからも次のオリンピックが開かれる頃はどこで何をしているやら、などと考えていた。 しかしここにきて、そろそろ日雇い先生もお払い箱が近くなってきたし、3年後ぐらいには立派な年金受給者になっているはずだ。それから次女は妻と毎年旅行をしていたことも思い出した。果たして次女は私の旅のお供をしてくれるだろうか。 「海外旅行いこう」「なんで?どこに?」「理由はない。3年後。どこか行きたいところある?」「マルタ、フランス、イギリス、ギリシャ…」「わしはクロアチアと…、とりあえず全部行っとくか」 体力をつけておく―私は本気だ パスポート探してみた。懐かしい昔のでっかい赤いやつ。写真が若い。それから小ぶりになった10年パスポート。最後に行ったのはスウェーデン。もう20年以上前。そういえば、最近なにやらパスポート申請をしたら抽選で割引になるとか聞いた。

ワンピースのおんな《続・平熱日記》135

【コラム・斉藤裕之】トイレの中に随分前の「暮らしの手帳」という雑誌が置いてある。その中に「ワンピースのおんな」というタイトルのページがある。ワンピースを着た、多分それなりのキャリアを積んだとおぼしき女性の写真が載っていて、文章はちゃんと読んだことがないのだけれどもちょっと気になっていた。 そのワンピースのおんなは突然現れた。それも大柄の模様の「マリメッコ」のワンピースを着て。妻は大学を出てすぐに有名な布団屋さんに就職した。そのときの担当が有名ブランドのライセンス商品のデザインだった。だからうちには試作品などのタオルや生地サンプルなんかがあって、おおよそ暮らしぶりとはそぐわない一流ブランドのタオルなんかを普段用に使っていたのだけれども、その中にマリメッコという聞き慣れない独特のプリント柄が特徴のブランドがあった。しかし、私にはなじみがないだけであって、フィンランドを代表する有名ブランドであることを知った。 ワンピースのおんなは関ひろ子さんという。職業はアーティストのエージェント? ややこしい業界の話は置いておくとして、1990年代、美術畑とは無縁だった彼女はある若手作家をプロデュースし始め、やがてその作家は世に知られるまでの存在となる。千曲でお世話になったart cocoonみらいの上沢かおりさんもほぼ同時期に同様の活動を始めた方で、お2人はそれまでの閉ざされた?アート界に風穴を開けた、大げさではなく、美術史に残る先駆者的な存在なのだ。 今回の千曲での私の個展を含めたギャラリーのオープンに際しては、ひろ子さんはかおりさん宅に泊まって、プレス関係から食事の支度まで実に楽しそうに手伝いをしていた。 …着ることは自由と尊厳につながる

「平熱日記 in 千曲」後記その2 《続・平熱日記》134

【コラム・斉藤裕之】個展最終日の朝5時。心躍らせながら長野から白馬方面に向かう。30分も走ると朝日に映える巨大な雪山が目の前に現れた。秋にはまた信州の山をテーマにしたグループ展に参加することになっていることもあって、とにかく今回こそ信州に来たからには、北アルプスを間近で見たかった。 そして、ついに白馬に到着。しばし雪山を仰ぎ見る。それから、木崎湖を過ぎた辺りのコンビニで撮った山の画像を早速SNSにアップした。確か、この辺りの山の麓には東京芸大の山小屋「黒沢ヒュッテ」があって、私も何度か訪れた思い出があるのだが。 すると、すぐに「爺ヶ岳と鹿島槍ですね」とのコメントが。芸大で学生のときから長くお世話になった佐藤一郎先生だ。画像を見ただけで山の名前を即答とは、さすが山岳部OB。その直後には、これまた大学の先輩で確か山の専門誌にも寄稿をされていた画家の河村正之さんから「何度見てもいい山だ」とのコメント。私にはどれも同じに見える雪山も、見る人が見ると違いがわかるらしい。 大満足で千曲に戻り、その後、古い小学校の校舎があるというので見に行った。というのも、数年前から建物を紙粘土で作ったものを絵に描いていて、それをかおりさんが面白がってくれたので、この際シリーズ化してみるのもいいかもなんて話していたところに、地元の方が紹介してくれたのが千曲市の屋代小学校の旧校舎だったのだ。 それは洋式のしゃれた木造2階建て。屋根瓦こそ和瓦だが、薄い水色に塗られた鎧(よろい)張りの壁とわずかに上部がアーチ状の縦長の洋窓。それから、校長先生のスピーチ姿が想像できる2階に張り出したバルコニーが実にキュート。どちらかというと、アーリーアメリカンな印象の校舎は昭和50年前半まで使われていたとか。 あの貞本義行からのメール

「平熱日記 in 千曲」後記その1《続・平熱日記》133

【コラム・斉藤裕之】さて、80余点の作品を無事にかけ終わり、「平熱日記 in 千曲」は小雨の中、初日を迎えた。ギャラリーと接する母屋のリビングにはいつの間にかお手伝いの方々が集まり始め、にぎやかに準備が進んでいく。今まで経験したことのない、こうなるともはやギャラリーのオープニングというより、親戚一同が集まった何かの慶事のようだ。 そうこうするうちに、アーティストトークの時間となった。見ての通り、特に何を説明する必要もない作品だと思うのだけれど、オーナーのかおりさんの提案で簡単な実演をすることになっていた。 持参した筆や絵具を使ってイリコを描く。光の具合や机の高さなど、いつもとは違う条件の上、周りを多くの人が囲んでいるのでやりにくかったけれども、漆喰(しっくい)に金網を塗る様子も見てもらって、イリコを描いてみた。それから、かおりさんの質問に答えながら作品にまつわる話などをした。 近隣の方々、東京から来てくれた姪(めい)夫婦、かつての教え子。ファンとおっしゃる方は富山から、なんと茨城からもいらしてくれた方もいて…。実に久しぶりに打ち上げなんていう経験もして、にぎやかな初日を終えた。 次の日、人のいないギャラリーに座る。壁に展示された絵はすでに私には何ともしがたいものとなってしまっていて、壁の絵に見られているような気になる。やがて扉を開けてお客さんが入ってきた。そして一つの絵を見つけて話を始める。

津和野の清流に沿って 《続・平熱日記》132

【コラム・斉藤裕之】春らしいすっきりしない空だけど、伐採の仕事に行く弟を横目に、義妹のユキちゃんと津和野方面に出かけることにした。まずは錦川という川が見えてくる。清流として知られ、「錦川清流線」という鉄道が流れに沿って走り、下流には有名な錦帯橋が架かっている。東京では桜が満開というのに、ここ山口の瀬戸内側ではやっと開花をしたばかり。 しかし、山に入って行けば行くほど不思議なことに桜の花が目立つ。広瀬という街に至ってはほぼ満開だ。その広瀬の道の駅で見つけたのが、「鶏卵せんべい」。この数日、出かけるたびに探していたが出会えなかった。名産というわけでもなく、とてもシンプルなお菓子なのだが、卵の利いた優しい味わいと庶民的な価格が魅力。 迷わず、数袋を手にレジに向かった(その後お土産に渡したほとんどの人から鶏卵せんべいを絶賛された)。 すれ違う車も少なく島根に入る。すると桜の花は消えた。六日町という山間の町で次の道の駅に。そこでは「麦ころがし」という和菓子?を買ってみた。ユキちゃんはガニメというワサビの新芽を買った。今度は高津川という清流に沿って走る。「ゴギの里」と書いたのぼりが立っている。後で弟に聞いたら、この辺りの川にしかいないイワナの一種でゴギというのがいるそうだ。次の道の駅では、次女に白あんのお菓子を買った。 「モクズガニラーメン」というのも見つけた。実は別の日に、別の道の駅で網に入ったモクズガニを買って食べてみたところだった。食べたことがないのでわからないが、上海ガニに似ているという。味はとてもよく泥臭さもなかった。 ガニメのしょうゆ漬け

「宇宙の部屋」宇部にて 《続・平熱日記》131

【コラム・斉藤裕之】弟の家は山口県の山の中にある。3月の半ば、ここに来てから薪(まき)ストーブのある山小屋風の母屋はとても暖かく、麓より少し遅い春も快適に過ごせている。今日は午後から雨の予報が出ていて、弟の嫁のユキちゃんは地域の奥様方と予定していたベーコンとハムの薫製作りを延期した。そこで、宇部という街にユキちゃんと出掛けることにした。大学の後輩がグループ展をしているというのをたまたまSNSで見かけたのだ。 着いたところは元病院だったという建物。いつもは絵を描いている後輩の作品はインスタレーション(場所や空間全体を作品として体験させる芸術)によるものだった。階段を上っていくと、3階は「GLYCINES(グリシーヌ)」というギャラリースペース。 実は本当に偶然なのだが、つい2週間ほど前まで、この場所でユキちゃんの長女、つまり姪(めい)のナオちゃんが展覧会をしていたのだ。ナオちゃんはカナダに住んでいて、この冬の数カ月間を山口で過ごすため帰国していた。随分前からイラストを描いていたのは知っていたが、今回は日本で知り合いになった写真家の女性に誘われて、急きょここGLYINESで二人展をすることになったそうだ。 ナオちゃんはボールペンで絵を描く。その緻密なイラストは、友人の書いた「ごちそうの山」という昨年出版された本の表紙にもなっている(広島の山奥でマタギとして生活する若い女性のエキセントリックな日常を描いたこの本はお勧め)。 藤の花のような文化の拠点 ちょうど昼時になったので、併設のカフェでカレーをいただきながら、オーナーの涼子さんにユキちゃんはお礼方々、私達が今日ここにきた経緯など話しているうちに、涼子さんと私は同時期にパリにいたことが分かってきた。

個展「平熱日記in千曲」 《続・平熱日記》130

【コラム・斉藤裕之】日雇い先生の良さの一つは長い休みがあること。かといって特に計画があるわけでもないのだが、この春休みは、またパクを連れて山口に帰ろうと考えている。そこで気になるのが、このコラムの原稿のこと。気兼ねなく休みを満喫するために、前倒しで原稿を書いておくことにした。 さて、何のことについて書こうかと考えたが、これが出るころには桜の便りも聞かれて、私事としては信州千曲市での個展が半月後に迫っている。特に焦るわけでもなく、平熱で準備を進められているといいのだが、既に今の時点で、DM(個展案内のはがき)の原稿が出来上がってきた。この度お世話になるギャラリーのオーナーさんによるDMのテキストが、何とも私好みだったので抜粋してみたいと思う。 「牛久に音楽ライブを見に行って、併設のギャラリーの個展で一目惚(ほ)れしたのが斉藤裕之さんとの絵との出会い。優れた俳句のような絵っていうのかなあ。誰にでもありそうな親しみやすい日常に、すばやくさりげなくスポットをあててくれて、ハンパない画力が無駄なものを排して、小さなサイズに、十分な想像の余地のある世界というか、宇宙をつくってくれている。ふっと笑えるように、かろやかで楽しい。そして美しい。本展では長野や千曲市の風景も描いて…」 現代美術に関係したお仕事もされていた、オーナーの上沢かおりさん。故郷の千曲市に帰られて、一念発起。時間と手間をかけて、ご自宅を素敵なアートスペースに改装された。アートに対する深い造詣と美学をお持ちの上沢さん。美術に限らず、音楽やその他の表現の場として、また地域の交流の場としての役割も考えていらっしゃる。もちろん故郷への思いは特別なものだろう。 4月15日~5月1日、art cocoon みらい

最後の一葉《続・平熱日記》129

【コラム・斉藤裕之】冬の初めに1人用の土鍋を買った。その日から今日まで、つまりひと冬の間、鍋を食べ続けた。まず大きな白菜を買って、毎日2枚程度を外側からはがして使う。長ネギ半本、豆腐は3分の1。これを基本として、豚、鶏、魚介などの動物性のたんぱく質と、それに合う、塩、みそ、しょうゆ系の汁のシンプルな鍋だ。 好みで春菊とセリをあしらうことはあっても、キノコや他の野菜は入れない。無駄になるものはほとんどなく、残ったら卵などを落として次の日の朝食とした。 気が付くと、油を使うことも全くなくなり、洗い物も少なく、胃もたれなどもない。しかし、量、質ともに極めて質素な夕食なのだが、なぜか体重が増えた。冬の寒さに体がエネルギーを蓄えようとするのか、あるいは寒いのであまり体を動かさないためか。 多分、現代の食事は何を食べても、基本的に栄養過多になるのだろう。今日はハンバーグだの、明日は中華だのと、おいしいものをこれでもかと食べ過ぎているに違いない。それから、毎日同じような物を食べているわけだが、不思議と飽きることはない。 インドの人が毎日カレーを食べるように、フランス人がパンとチーズを食べるように、私の体は米と汁物でできていることを実感する。 余談だが、フランスのポトフという料理は、金偏(へん)にかまどを表す旁(つくり)でできた鍋という字と一致する。学生のころ、フランスから留学してきたエマニエルが作ってくれたポトフの味は、今でも忘れられない。日本では手に入り難い牛の脊椎を入れたポトフ。その中の髄(ずい)がおいしいと教えられてパンにつけて食べた記憶がある。

金柑と干し柿 《続・平熱日記》128

【コラム・斉藤裕之】古い友人が訪ねてきた。奥さんは小さなビンをくれた。中には金柑(キンカン)のシロップ漬けが入っていた。子供の頃、金柑は人の庭からもいで食べるものだった。だから、買ってまで食べるものではないと思っていた。事実、毎週のように出かける近くのカフェの窓からは金柑の木が見え、ちゃんと断って何度か口に入れてみたが、甘くておいしかったのだけれども、持ち帰ろうという気にはならないでいた。 ただでさえ果物をあまり食べない私。冷蔵庫を開けるたびに目に入る金柑のビン。なかなかふたを開ける勇気がなかったのだが、冬は案外喉が渇くので、ある日サイダーの中に金柑を入れてみた。 コップの底に残った金柑を口に入れた瞬間、あの独特の風味が甘さとともに広がった。それから、毎日、金柑入りのサイダーを飲むのが楽しみになった。ついでに、レシピを聞いて自分でも作ってみようと思った。けれども今年に限って、くだんのカフェの金柑は不出来で、どうやらシロップ漬けにはできない。初めて金柑を買って作ってみたら、なんとなく同じようなものはできた。まあ、金柑の実を砂糖と蜂蜜で煮るだけだから。 それからしばらくして、またその夫婦がやって来た。どうやらメールで送った画像を見て、私の作ったものがいまいちの出来だと思ったらしく、金柑と蜂蜜とレモンまでそろえて持ってきてくれた。 次の日、久しぶりに次女が東京から帰って来た。駅から降りてきた彼女は金髪だった。美容師という職業柄かどうかは知らないが、毎度変わる髪の色にはもう驚かなくなった。美容師という仕事は、かなりブラックに近い肉体労働だということは想像できる。多分疲れているだろうから、その日はどこにも出かけずに、食べたいと言っていたサツマイモ入りの豚汁を作った。 それから、「これ食べていいの?」と、彼女はシロップ漬けになるはずの金柑を見つけて言った。「どうぞ」。彼女はムシャムシャと金柑をほおばった。

大きなマップケース 《続・平熱日記》127

【コラム・斉藤裕之】その日は朝から冷えていた。さて何をしようかとアトリエを見渡していたら、大きなマップケースの中が気になってごそごそと引っ張り出し始めた。これは20数年前、東京のある出版社が引っ越すので不要になったものがあるからと友人からの知らせがあって、のこのこ取りに行ったものだ。 大判の用紙からメモのようなものまで、とりあえずこの中にぶん投げとけばホコリもたからないので、無造作に5段の引き出しに入っている。あれだけ探したけど見つからなかったパンフレット、幼い日の子供たちが描いた絵、描きかけのデッサン…。その中に、フランス留学中に描いたドローイングやエスキースがあった。 少し厚手の紙に色を塗って、それらを切って何枚も貼り合わせたもの。その頃は抽象的な作品を描こうとしていて、セーヌ川の見えるアトリエの壁に貼って描いては切って貼りを繰り返していたことを鮮明に思い出す。その中から、青く塗られた1枚を手に取って眺める。 と、なんだ! 今描いている絵と変わらないじゃないか。紙を切って貼ることが金網と漆喰(しっくい)に代わっただけで、笑ってしまうほど変わらない自分の絵。フランスから帰国して何年が経過したかは、帰国直後に生まれた二女の年齢で分かる。ざっと30年。 例えば引っ越しのたびに捨てられずになぜか手元に残っているもののように、このマップケースの中にも、とりあえずしまい込んだものや捨てられなかったものが入っていて、この色の塗ってある紙切れたちも捨てきれずにフランスから持ち帰って、ここに入れた理由があったはずだ。 それが何なのかを言葉で説明する必要はない。というか、そこに残っている言葉こそが大事なのだと思った。

煤けた犬 《続・平熱日記》126

【コラム・斉藤裕之】「パパ、パクがなんだか汚れてるよ」と、正月に帰ってきた長女。確かに白いはずのパクは心なしか煤(すす)けている。いや確実に煤で汚れている。冬の間は暖かい薪(まき)ストーブの横で寝ているものだから、煙突掃除の際に落ちたわずかな煤や火ばさみに着いた灰が体や顔に付いて、まだら模様になっていて見るからに貧乏くさい。 しかし、だからといって特に洗ったりはしない。というか、犬を洗うというのはいかがなものかと思う。 相変わらず、変な時間に起きてしまうことがある。そういう時はとりあえず絵を描く。その日は、昔、海で拾ったシーグラス(海の波や砂で丸みを帯びたビンなどの割れたガラス)を描き始めた。ところがなかなかうまくいかない。2時間ほど悪戦苦闘したがやめた。 やめたというのはもう描かないというわけではない。今日のところはひとまずやめたということで、このへんは何となく釣りに似ている。今日は潮目が悪いとか何とか言いながら、次こそは釣ってやろうと思うのに近い。また、新たな獲物に挑戦したり、ポイントを探してみたり。入れ食いの時もあれば、坊主の時もある。そんないい加減な気持ちでいいのか? いいのだ(この文章も然り)。もしもこれが生活を支える漁師なら、こんな悠長なことは言っていられない。だから、私の場合はポンポン船で雑魚を釣りに行く物好きな釣り人程度のレベルということだ。でも、その方が本来の釣りを楽しめるような気もする。 暖かくなったら洗ってやるよ

3年ぶりの餅つきと新しいノート 《続・平熱日記》125

【コラム・斉藤裕之】年の瀬を感じるものは人それぞれ。クリスマス、大掃除、忘年会…。しかし私にとっては餅つき。今どきは十分においしい餅がスーパーで売っているし、わざわざ餅をつくこともなかろう。否、私の中ではその年を締めくくる大事な伝統行事。特に、昨年生まれた孫が物心つく頃までは是非とも続けていきたい私遺産。 それに、3年前に新調した餅つきの道具一式を、コロナのせいでこのまま使わず仕舞(しまい)にするのはどうにも癪(しゃく)だった。それから迎えるは兎(うさぎ)の年といえば、やはり餅つきだろう。そしてやっぱり杵(きね)つきの餅はおいしいし、餅はみんなを笑顔にする。 だから、3年ぶりに餅つきをすることは前から決めていた。しかし餅は1人ではつけない。餅つきは家族、友人との共同作業だ。 穏やかな晴天の下、総勢20人。朝から火を入れておいた竈(かまど)に乗せた蒸籠(せいろ)から湯気が立ってきたら、いよいよ餅つきの始まりだ。まずは杵で捏(こ)ねる。餅つきとは言うが、この捏ねる作業がほとんどで、つくのは最後の仕上げ程度。実はこの地味に見える捏ねの作業が体力を奪う。 やっと杵を振り下ろす頃には、想像以上に体力を消耗している。特に昔のケヤキの杵はすこぶる重い。そして時間とともに、杵を打ち下ろすよりも、臼から持ち上げるのが大変になってくる。加えて粘り始めた餅が杵に着くと、一層重く感じる。昔は4升餅をひとりでつき上げると、1人前の男として認められたとか。 しかし、そこはあまり無理がないように、大中小のサイズの中から体力に合った杵を選べるようにして、何人かでつくようにする。かくいう私は、大工仕事と薪(まき)割りで右手の肘を痛めているので、もち米を蒸しあげて臼に投入する係に徹するが、これはこれでシビアな役だ。

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つくば市への無償譲渡は妥当 県議会調査特別委が結論 洞峰公園

県議会の第3回県有施設・県出資団体調査特別委員会(田山東湖委員長)が25日開かれ、前回、審査継続となっていた(8月30日付)県営の都市公園、洞峰公園(つくば市二の宮)を地元のつくば市に無償譲渡する県執行部の方針について審査が行われ、無償譲渡の方針は妥当とする決定が全会一致で出された。 妥当と結論を出した理由については、洞峰公園は①筑波研究学園都市開発に合わせて県が設置管理を行ってきた経緯があるが、公園の本来の位置づけが主として一つの市町村の区域内の利用者を見込んだ総合公園である②無償譲渡は将来の維持管理費の負担を県から市に変えるという性格をもち、経費の前払いとも考えられる③公園移管によるつくば市の財政面の影響についても大きな問題はなく、市からの理解も得られている④すでに市と十分協議の上、調整が進んでおり、市へ影響なども考慮する必要があるーなど8点を挙げた。 その上で田山委員長は、洞峰公園をめぐる一連の経緯について「本来(公園の管理運営方法など)方針を変えるごとに慎重な議論や説明が求められるところ、パークPFI事業のみが先行し、県民や市民、議会への説明が置き去りにされてきた」と指摘し、「二元代表制において議会と知事は車の両輪であることを改めて認識いただき事業を進めていただきたい」などと苦言を呈した。 さらに「今回の案件に関しては方針通りに進めていただきたいが、執行部に対しては現行の仕組みで欠落している部分、例えば譲与に関する条例や取扱基準の見直し、議会への報告の義務付けなど、今後きちんと議会として関与していけるよう早期に具体的な仕組みづくりの検討を進め、随時、委員会への報告に努め、委員会においても検討していきたい」などと指摘した。 公園の更新費40億円、施設は8割の32億円を想定 決定に先立つ審査では、新都市記念館や体育館など公園施設の今後の維持・管理費について江尻加那県議(共産)から質問が出た。つくば市が示した年平均約3500万円の修繕費用について大塚秀二県都市整備課長は「詳しい中身までつくば市から説明を受けた訳ではないが、考え方の基本として、予防的修繕を行うにあたって15~20年のサイクルを考えて(修繕に)かかるお金を年平均に直した場合、3500万円ほどと算出されていると聞いている。施設の更新費はこれからかかってくる。施設の更新費は、耐用年数80年を考えると、20年の外側になってくるので、更新費は入ってないという解釈になる」とした。

「イモ博士」井上浩さんを偲ぶ《邑から日本を見る》144

【コラム・先﨑千尋】日本におけるサツマイモ文化史研究の第一人者であり、イモに関する「生き字引」だった埼玉県川越市の井上浩さんが去る7月に92歳で亡くなった。その死を惜しんで、9月13日に同市の「いも膳」で偲(しの)ぶ会が催され、関係者らが井上さんの思い出を語り合った。 井上さんは東京教育大(現筑波大)で農業経済史を学び、浦和高校や松山高校で社会科の教師を務め、地元の物産史を研究。その範囲は、埼玉県内の麦、養蚕、柿、川越イモ、入間ゴボウ、サトイモなどのほか、織物の川越唐桟の復活や民俗芸能にも及んだ。 井上さんは、1960年代から川越イモの歴史文化の研究を始め、川越市制60周年の時(1982)には「川越いもの歴史展」を、翌年には「第1回川越いも祭」を企画開催した。さらに84年には、市内の熱心な“いも仲間”を集め、「川越いも友の会」を発足させ、サツマイモ復権運動のさきがけとなった。 同時に、『川越いもの歴史』『昭和甘藷百珍』『さつまいもの話』などを次々に世に出した。公民館主催の「さつまいもトータル学」の講師も務めた。この時期にサツマイモ調査団を組織し、鹿児島や中国を訪問し、それぞれの産地を巡り、現地の研究者たちと交流し、情報を集めている。 82年に神山正久さんが開いた「いも膳」のいも懐石料理にもアドバイスをされ、神山さんは井上さんらの意を汲んで自費で民営の「サツマイモ資料館」を敷地内に開設。井上さんが定年退職したあと、16年間館長を務められた。 この資料館にはサツマイモに関する資料や加工品、文献などが集められ、いも煎餅などのいも菓子類が購入でき、ここに来ればサツマイモのことなら何でも分かるというものだった。この種の資料館、博物館は他にはなかったので、全国のサツマイモ産地から関係者が次々に訪れ、情報の交流の場、サツマイモ活動の拠点にもなった。

県内最古の土浦幼稚園 認定こども園として10月開園

県内で最初の公立幼稚園として138年前の1885(明治18)年に創設された市立土浦幼稚園(土浦市文京町)が、幼保連携型の認定こども園に生まれ変わり、「認定こども園土浦幼稚園」(塚本由美子園長)として10月2日に開園する。開園を前に24日、同園で開園式が催され、10月から同園に通う園児らが安藤真理子市長らとテープカットをしたほか、歌を歌ったり、父母らと園内を見学した。幼稚園と保育所の機能をもつ公立の認定こども園は同市で初めて。 土浦幼稚園は、市立東崎保育所(同市東崎町)と統合し認定こども園として再編するため、2022年3月に閉園した。老朽化していた園舎の改修工事が同年10月から実施され、今年8月に完成した。 開園式で土浦幼稚園の園歌を歌う園児たち 同園は敷地面積約2300平方メートル、園舎は鉄筋コンクリート造2階建てで、延べ床面積約1100平方メートル。1階は0歳~2歳児の教室のほか、子育て支援センター、一時預かり室、給食室などが配置され、2階は3~5歳児の教室のほか、ホール、共用空間のキッズスペースが配置される。 各階に段差は無く、エレベーターや多目的トイレを設置しバリアフリーに配慮している。園舎は明るく開放的なつくりで、内装は、木の温かみと園児の健康を考慮し、木材や自然素材を使用している。外観は、変化のあるフレームや色で楽しさや明るさを表現している。園庭は土浦幼稚園と同じ天然芝を敷き詰めている。設計・工事費は計約4億5000万円。

大池由来水草の域外保全の試み《宍塚の里山》105

【コラム・嶺田拓也】2010年に農水省が選定した「ため池百選」に指定された宍塚大池では、かつて豊かな植生が見られました。とくに水草では、抽水植物であるハス、フトイ、カンガレイなど、浮葉植物ではヒシ、ハス、オニバス、ジュンサイなど、沈水植物ではクロモ、イヌタヌキモ、エビモ、シャジクモなど、多くの種類が生育していました。しかし、近年はヒシの葉が浮かぶ程度で、多くの水草が大池から姿を消してしまいました。 その原因としては、水質の変化やアメリカザリガニの影響などが考えられています。全国的にも各地で水草の衰退は著しく、その多くが絶滅危惧種に指定されるほどまで減少してしまいました。大池に見られた水草のうち、オニバス、イヌタヌキモ、シャジクモなどが全国的に絶滅の危機にあるとして、環境省から絶滅危惧指定を受けています。また、ジュンサイやクロモなどは茨城県のレッドデータリストで、県内では数少なくなった絶滅危惧種に扱われています。 私たち「宍塚の自然と歴史の会」では、大池で見られた希少な水草を絶やさないために、大池の底土を採取して、埋土種子として含まれている水草の系統保全を行っています。 大池の堤防から400メートルほど北側に位置する井戸のわきに、水草保全地として大きな水槽を並べて大池の底土を入れ埋土種子からの発芽を待ったところ、これまでオニバスやジュンサイ、クロモ、シャジクモなど多くの種類が再生し、系統が維持されてきました。しかし、この夏の猛暑で、給水用の井戸のポンプが故障してしまったことで、水槽に水がまかなえなくなり,大池由来の希少な水草が全滅してしまう危険性に見舞われました。 環境科学センターなどで見てね そこで、系統保全していた水草のうち、大池産の水草としてシンボル的なオニバスとジュンサイについて、全滅のリスクを避けるため、これまで里山保全にご理解・ご協力いただいている茨城県霞ケ浦環境科学センター(土浦市沖宿)、茨城県自然博物館(坂東市大崎)、奥村組技術研究所(つくば市大砂)の3カ所に域外保全することにしました。