【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

あこがれの水戸をたずね、あこがれの水戸学の師と面談した吉田大次郎(のちの松陰)だったが、昼間から酒を飲み歓談する水戸の気質に、どうも馴染めない。会澤正志斉を何回か訪ねるが、交わりは深まらず感激にほど遠い。

水戸ではむしろ、ともに水戸をめざそうと江戸から出立してきた宮部鼎蔵や安芸五蔵との交友を深めてゆく。もともと、これらの友との盟約を守るために脱藩までしてきた大次郎であった。水戸を拠点に常陸国の沃野を遍歴する旅は、いつも三人連れになる。

三人が常陸をめざした理由のひとつに、安芸五蔵の仇討ちをサポートする目標があった。大次郎は、少年のように安芸五蔵に心酔している。(こんないい人は、いない)

大次郎は、今回の紀行を記した「東北遊日記」に、熱血漢安芸五蔵を長々と紹介している。

「安芸は故あり、姓名を変じ郷貫(きょうかん:郷土の戸籍)を詐(いつは)り、芸人那珂弥八と称す。弥八の先は江戸但馬守にして、実に那珂彦五郎より出づれば、…、那珂は常陸の郡名、而して江戸は那珂の村名なり。弥八の先は常陸に大をなし、彦五郎は南朝の王事に死す。…」まだまだ、続く。

対照的に、あれほど憧れたはずの会澤正志斉の人物紹介は、まったく残されていない。「午後、二子(宮部と安芸のふたり)と会澤を訪ふ」とあるくらいの素気ないあつかい。松陰流感激のかけらも残っていない。

そして大次郎たち三人は、およそ一ヶ月、常陸国各所を遊歴したのち東北へむかう。いよいよ安芸五蔵が挑む仇討ちを手助けする旅立ちだった。

「仇討ちはひとりでやる」

七日後、白河の宿へはいった。

ここで大次郎は安芸五蔵からあっさりと、「仇討ちは、ひとりでやる。他藩士の援助をうけたとあれば、武士道がすたる」と、もっともらしい理由で拒絶され、「明日からは分かれて、別の道を歩もう」と同行さえ断られる。

白河宿は、一転、「別離の席」となる。それぞれは、別れを惜しみ、号泣する。安芸もまた泣くが、安芸は、はるかに「大人」だった。腹のなかの「あっかんべえ」が見え透いている。

白河で大次郎たちと別れた後の安芸は、敵討ちをせずに姿を消してしまう。

後日、安芸の失踪を知った大次郎は、ここでも、「我に軽信の癖あり」と自省する。その後大次郎は、安芸について二度と語ることはなかった。大次郎の人物眼の稚拙さが、はからずも浮き彫りになった白河宿の別離だった。

ちなみに、もうひとりの宮部鼎蔵。宮部とも別の道を歩み、宮部は後年、有名な京都池田屋の変で新撰組に惨殺される。松陰斬首の後のこと。(作家)

➡広田文世さんのノベル既出はこちら