土曜日, 4月 20, 2024
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レインボーの中で、虐殺に抵抗する《電動車いすから見た景色》53

【コラム・川端舞】毎年4月後半に開催される国内最大級のLGBTQ(性的少数者)関連イベント「東京レインボープライド」。今年も19日から3日間、予定されている。 例年、イベントにはイスラエル大使館がブースを出展していた。イスラエル政府はLGBTQフレンドリーであると世界にアピールすることで、パレスチナへの占領という負のイメージを覆い隠そうとしていると批判されてきた。「東京レインボープライド」もイスラエルのイメージ戦略に利用されているのではないかと、当事者団体などが指摘している。 今年のイベントも、パレスチナで虐殺を続けているイスラエルに製品・サービスを提供しているとして、世界中で不買運動が呼びかけられている企業が協賛しているため、イベントに参加するべきかどうか、当事者団体のなかでも激しく議論されている。 一方、毎年イベントに参加することを生きる目標にしている人もいるだろう。今の社会は、出生時に割り当てられた性別と、自認する性が一致し、異性愛である人を前提につくられ、そこから外れた人はいないことにされている。自分の性別に違和感を持ったり、同性に恋愛感情をもつことが周囲に知られた瞬間、偏見にさらされる危険性もある。 そのような社会でかろうじて生き延びるために、本当の自分を隠しながら毎日を過ごしているLGBTQ当事者がたくさんいるはずだ。過酷な状況を生きる当事者が、「年に一度、本当の自分を認めてくれる仲間に会える」「東京なら、地元の知人に出くわす心配もなく、堂々といられる」などの思いで、「東京レインボープライド」に参加することを誰が責められるだろうか。 イスラエルがパレスチナでの虐殺を覆い隠すために、LGBTQを利用するのは決して許せないが、イベントでLGBTQの人権を祝うのが悪いわけではない。 LGBTQはパレスチナにもいる ……と偉そうなことを言っておきながら、私も今回のイベントに参加する予定だ。普段からLGBTQの社会問題に関心を持っているが、それを気軽に話せる場はあまりない。そんな私を気にかけてくれた高校時代の友人が、「一緒に行こう」と誘ってくれた。 しかし、イスラエルの虐殺に加担したくない。友人に相談し、イベント最終日のパレードにパレスチナの旗を持ちながら参加することにした。そもそも、LGBTQはイスラエルの専売特許ではないし、LGBTQ当事者は日本にもイスラエルにも、当然、パレスチナにもいる。LGBTQの人権と、パレスチナへの連帯を天秤にかけるべきではない。 きれいごとかもしれないが、LGBTQとパレスチナ、双方に連帯するために私は友人と一緒に歩く。(障害当事者)

レインボーの中で、虐殺に抵抗する 《電動車いすから見た景色》53

【コラム・川端舞】毎年4月後半に開催される国内最大級のLGBTQ(性的少数者)関連イベント「東京レインボープライド」。今年も19日から3日間、予定されている。 例年、イベントにはイスラエル大使館がブースを出展していた。イスラエル政府はLGBTQフレンドリーであると世界にアピールすることで、パレスチナへの占領という負のイメージを覆い隠そうとしていると批判されてきた。「東京レインボープライド」もイスラエルのイメージ戦略に利用されているのではないかと、当事者団体などが指摘している。 今年のイベントも、パレスチナで虐殺を続けているイスラエルに製品・サービスを提供しているとして、世界中で不買運動が呼びかけられている企業が協賛しているため、イベントに参加するべきかどうか、当事者団体のなかでも激しく議論されている。 一方、毎年イベントに参加することを生きる目標にしている人もいるだろう。今の社会は、出生時に割り当てられた性別と、自認する性が一致し、異性愛である人を前提につくられ、そこから外れた人はいないことにされている。自分の性別に違和感を持ったり、同性に恋愛感情をもつことが周囲に知られた瞬間、偏見にさらされる危険性もある。 そのような社会でかろうじて生き延びるために、本当の自分を隠しながら毎日を過ごしているLGBTQ当事者がたくさんいるはずだ。過酷な状況を生きる当事者が「年に一度、本当の自分を認めてくれる仲間に会える」「東京なら、地元の知人に出くわす心配もなく、堂々といられる」などの思いで、「東京レインボープライド」に参加することを誰が責められるだろうか。 イスラエルがパレスチナでの虐殺を覆い隠すために、LGBTQを利用するのは決して許せないが、イベントでLGBTQの人権を祝うのが悪いわけではない。 LGBTQはパレスチナにもいる ……と偉そうなことを言っておきながら、私も今回のイベントに参加する予定だ。普段からLGBTQの社会問題に関心を持っているが、それを気軽に話せる場はあまりない。そんな私を気にかけてくれた高校時代の友人が、「一緒に行こう」と誘ってくれた。 しかし、イスラエルの虐殺に加担したくない。友人に相談し、イベント最終日のパレードにパレスチナの旗を持ちながら参加することにした。そもそも、LGBTQはイスラエルの専売特許ではないし、LGBTQ当事者は日本にもイスラエルにも、当然、パレスチナにもいる。LGBTQの人権と、パレスチナへの連帯を天秤にかけるべきではない。 きれいごとかもしれないが、LGBTQとパレスチナ、双方に連帯するために私は友人と一緒に歩く。(障害当事者)

差別し、差別された子ども時代の私へ《電動車いすから見た景色》52

【コラム・川端舞】ふと、あなたに話しかけたくなりました。私はあなたを誇りに思います。勉強を頑張っていることでも、毎日学校に通っていることでもなく、生き続けてくれていることに。 多くの学校が、障害のない子どもを前提につくられ、障害児はいないことにされています。今のあなたは、死にたいほど辛いのは、障害のある自分が普通学校にいるからだと思っていますね。でも、それは違います。どんな障害があっても、障害のない同級生と同じ学校に通うのは、国連が認めた権利であり、障害児でも過ごしやすいように環境を整える責任が学校にはあります。あなたは堂々と普通学校に通っていいのです。 私はあなたに、何があっても普通学校に行けとは言えません。一番大切なのは生き続けることだから。本当に苦しかったら、どうか学校を休んでください。でも、あなたが普通学校に通い続けてくれたおかげで、私は一生付き合える友人に高校で出会えました。本当に感謝しています。 自分の差別意識と向き合って 覚えていてほしいことがあります。この社会は「普通」と呼ばれる人ができるだけ過ごしやすいようにできていて、そこから外れた人たちは差別されやすくなっています。あなたも身体障害者という点では差別されることが多いですが、そのほかの点では誰かを差別してしまうこともあるでしょう。 例えば、あなたは同じ学校の特別支援学級にいる知的障害のある同級生を見て、「自分は勉強ができるから、あの子たちとは違うのだ」と思っていますね。または、人間は男女ではっきり分かれるものだとか、家庭にはお父さんとお母さんがいて当たり前だと思っていませんか。そんなあなたの言動が、無意識に周りの同級生を傷つけているかもしれません。 自分が差別していると気づくことは難しいし、痛みを伴います。これはあなただけが悪いのではなく、少数派とされる人たちをいないものとして学校や社会がつくられていることが問題なのです。一方、あなたは障害児としての経験から、差別される痛みを他の人よりは知っているはずです。だから、勇気を出して自分の中の差別意識と向き合い、少しずつ変えていってほしいのです。 社会は簡単には変わりません。でも、あなたの中の差別意識を変え、周囲にも伝えていく。そうすることで、共感してくれる人や、少しだけ考えを変えてくれる人、反対にあなた自身の凝り固まった価値観をほぐしてくれる人が現れます。彼らと対話を重ねていくことが、社会を変えることだと思います。私もそのように生きていきたいです。(障害当事者)

差別し、差別された子ども時代の私へ《電動車いすから見た景色》52

【コラム・川端舞】ふと、あなたに話しかけたくなりました。私はあなたを誇りに思います。勉強を頑張っていることでも、毎日学校に通っていることでもなく、生き続けてくれていることに。 多くの学校が、障害のない子どもを前提につくられ、障害児はいないことにされています。今のあなたは、死にたいほど辛いのは、障害のある自分が普通学校にいるからだと思っていますね。でも、それは違います。どんな障害があっても、障害のない同級生と同じ学校に通うのは、国連が認めた権利であり、障害児でも過ごしやすいように環境を整える責任が学校にはあります。あなたは堂々と普通学校に通っていいのです。 私はあなたに、何があっても普通学校に行けとは言えません。一番大切なのは生き続けることだから。本当に苦しかったら、どうか学校を休んでください。でも、あなたが普通学校に通い続けてくれたおかげで、私は一生付き合える友人に高校で出会えました。本当に感謝しています。 自分の差別意識と向き合って 覚えていてほしいことがあります。この社会は「普通」と呼ばれる人ができるだけ過ごしやすいようにできていて、そこから外れた人たちは差別されやすくなっています。あなたも身体障害者という点では差別されることが多いですが、そのほかの点では誰かを差別してしまうこともあるでしょう。 例えば、あなたは同じ学校の特別支援学級にいる知的障害のある同級生を見て、「自分は勉強ができるから、あの子たちとは違うのだ」と思っていますね。または、人間は男女ではっきり分かれるものだとか、家庭にはお父さんとお母さんがいて当たり前だと思っていませんか。そんなあなたの言動が、無意識に周りの同級生を傷つけているかもしれません。 自分が差別していると気づくことは難しいし、痛みを伴います。これはあなただけが悪いのではなく、少数派とされる人たちをいないものとして学校や社会がつくられていることが問題なのです。一方、あなたは障害児としての経験から、差別される痛みを他の人よりは知っているはずです。だから、勇気を出して自分の中の差別意識と向き合い、少しずつ変えていってほしいのです。 社会は簡単には変わりません。でも、あなたの中の差別意識を変え、周囲にも伝えていく。そうすることで、共感してくれる人や、少しだけ考えを変えてくれる人、反対にあなた自身の凝り固まった価値観をほぐしてくれる人が現れます。彼らと対話を重ねていくことが、社会を変えることだと思います。私もそのように生きていきたいです。(障害当事者)

生きて、社会に抵抗せよ《電動車いすから見た景色》51

【コラム・川端舞】「生きるのは苦しい」。子どもの頃からずっと感じてきたが、なかなか表出できなかった言葉が堂々と書いてあることに、私は心底安堵(あんど)した。社会を変えたいと望みながら、本当の自分をさらけ出す勇気すらない私に、そっと寄り添ってくれるような言葉だ。 1995年生まれのライター、高島鈴さんの初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ―アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)。 高島さんは本書で、家父長制、異性愛規範、資本主義をはじめとする、弱い個人を追い詰める権力や差別を否定し、社会を変える働きかけ全てを「革命」と呼ぶ。「革命」と聞くと、行動力のある強い人がすることだと思いがちだが、著者によると、日常の中で自分を脅かすものに少しでも抵抗しながら生きることそのものがすでに革命への加担なのだ。 私は、世間のつくった「あるべき障害者像」を恨みながら、少しでもそれに近づこうとする自分が嫌いだ。窒息しそうなほど苦しいのに、誰かに褒められようと、笑顔で頑張る矛盾だらけの自分が大嫌いだ。そんな私に、「生きるのは苦しい」と断言しながら、それでも、たとえ布団から起き上がれなくても、今いる場所で生き延びることが「社会を変える力」だとする高島さんの言葉は響いた。 あなたという存在を伝えて 大げさなことはしなくてよい。家の近くの学校に、心地の良い服装で通う。ほしい情報を自分にとって分かりやすい方法で受け取る。周りから自分らしい名前で呼ばれる。愛し合った人と家族になる。そんな、あなたの望む生き方をすればいい。 しかし、この社会は、健常で、日本語が母語で、自分の性別に違和感がなく、異性愛で…、世間から見た「普通の人」しかいない前提でつくられている。そんな社会で自分という存在が無視されていると感じたときは、ほんの少し勇気を出して、この社会であなたという人間が生きていることを周囲に伝えてほしい。 伝える手段は何でもよい。具体的な行動をするエネルギーがないなら、今を生き延びるだけでいい。生きていれば、誰かがあなたの存在に気づくかもしれない。でも、あなたが死んだら、何も伝わらない。 社会は呆(あき)れるほどゆっくりとしか変わらない。それでも、誰かに生きづらさを押しつける社会を変えたくて、私は文章を書き続ける。私の言葉が小さな波紋となり、会ったこともないあなたと共鳴し合いながら、いつか社会を変える巨大な渦に合流することを願う。(障害当事者)

生きて、社会に抵抗せよ《電動車いすから見た景色》51

【コラム・川端舞】「生きるのは苦しい」。子どもの頃からずっと感じてきたが、なかなか表出できなかった言葉が堂々と書いてあることに、私は心底安堵(あんど)した。社会を変えたいと望みながら、本当の自分をさらけ出す勇気すらない私に、そっと寄り添ってくれるような言葉だ。 1995年生まれのライター、高島鈴さんの初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ―アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)。 高島さんは本書で、家父長制、異性愛規範、資本主義をはじめとする、弱い個人を追い詰める権力や差別を否定し、社会を変える働きかけ全てを「革命」と呼ぶ。「革命」と聞くと、行動力のある強い人がすることだと思いがちだが、著者によると、日常の中で自分を脅かすものに少しでも抵抗しながら生きることそのものがすでに革命への加担なのだ。 私は、世間のつくった「あるべき障害者像」を恨みながら、少しでもそれに近づこうとする自分が嫌いだ。窒息しそうなほど苦しいのに、誰かに褒められようと、笑顔で頑張る矛盾だらけの自分が大嫌いだ。そんな私に、「生きるのは苦しい」と断言しながら、それでも、たとえ布団から起き上がれなくても、今いる場所で生き延びることが「社会を変える力」だとする高島さんの言葉は響いた。 あなたという存在を伝えて 大げさなことはしなくてよい。家の近くの学校に、心地の良い服装で通う。ほしい情報を自分にとって分かりやすい方法で受け取る。周りから自分らしい名前で呼ばれる。愛し合った人と家族になる。そんな、あなたの望む生き方をすればいい。 しかし、この社会は、健常で、日本語が母語で、自分の性別に違和感がなく、異性愛で…、世間から見た「普通の人」しかいない前提でつくられている。そんな社会で自分という存在が無視されていると感じたときは、ほんの少し勇気を出して、この社会であなたという人間が生きていることを周囲に伝えてほしい。 伝える手段は何でもよい。具体的な行動をするエネルギーがないなら、今を生き延びるだけでいい。生きていれば、誰かがあなたの存在に気づくかもしれない。でも、あなたが死んだら、何も伝わらない。 社会は呆(あき)れるほどゆっくりとしか変わらない。それでも、誰かに生きづらさを押しつける社会を変えたくて、私は文章を書き続ける。私の言葉が小さな波紋となり、会ったこともないあなたと共鳴し合いながら、いつか社会を変える巨大な渦に合流することを願う。(障害当事者)

言語障害と「言葉」《電動車いすから見た景色》50

【コラム・川端舞】私は自分の気持ちを瞬間的に話すのが苦手だ。相手に伝えたいことがあっても、「本当に今、伝えるべきことなのか」「どんな言葉で伝えたら、分かりやすいか」「相手はどう反応するか」など、実際に言葉にする前に考え込んでしまう。 結果、伝えるタイミングを逃し、ひとりで苦笑いすることも多々ある。それでも、どうしても伝えたいときは、後日、「あのときの話なのですが…」と、終わった話を蒸し返すこともあり、周囲からすれば非常に面倒な人間だろうと思う。 子どもの時から言語障害とともに生きてきた影響もあるのだろう。ある程度、私とのコミュニケーションに慣れている人は、私が何かを話すと、一生懸命、私の不明瞭な発音を聞き取ろうとしてくれる。もちろん、それはうれしいし、私が人と話すために不可欠な配慮なのだが、数人で話している場合、周りがなかなか私の言葉を聞き取れないと、それまでスムーズに流れていた会話が、一旦(いったん)止まってしまう。 周りはそんなことを気にしないだろうとは思いつつ、自分の言いたいことは会話の流れを遮ってまで伝えるべきことなのか、無意識に考える自分がいる。 もちろん、「会話の流れを遮る」という発想自体が、「話す」「聞く」に障害のない人間を前提にしたもので、誰もが安心してコミュニケーションがとれる社会にするためには、「会話はスムーズに進めるべき」という考え自体を変える必要があることは頭では理解している。 だから、周りで流れるように進んでいる会話に割り込み、聞き返されるリスクを負ってまで、くだらないジョークを言える言語障害者を私は尊敬する。 無責任な言葉が多すぎる 日常会話ではそれほど自分の言葉に責任を持つ必要はないのかもしれない。だが、誰かを傷つける危険性のある言葉は別だ。特にSNS上では、責任の持たない言葉が多すぎる。 時に言葉は魔力を持つ。誰かの一言が、絶望しかけた人に「もう少し生きてみよう」と思わせることもあれば、無自覚の悪意から吐かれた一言が、世間の差別意識を増幅させ、生と死の狭間(はざま)で懸命に生き延びてきた人を、死の方向へ引っ張ってしまうこともある。その魔力に気づかないまま、無責任な言葉をばら撒(ま)いている人が多すぎる。 本来、SNSを含め、不特定多数の人に向けて発する言葉には責任が伴うはずだ。ライターの端くれとして、自分の言葉には責任を持ちたいと、誹謗(ひぼう)中傷が当たり前のように飛び交うネット社会の中で改めて思う。(障害当事者)

言語障害と「言葉」《電動車いすから見た景色》50

【コラム・川端舞】私は自分の気持ちを瞬間的に話すのが苦手だ。相手に伝えたいことがあっても、「本当に今、伝えるべきことなのか」「どんな言葉で伝えたら、分かりやすいか」「相手はどう反応するか」など、実際に言葉にする前に考え込んでしまう。 結果、伝えるタイミングを逃し、ひとりで苦笑いすることも多々ある。それでも、どうしても伝えたいときは、後日、「あのときの話なのですが…」と、終わった話を蒸し返すこともあり、周囲からすれば非常に面倒な人間だろうと思う。 子どもの時から言語障害とともに生きてきた影響もあるのだろう。ある程度、私とのコミュニケーションに慣れている人は、私が何かを話すと、一生懸命、私の不明瞭な発音を聞き取ろうとしてくれる。もちろん、それはうれしいし、私が人と話すために不可欠な配慮なのだが、数人で話している場合、周りがなかなか私の言葉を聞き取れないと、それまでスムーズに流れていた会話が、一旦(いったん)止まってしまう。 周りはそんなことを気にしないだろうとは思いつつ、自分の言いたいことは会話の流れを遮ってまで伝えるべきことなのか、無意識に考える自分がいる。 もちろん、「会話の流れを遮る」という発想自体が、「話す」「聞く」に障害のない人間を前提にしたもので、誰もが安心してコミュニケーションがとれる社会にするためには、「会話はスムーズに進めるべき」という考え自体を変える必要があることは頭では理解している。 だから、周りで流れるように進んでいる会話に割り込み、聞き返されるリスクを負ってまで、くだらないジョークを言える言語障害者を私は尊敬する。 無責任な言葉が多すぎる 日常会話ではそれほど自分の言葉に責任を持つ必要はないのかもしれない。だが、誰かを傷つける危険性のある言葉は別だ。特にSNS上では、責任の持たない言葉が多すぎる。 時に言葉は魔力を持つ。誰かの一言が、絶望しかけた人に「もう少し生きてみよう」と思わせることもあれば、無自覚の悪意から吐かれた一言が、世間の差別意識を増幅させ、生と死の狭間(はざま)で懸命に生き延びてきた人を、死の方向へ引っ張ってしまうこともある。その魔力に気づかないまま、無責任な言葉をばら撒(ま)いている人が多すぎる。 本来、SNSを含め、不特定多数の人に向けて発する言葉には責任が伴うはずだ。ライターの端くれとして、自分の言葉には責任を持ちたいと、誹謗(ひぼう)中傷が当たり前のように飛び交うネット社会の中で改めて思う。(障害当事者)

私の中に潜む差別《電動車いすから見た景色》49

【コラム・川端舞】街に出れば、たちまち私は差別される。面白そうなお店の入り口に数段の段差があったとき。私が話しているのに、相手が私の後ろにいる介助者ばかり見るとき。車椅子ユーザーで言語障害のある自分は、社会から存在を想定されていない人間なのだと感じる。 日常の中で、私は差別者になる。言葉での説明抜きに、SNSに写真を載せるとき、視覚障害者も私のSNSを閲覧する可能性を忘れている。肌の色が自分と違うという理由で、初対面の人に「どこの国の出身?」と話しかけるのは、外国に何らかのルーツはあるが、日本人としてずっと生きてきた人の存在をないものにしている。 異性愛前提の恋愛トークをするとき、異性愛以外の恋愛をする人や、恋愛感情を持たない人をいないものにし、初対面の人の性別を外見から勝手に判断するとき、男女という枠に当てはめられることに違和感を持つ人の存在を無視している。 存在を無視される痛みはよく知っているはずなのに、私も誰かを差別する。 怒りは対等な関係へのラブコール 韓国の社会学者キム・ジヘにより書かれた「差別はたいてい悪意のない人がする」(大月書店)は、障害者、性的少数者、非正規労働者などに向けられる、日常に潜むあらゆる差別を挙げながら、私たちは皆、差別する側にもされる側にもなると指摘する。 人は誰だって、「自分は差別などしていない」と思いたい。しかし、1人の人間の思考力には限界がある。いくら気をつけても、何気ない言動が誰かに疎外感を与え、差別に加担してしまう時が出てくる。 気を抜けば、私もすぐに差別者になる。何気ない一言が、誰かに言い知れぬ孤独感を与えてしまうかもしれない。大切なのは、自分の中にある差別性を誰かに指摘されたときに、素直に反省し、言動を改める努力をすることではないか。 その指摘をすることで、その場の空気や人間関係を壊してしまう可能性もある。それでもなお、なぜ相手は、時に怒りに震えながら、私の中の差別性を指摘してくるのか。その怒りは「あなたと対等な関係を築きたい」という妥協なきラブコールかもしれない。私を信頼し、伝えてくれたラブコールを、素直に受け止められる人間に私はなりたい。(障害当事者)

私の中に潜む差別《電動車いすから見た景色》49

【コラム・川端舞】街に出れば、たちまち私は差別される。面白そうなお店の入り口に数段の段差があったとき。私が話しているのに、相手が私の後ろにいる介助者ばかり見るとき。車椅子ユーザーで言語障害のある自分は、社会から存在を想定されていない人間なのだと感じる。 日常の中で、私は差別者になる。言葉での説明抜きに、SNSに写真を載せるとき、視覚障害者も私のSNSを閲覧する可能性を忘れている。肌の色が自分と違うという理由で、初対面の人に「どこの国の出身?」と話しかけるのは、外国に何らかのルーツはあるが、日本人としてずっと生きてきた人の存在をないものにしている。 異性愛前提の恋愛トークをするとき、異性愛以外の恋愛をする人や、恋愛感情を持たない人をいないものにし、初対面の人の性別を外見から勝手に判断するとき、男女という枠に当てはめられることに違和感を持つ人の存在を無視している。 存在を無視される痛みはよく知っているはずなのに、私も誰かを差別する。 怒りは対等な関係へのラブコール 韓国の社会学者キム・ジヘにより書かれた「差別はたいてい悪意のない人がする」(大月書店)は、障害者、性的少数者、非正規労働者などに向けられる、日常に潜むあらゆる差別を挙げながら、私たちは皆、差別する側にもされる側にもなると指摘する。 人は誰だって、「自分は差別などしていない」と思いたい。しかし、1人の人間の思考力には限界がある。いくら気をつけても、何気ない言動が誰かに疎外感を与え、差別に加担してしまう時が出てくる。 気を抜けば、私もすぐに差別者になる。何気ない一言が、誰かに言い知れぬ孤独感を与えてしまうかもしれない。大切なのは、自分の中にある差別性を誰かに指摘されたときに、素直に反省し、言動を改める努力をすることではないか。 その指摘をすることで、その場の空気や人間関係を壊してしまう可能性もある。それでもなお、なぜ相手は、時に怒りに震えながら、私の中の差別性を指摘してくるのか。その怒りは「あなたと対等な関係を築きたい」という妥協なきラブコールかもしれない。私を信頼し、伝えてくれたラブコールを、素直に受け止められる人間に私はなりたい。(障害当事者)

差別が根強い社会だから《電動車いすから見た景色》48

【コラム・川端舞】どの性を好きになるかという「性的指向」や、自分の性をどのように認識しているかという「性自認」を、本人が誰かに打ち明けることを「カミングアウト」と言い、誰かの性のあり方を本人の同意なく第三者に暴露することを「アウティング」という。 自身もゲイであることを公表しているライターの松岡宗嗣さんは「あいつゲイだってーアウティングはなぜ問題なのか?」(柏書房)で、アウティング問題の本質に迫っている。 この社会は、出生時に割り当てられた性と性自認が一致する「シスジェンダー」、異性の相手だけを好きになる「異性愛者」しかいないことを前提に、あらゆる制度や文化がつくられている。その人の性的指向や性自認は、本人にしか分からない。 そして、性のあり方は誰にとっても大切な個人情報なのだから、誰に伝えるかどうかは本人が決めればいい。それなのに、本人から性的少数者だと名乗らない限り、勝手に「シスジェンダー・異性愛者」だと決めつけられ、日常会話が進んでいく。 時には、その場に当事者はいないと思われ、性的少数者に対する差別的な発言を周囲から悪気なく浴びせられる。そんな社会だから、性的少数者にとってカミングアウトはとても勇気のいることで、アウティングは当事者から時に生きる気力をも奪うと、松岡さんは指摘する。 共通項は「社会モデル」 常に車いす姿の私を見れば、初対面の人でも、良くも悪くも、私を障害者だと認識し、私の前では障害者を傷つける発言は控えるだろう。だから、周囲から無意識に発せられる差別や偏見を空気のように吸わされる性的少数者の痛みは、おそらく私には分からない。 しかし、「多数派」とされる者たちが生きやすいようにつくられた社会で、そこから外れた者は自ら声を上げなければ、存在すら無視され、生きづらさを押しつけられる構造は、性的少数者も障害者も同じだ。 差別や偏見がある社会だから、アウティングが性的少数者の生死に直結する問題になるという松岡さんの指摘はまさに、障害者が生きづらいのは障害者個人のせいではなく、その存在を想定してつくられていない社会の仕組みに問題があるのだという「障害の社会モデル」と全く同じ考え方だ。本の中でも「社会モデル」が引用されている。 社会はそう簡単には変わらないし、異なる属性のマイノリティ同士が連帯して運動するのも容易なことではない。しかし、同じように社会の「当たり前」を変えていくなら、協力しないのはもったいないと私は思う。(障害当事者)

差別が根強い社会だから《電動車いすから見た景色》48

【コラム・川端舞】どの性を好きになるかという「性的指向」や、自分の性をどのように認識しているかという「性自認」を、本人が誰かに打ち明けることを「カミングアウト」と言い、誰かの性のあり方を本人の同意なく第三者に暴露することを「アウティング」という。 自身もゲイであることを公表しているライターの松岡宗嗣さんは「あいつゲイだってーアウティングはなぜ問題なのか?」(柏書房)で、アウティング問題の本質に迫っている。 この社会は、出生時に割り当てられた性と性自認が一致する「シスジェンダー」、異性の相手だけを好きになる「異性愛者」しかいないことを前提に、あらゆる制度や文化がつくられている。その人の性的指向や性自認は、本人にしか分からない。 そして、性のあり方は誰にとっても大切な個人情報なのだから、誰に伝えるかどうかは本人が決めればいい。それなのに、本人から性的少数者だと名乗らない限り、勝手に「シスジェンダー・異性愛者」だと決めつけられ、日常会話が進んでいく。 時には、その場に当事者はいないと思われ、性的少数者に対する差別的な発言を周囲から悪気なく浴びせられる。そんな社会だから、性的少数者にとってカミングアウトはとても勇気のいることで、アウティングは当事者から時に生きる気力をも奪うと、松岡さんは指摘する。 共通項は「社会モデル」 常に車いす姿の私を見れば、初対面の人でも、良くも悪くも、私を障害者だと認識し、私の前では障害者を傷つける発言は控えるだろう。だから、周囲から無意識に発せられる差別や偏見を空気のように吸わされる性的少数者の痛みは、おそらく私には分からない。 しかし、「多数派」とされる者たちが生きやすいようにつくられた社会で、そこから外れた者は自ら声を上げなければ、存在すら無視され、生きづらさを押しつけられる構造は、性的少数者も障害者も同じだ。 差別や偏見がある社会だから、アウティングが性的少数者の生死に直結する問題になるという松岡さんの指摘はまさに、障害者が生きづらいのは障害者個人のせいではなく、その存在を想定してつくられていない社会の仕組みに問題があるのだという「障害の社会モデル」と全く同じ考え方だ。本の中でも「社会モデル」が引用されている。 社会はそう簡単には変わらないし、異なる属性のマイノリティ同士が連帯して運動するのも容易なことではない。しかし、同じように社会の「当たり前」を変えていくなら、協力しないのはもったいないと私は思う。(障害当事者)

自分のことは自分で決める 《電動車いすから見た景色》47

【コラム・川端舞】前回のコラム(9月14日掲載)で、1970年代、旧・優生保護法の改正案に経済的理由による人工妊娠中絶の禁止が含まれたとき、フェミニズムの運動に関わる女性たちが主張した「産む・産まないは女が決める」という言葉を紹介した。この言葉は、「胎児に障害があれば中絶する」という障害者にとって恐ろしいメッセージにもなり、障害者と女性の対立を生んだ。 しかし、この言葉の根底にある「自分の体のことは自分で決める」という考えは、障害者運動にも通じるもののように思う。 前回も引用した荻野美穂の「女のからだ―フェミニズム以降」(岩波新書)によると、明治以降、中絶は犯罪とされてきたが、戦後の食糧難の中で、優生保護法が成立し、中絶を認める条件が大幅に緩和された。結果、中絶件数は急増し、出生率は低下した。しかし、高度経済成長期に入り、労働力不足が問題視され始めると、今度は国会で中絶を規制しようとする動きが出てくる。 人口政策のため、母胎に負担をかける妊娠・出産や、女性に負担が偏りがちな育児を、国が管理することに抵抗し、自分の体に対する女性の自己決定を尊重したものが、「産む・産まないは女が決める」という主張だった。 これは障害者運動が大切にしている「自分のことは自分で決める」ことにも通じるのではないか。長年、入所施設の中で生活リズムや外出機会などを他者に管理されてきた重度障害者が、施設を出て、必要な支援を受けながら、どこで誰とどんなふうに生きていくかを自分で決められるよう、介助者などの社会制度を整えてきたのが障害者運動だ。 自己決定が尊重され、誰もが自分らしく生きられる社会にしたいという原点に立てば、障害者運動と女性運動はもっと連携できるのではと、最近考える。 トランスジェンダーも同じ 「自分のことは自分で決めたい」のは、出生時に割り当てられた性別と性自認が一致しないトランスジェンダー当事者も同じだろう。 現行の法律では、戸籍上の性別を変更するためには生殖腺を取り除く手術をする必要がある。これは、自分らしい性で生きたいと願うトランスジェンダーに手術を事実上強制するもので、国連も日本に手術要件の撤廃を勧告している。手術を受けることで、自分らしく生きられると感じる当事者には、公的医療保険の中で受けられるようにすべきだが、本人が望まないのに、健康な身体を傷つけるよう求めるなど、絶対にあってはならない。 全ての人が、必要な情報提供や支援を受けつつ、自分のことは自分で決められる社会を、多様な人たちとともにつくっていきたい。(障害当事者)

自分のことは自分で決める《電動車いすから見た景色》47

【コラム・川端舞】前回のコラム(9月14日掲載)で、1970年代、旧・優生保護法の改正案に経済的理由による人工妊娠中絶の禁止が含まれたとき、フェミニズムの運動に関わる女性たちが主張した「産む・産まないは女が決める」という言葉を紹介した。この言葉は、「胎児に障害があれば中絶する」という障害者にとって恐ろしいメッセージにもなり、障害者と女性の対立を生んだ。 しかし、この言葉の根底にある「自分の体のことは自分で決める」という考えは、障害者運動にも通じるもののように思う。 前回も引用した荻野美穂の「女のからだ―フェミニズム以降」(岩波新書)によると、明治以降、中絶は犯罪とされてきたが、戦後の食糧難の中で、優生保護法が成立し、中絶を認める条件が大幅に緩和された。結果、中絶件数は急増し、出生率は低下した。しかし、高度経済成長期に入り、労働力不足が問題視され始めると、今度は国会で中絶を規制しようとする動きが出てくる。 人口政策のため、母胎に負担をかける妊娠・出産や、女性に負担が偏りがちな育児を、国が管理することに抵抗し、自分の体に対する女性の自己決定を尊重したものが、「産む・産まないは女が決める」という主張だった。 これは障害者運動が大切にしている「自分のことは自分で決める」ことにも通じるのではないか。長年、入所施設の中で生活リズムや外出機会などを他者に管理されてきた重度障害者が、施設を出て、必要な支援を受けながら、どこで誰とどんなふうに生きていくかを自分で決められるよう、介助者などの社会制度を整えてきたのが障害者運動だ。 自己決定が尊重され、誰もが自分らしく生きられる社会にしたいという原点に立てば、障害者運動と女性運動はもっと連携できるのではと、最近考える。 トランスジェンダーも同じ 「自分のことは自分で決めたい」のは、出生時に割り当てられた性別と性自認が一致しないトランスジェンダー当事者も同じだろう。 現行の法律では、戸籍上の性別を変更するためには生殖腺を取り除く手術をする必要がある。これは、自分らしい性で生きたいと願うトランスジェンダーに手術を事実上強制するもので、国連も日本に手術要件の撤廃を勧告している。手術を受けることで、自分らしく生きられると感じる当事者には、公的医療保険の中で受けられるようにすべきだが、本人が望まないのに、健康な身体を傷つけるよう求めるなど、絶対にあってはならない。 全ての人が、必要な情報提供や支援を受けつつ、自分のことは自分で決められる社会を、多様な人たちとともにつくっていきたい。(障害当事者)

敵対関係から、ともに闘う仲間へ《電動車いすから見た景色》46

【コラム・川端舞】今、女性団体と障害者団体の共闘の歴史を調べている。1972年、母体保護法の前身である優生保護法において、重度障害がある胎児の中絶を認める改正案が国会に上程された。だが、女性団体と障害者団体が反対し、法改正は阻止された。 女性の社会運動であるフェミニズムの歴史を解説した荻野美穂の「女のからだ―フェミニズム以降」(岩波新書)によると、当時の改正案には経済的理由による中絶の禁止も含まれ、当初、フェミニズムの運動に関わる女性たちは、「産む・産まないは女が決める」という「中絶の権利」を主張し、中絶の禁止に反対した。これに対し、障害者たちは「胎児に障害があれば、中絶するのか」と厳しく問うた。 昨年出版されたフェミニズム入門書「シモーヌVOL.7」(現代書館編集)では、当時、障害者団体側であった横田弘と、女性団体側であった志岐寿美栄が書いた文章を掘り起こし、女性と障害者が互いに葛藤を抱えながらも、共闘関係になっていく過程を特集している。 「胎児の障害の有無により、中絶するかを決めるのは、今生きている障害者をも否定する」「障害児を産んだだけで、女性は社会から冷たい目を向けられ、我が子を殺してしまうまで追い詰められる」という血を吐くような両者の葛藤の末、実は互いを苦しめているのは今の社会構造だと思い至り、社会を変えるべく共闘していった。その結果、優生保護法の改正は阻止されたのだった。 マイノリティを苦しめる正体 現在、母体保護法では、胎児の障害を直接的な理由とする中絶は認められていないが、出生前診断で障害があると判定された胎児の多くは、「身体的理由又は経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れがある」として中絶されている。 障害児として生まれた私は、どうしても障害のある胎児に感情移入し、中絶する女性に敵意を向けてしまいたくなる。しかし、障害児者はいないことを前提に多くの建物や制度が作られ、健常児の育児さえ、女性だけに負担を強いる社会を考えると、苦悩の末に障害のある胎児を中絶する女性だけを責めることはできない。 「障害児の誕生は避けるべき」「育児は女性がやるべき」という圧力で、女性の社会進出や障害者の生きる価値を否定し続ける社会を変えていきたい。この社会は多数派が都合のよいように作られている。現在もマイノリティ集団同士が敵対してしまっている現象が至る所で起きているが、彼らに生きづらさを押しつけているのは誰なのか、冷静に考えたい。(障害当事者)

敵対関係から、ともに闘う仲間へ 《電動車いすから見た景色》46

【コラム・川端舞】今、女性団体と障害者団体の共闘の歴史を調べている。1972年、母体保護法の前身である優生保護法において、重度障害がある胎児の中絶を認める改正案が国会に上程された。だが、女性団体と障害者団体が反対し、法改正は阻止された。 女性の社会運動であるフェミニズムの歴史を解説した荻野美穂の「女のからだ―フェミニズム以降」(岩波新書)によると、当時の改正案には経済的理由による中絶の禁止も含まれ、当初、フェミニズムの運動に関わる女性たちは、「産む・産まないは女が決める」という「中絶の権利」を主張し、中絶の禁止に反対した。これに対し、障害者たちは「胎児に障害があれば、中絶するのか」と厳しく問うた。 昨年出版されたフェミニズム入門書「シモーヌVOL.7」(現代書館編集)では、当時、障害者団体側であった横田弘と、女性団体側であった志岐寿美栄が書いた文章を掘り起こし、女性と障害者が互いに葛藤を抱えながらも、共闘関係になっていく過程を特集している。 「胎児の障害の有無により、中絶するかを決めるのは、今生きている障害者をも否定する」「障害児を産んだだけで、女性は社会から冷たい目を向けられ、我が子を殺してしまうまで追い詰められる」という血を吐くような両者の葛藤の末、実は互いを苦しめているのは今の社会構造だと思い至り、社会を変えるべく共闘していった。その結果、優生保護法の改正は阻止されたのだった。 マイノリティを苦しめる正体 現在、母体保護法では、胎児の障害を直接的な理由とする中絶は認められていないが、出生前診断で障害があると判定された胎児の多くは、「身体的理由又は経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れがある」として中絶されている。 障害児として生まれた私は、どうしても障害のある胎児に感情移入し、中絶する女性に敵意を向けてしまいたくなる。しかし、障害児者はいないことを前提に多くの建物や制度が作られ、健常児の育児さえ、女性だけに負担を強いる社会を考えると、苦悩の末に障害のある胎児を中絶する女性だけを責めることはできない。 「障害児の誕生は避けるべき」「育児は女性がやるべき」という圧力で、女性の社会進出や障害者の生きる価値を否定し続ける社会を変えていきたい。この社会は多数派が都合のよいように作られている。現在もマイノリティ集団同士が敵対してしまっている現象が至る所で起きているが、彼らに生きづらさを押しつけているのは誰なのか、冷静に考えたい。(障害当事者)

トランスジェンダーの友人と語る教育《電動車いすから見た景色》45

【コラム・川端舞】来月、あるイベントで、高校時代の友人と対談する。友人は、出生時に割り当てられた性は女性だが、男性として生きるトランスジェンダー男性だ。高校卒業後10年以上たってから再会し、互いの子ども時代を語り合う中で、今の学校で障害児やLGBTQの子どもたちが過ごしづらいのは、多様な子どもたちがいることを前提に学校がつくられていないからではと感じた。 障害者とトランスジェンダーが教育について一緒に話すことで、今の学校が抱える根本的問題が見えてくるのではと思い、今回のイベントを企画した。 公の場で友人と話すのなら、トランスジェンダーに対する基礎知識は持っておきたいと、書籍を複数購入した。一言に「トランスジェンダー」と言っても、当然、全く同じ人間は存在しないし、差別をより受けやすいトランスジェンダー女性の経験は、トランスジェンダー男性とはまた違う部分もあるはずだから、過度な一般化はせずに、できるだけ冷静に読んでいきたいと思う。 しかし、読み進めるうちに、「この部分は、友人はどうなのだろう」と、無意識に友人との対比で考えてしまう。そんな自分に気づき、苦笑する。子どもの頃、同じ学校に運動障害のある子どもは自分1人だけという環境で育ち、周囲から「理想の障害児」像を押しつけられることに辟易(へいえき)していたのに、同じことを友人にやっているのではないか。 互いのしんどさを同じ俎上に載せる 一方、私にとって一番身近なトランスジェンダーは友人だ。実際のトランスジェンダーが生きているのは、本やテレビの中ではなく、私たちが暮らす現実世界だ。友人が普段、身近で経験する差別について知り、そんな社会を一緒に変えていきたいから、差別を生み出す社会構造について本で勉強する。これは間違ったことではないのかもしれない。 トランスジェンダーは人口の0.7パーセントほどしかおらず、出会ったことがないと思っている人も多いだろう。しかし、全校生徒300人の学校なら2人はトランスジェンダーの生徒がいる計算だ。男女に分けるのが当然とされる学校で、見えなくさせられているだけだ。かつて、重度障害児として普通学校で育った私が、障害児がいない前提で進められる授業の中で、必死に自分という存在を消していたように。 もちろん、友人はトランスジェンダーの代表でなければ、私は障害者の代表でもない。ただ、子ども時代に互いが感じていたしんどさを同じ俎上(そじょう)に載せることで、今の学校にある課題が見えてくるはずだ。(障害当事者)

トランスジェンダーの友人と語る教育《電動車いすから見た景色》45

【コラム・川端舞】来月、あるイベントで、高校時代の友人と対談する。友人は、出生時に割り当てられた性は女性だが、男性として生きるトランスジェンダー男性だ。高校卒業後10年以上たってから再会し、互いの子ども時代を語り合う中で、今の学校で障害児やLGBTQの子どもたちが過ごしづらいのは、多様な子どもたちがいることを前提に学校がつくられていないからではと感じた。 障害者とトランスジェンダーが教育について一緒に話すことで、今の学校が抱える根本的問題が見えてくるのではと思い、今回のイベントを企画した。 公の場で友人と話すのなら、トランスジェンダーに対する基礎知識は持っておきたいと、書籍を複数購入した。一言に「トランスジェンダー」と言っても、当然、全く同じ人間は存在しないし、差別をより受けやすいトランスジェンダー女性の経験は、トランスジェンダー男性とはまた違う部分もあるはずだから、過度な一般化はせずに、できるだけ冷静に読んでいきたいと思う。 しかし、読み進めるうちに、「この部分は、友人はどうなのだろう」と、無意識に友人との対比で考えてしまう。そんな自分に気づき、苦笑する。子どもの頃、同じ学校に運動障害のある子どもは自分1人だけという環境で育ち、周囲から「理想の障害児」像を押しつけられることに辟易(へいえき)していたのに、同じことを友人にやっているのではないか。 互いのしんどさを同じ俎上に載せる 一方、私にとって一番身近なトランスジェンダーは友人だ。実際のトランスジェンダーが生きているのは、本やテレビの中ではなく、私たちが暮らす現実世界だ。友人が普段、身近で経験する差別について知り、そんな社会を一緒に変えていきたいから、差別を生み出す社会構造について本で勉強する。これは間違ったことではないのかもしれない。 トランスジェンダーは人口の0.7パーセントほどしかおらず、出会ったことがないと思っている人も多いだろう。しかし、全校生徒300人の学校なら2人はトランスジェンダーの生徒がいる計算だ。男女に分けるのが当然とされる学校で、見えなくさせられているだけだ。かつて、重度障害児として普通学校で育った私が、障害児がいない前提で進められる授業の中で、必死に自分という存在を消していたように。 もちろん、友人はトランスジェンダーの代表でなければ、私は障害者の代表でもない。ただ、子ども時代に互いが感じていたしんどさを同じ俎上(そじょう)に載せることで、今の学校にある課題が見えてくるはずだ。(障害当事者)

結婚式への参列に思うこと《電動車いすから見た景色》44

【コラム・川端舞】今月末、親戚の結婚式に参列するため、故郷の群馬に帰省する。式に着ていく服を探すため、介助者と一緒にショッピングモールに行った。介助者に手伝ってもらい、いくつかドレスを試着し、気に入ったものをレンタルする。店員とのやりとりも、契約書類への記入も介助者に手伝ってもらった。 帰り道に駅に寄り、群馬までの新幹線の切符を購入。結婚式当日は、別の介助者と一緒に群馬に行き、一泊して帰ってくる予定だ。 帰省する準備をしながら、ふと考える。今の私が、自分らしい生活ができているのはなぜか。公的な介助制度も、バリアフリーな駅もほとんどなかった時代から、自分で介助者を集めて一人暮らしをし、体を張って、公共交通機関のバリアフリーを求めた障害者たちがいたからだ。 彼らが闘ってこなかったら、私は介助者と一緒に、ショッピングモールに行くことも、群馬に帰省することもできなかっただろう。それをありがたいと感じる一方、重度障害者が支援を受けながら、一人暮らしをしたり、外出することは、もっと当たり前のこととして認識される必要があるとも思う。 障害者たちが必死に闘って求めてきたものは、特別なものではなく、本来なら最初から持っているべき人間としての当たり前の権利なのだ。 心待ちにしているもう一つの結婚式 今の社会で、重度障害者が一人暮らしをすることが当たり前だとは見なされていないように、どんなに愛し合っても、家族になることを権利として認められていない人たちがいる。 友人とパートナーはもう何年も一緒に暮らし、本来ならいつ結婚してもおかしくない。しかし、2人は戸籍上の性別が同じであるため、今の法律では婚姻届を出せない。 法律が変わり、婚姻届を提出できたら、挙式するそうだ。式の招待状が来るのを、私は心待ちにしている。一方で、そもそも、戸籍上、異性同士の2人なら、互いの同意のもと婚姻届を提出すれば家族になれるのに、なぜ同性同士だと、その権利が認められないのか。 2人が無事に婚姻届を提出できた日、おそらく私は心の底から2人を祝福するだろう。ただ、それは決して特別なことではなく、人間として当たり前の権利が認められただけであることを覚えておかないとならない。 「他の人と同じ権利を行使するのが、なぜこんなにも大変なのだろうか」。そんなことを考えながら、群馬に帰省する。(障害当事者)

結婚式への参列に思うこと《電動車いすから見た景色》44

【コラム・川端舞】今月末、親戚の結婚式に参列するため、故郷の群馬に帰省する。式に着ていく服を探すため、介助者と一緒にショッピングモールに行った。介助者に手伝ってもらい、いくつかドレスを試着し、気に入ったものをレンタルする。店員とのやりとりも、契約書類への記入も介助者に手伝ってもらった。 帰り道に駅に寄り、群馬までの新幹線の切符を購入。結婚式当日は、別の介助者と一緒に群馬に行き、一泊して帰ってくる予定だ。 帰省する準備をしながら、ふと考える。今の私が、自分らしい生活ができているのはなぜか。公的な介助制度も、バリアフリーな駅もほとんどなかった時代から、自分で介助者を集めて一人暮らしをし、体を張って、公共交通機関のバリアフリーを求めた障害者たちがいたからだ。 彼らが闘ってこなかったら、私は介助者と一緒に、ショッピングモールに行くことも、群馬に帰省することもできなかっただろう。それをありがたいと感じる一方、重度障害者が支援を受けながら、一人暮らしをしたり、外出することは、もっと当たり前のこととして認識される必要があるとも思う。 障害者たちが必死に闘って求めてきたものは、特別なものではなく、本来なら最初から持っているべき人間としての当たり前の権利なのだ。 心待ちにしているもう一つの結婚式 今の社会で、重度障害者が一人暮らしをすることが当たり前だとは見なされていないように、どんなに愛し合っても、家族になることを権利として認められていない人たちがいる。 友人とパートナーはもう何年も一緒に暮らし、本来ならいつ結婚してもおかしくない。しかし、2人は戸籍上の性別が同じであるため、今の法律では婚姻届を出せない。 法律が変わり、婚姻届を提出できたら、挙式するそうだ。式の招待状が来るのを、私は心待ちにしている。一方で、そもそも、戸籍上、異性同士の2人なら、互いの同意のもと婚姻届を提出すれば家族になれるのに、なぜ同性同士だと、その権利が認められないのか。 2人が無事に婚姻届を提出できた日、おそらく私は心の底から2人を祝福するだろう。ただ、それは決して特別なことではなく、人間として当たり前の権利が認められただけであることを覚えておかないとならない。 「他の人と同じ権利を行使するのが、なぜこんなにも大変なのだろうか」。そんなことを考えながら、群馬に帰省する。(障害当事者)

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