【コラム・奥井登美子】「空が光って、変な大きな音がして、怖かった」。テレビニュースで、ロシア軍に攻撃され、地下壕に逃げたウクライナの子供のつぶやきを聞き、涙が出そうになってしまった。77年前の日本でも、同じようなことが起こった。今はみんな忘れて、まるで違う世界の出来事みたいに思っている。

私が小学校6年生のときだった。夏休みの間に、東京の小学3~6年生はどこかに疎開しなければいけないという命令が下りた。親戚の家に疎開するのが縁故疎開。学校ぐるみ疎開するのが学童疎開。クラスはバラバラになってしまう。

私が通っていた小学校は成績順にクラス分けされ、1番組の男子は都立3中(今の両国高校)、同女子は都立7女(今の小松川高校)を目指して勉強していた。「クラスはバラバラになるけれど、来年3月の受験日には帰ってくるから、そのよき皆で会おう」。誰かが言い出して、再会を約束して別れた。

東京大空襲に遭った学友たち

私は学童疎開で湯の浜温泉(山形県)に疎開したが、食べる物がなくてお腹が空いて、お手玉の中のアズキを食べていた。父に「縁故疎開に切り替えてほしい。迎えに来て」と手紙を書いたが、先生の検閲に引っかかり、取り上げられてしまった。

友だちが熱を出したが、医者に薬を取りに行く人がいない。先生に頼まれて、薬を取りに行くとき、父への手紙をポストに投函した。昭和19年の秋、私は父の友だちのご縁で、長野県の下伊那に疎開できた。

さて、翌20年3月の受験は12日。疎開の人たちはその3日前に東京に帰るという。私も帰って都立中を受験したかったが、父が許してくれなかった。

3月10日。東京大空襲。6年生の受験者は9~10日に東京に帰った。偶然だが、まるで大空襲に遭うために帰るような形になった。現両国高・小松川高の範囲、錦糸町駅~亀戸駅の辺りに、家は一軒も残っていなかった。(随筆家、薬剤師)