金曜日, 4月 19, 2024
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洞峰公園の隣「ウエストハウス本店」 《ご飯は世界を救う》48

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【コラム・川浪せつ子】つくば市二の宮の「ウエストハウス」と言えば、誰でもご存知の老舗洋食屋さん。洞峰公園の駐車場に隣接。1982年創業、なんと40周年だそうです。昔ながらの、皆さんに愛される洋食もですが、なんといっても、スイーツがすごい! 季節のフルーツを、ふんだんに使って。

バナナ、イチゴ、マンゴー、メロン、スイカ。そして、秋にはクリ。今までに、いくつ食べたかしら。それに、すんご~い、パフェもあります。

それが、「ビックリサンダーマウンテン」。これ、2回食したことがあります。高さ60センチ。10人前で、テレビでも何度か紹介されました。最近は、それを超えちゃう「シンデレラパフェ」というパフェも、出現したそうな。高さ120センチ!

10数年ほど前には、いろんな、パフェ、スィーツを、食べて、食べて…、描いて、描いて…。その結果は…。今は、泣く泣く封印しています。

「NEWSつくば」の前身、常陽新聞の2011年8月4日付に、「ビックリサンダーマウンテン」の絵とコラムを掲載したこともありました。

平和に食事ができることに感謝

ご無沙汰していたなぁ~と、最近、久しぶりに、ランチに寄ってみました。懐かしい味。洞峰公園+ランチの雰囲気にピッタリの家族連れ。我が家のドタバタ息子たちとは違い、どの子もお利口さんに食べています。

若いご夫婦、ちょっと大変そうだけど、幸せ感イッパイ。こうやって、家族で平和に食事ができることに感謝。いつまでも、この平穏な暮らしが続きますように。(イラストレーター)

キャンプとケロリン屋 《続・平熱日記》111

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【コラム・斉藤裕之】久しぶりに、瀬戸内海に浮かぶ粭(すくも)島からの便り。橋で陸続きのこの小さな島の「ホーランエー食堂」を切り盛りするのは、自らを「タコ店主」と呼ぶご主人。昨年ここで作品を並べようかと思っていたのだけれど、コロナ禍で延期になってしまって…。

お店の急な階段で、屋根裏のような2階に上がると、穏やかな鼓ヶ浦(つづみがうら)、そして山の頂に立つ精蝋(せいろう)会社のレンガの煙突が見える座敷がある。ここに近ごろ、タコ店主さんの高校生の息子さんの友人たちが泊まりに来ると言う。

ところで、昨今人気の高まるキャンプ。かび臭いテントの時代を知る私としては、至れり尽くせりの道具や施設の、言ってみれば道楽ぶりにやや呆れているのだが、果たしてこれが文化として根付くのだろうか。

粭島の手前に黒髪(くろかみ)島という島がある。御影石の採石場があって、大阪城の石垣にも使われたそうだ。

小学校のとき、実家の2階に若いご夫婦が住んでいた。おじさん(ご主人)はこの採石場で働いていて、小さなモーターボートを持っていた。ある日、おじさんは弟と私を黒髪島でのキャンプに誘った。素潜(すもぐ)りで獲ったサザエを焼いて食べたり、ロープにベニヤ板をつけたものにつかまり立ちをして、それをモーターボートで引っ張ってもらう水上スキー?は最高に楽しかった。

小さな入り江にテントを張って寝ていたら、「起きろ!」と言われて、気が付いたら波がテントのすぐそばまで来ていて、夜中に慌ててテントを移動したっけ。それから「買い物行ってくる」と言って、おじさんはボートではるか向かいに見える大津島まで出かけて行ったのを覚えている。

「Wi-FiもTVもないのがええ」

この大津島には巡航船が出ていて、友達とよく釣りに出かけた。人間魚雷「回天」の基地があったことでも知られているが、船着き場には大きなクロダイが悠々と泳いでいるのが見え、川エビをえさに岸壁を探ると、メバルが面白いように釣れた。

ある時、この波止場のすぐ近くに、1軒の店があるのに気付いた。店の名前は「ケロリン屋」。「ラーメン百円」とあったので注文すると、インスタントの袋麺にお湯を注いで渡された。子供心に「恐るべし、ケロリン屋」と思った。そして、あの日モーターボートでおじさんが買い物に来たのも、ケロリン屋だったのだと確信した。

さて、粭島のすぐ東隣には細長い大きな島。水戸一高を舞台にした「夜のピクニック」を撮った、長澤雅彦監督の最新作「凪(なぎ)の島」のロケ地になったという「笠戸島」だ。この島のキャンプ場に、海パンとヤス(魚を突く道具)を持って、自転車で親友の小池君と向かったのは、そういえば高校生の時だったか。

タコ店主さん曰く「Wi-Fiもテレビもないのがええみたい」。ホーランエー食堂の2階への階段は、高校生にとって大人の階段? 波の音しかしない夜、多分、話していることは私が高校生のころと何も変わりないと思うが…。(画家)

「3つの公園」問題と流れ者 《映画探偵団》56

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【コラム・冠木新市】今、つくば市に「3つの公園」問題が起きている。1つめは「洞峰公園」のリニューアル問題をめぐる、大井川県知事と五十嵐市長の対立。 市民団体が結成され、県に協議会設置を求める署名用紙が区会を通じ私の所に送られて来た。明確に反対を主張していないので、パスした。

2つめは「高エネ研跡地をめぐる運動公園」問題。7年前に反対署名してから推移を見守ってきたが、市は迷走を続け、大多数の市民が一括売却反対なのに、市議会は賛否を問うことなく、民間企業に売却を進めようとしている。

3つめはセンタービル内の施設「co-en」問題。比較は不幸の始まりとは知りながらも、「誰でも通れる通路」を歩くと、旧アイアイモールの広くて頑丈な作りを思い返してしまう。通路は大学の廊下みたいな印象で、「会議室」や「コワーキングスペース」が教室に見える。

また、「カフェ」は大学食堂の趣で、若い人や若者気分の大人たちには心地よい空間だろう。通路両脇に波打つ「小上り」だが、以前のベンチのように気楽には座れない。人を会場内に寄せつけない仕掛けなのかもしれない。

大問題なのは、ビル内から広場への出入口が閉じられ、特別会員やイベント関係者しか利用できなくなってしまったことだ。普通の市民の出入口はカフェ側にあるが、お客の間を通るので気兼ねする。 昨年、「つくばセンター研究会」でデータを取ったが、ここが一番人の動きの多い出入口であった。「誰でも通れる出入口」に戻すべきである。

通路からホテルへは一直線につながり、ロビーにモンローチェア2脚が飾られ、説明文と手を触れないでくださいとのプレートが置かれていた。

『つくばセンタービル謎解きツアー』で「そのうち座れなくなりますよ」と予言したが、ようやく文化財として認知されたようだ。五十嵐市長の「意匠を大事に」との口癖の効果が表れた。すごい実績である。できれば、子どもたちの遊び場で、長い間放ったらかしになっている水景の、外れた石段を直してもらいたいものだ。

渡哲也主演の『東京流れ者』

そんなこんなで通路を通るうちに、ここは映画スタジオのセットではないかと思えてきた。

1960年代に、よく分からない映画を作ると言われた鈴木清順監督が日活からクビになった。今では世界的に評価を受けているが、当時はセット美術の木村威夫とコンビを組み、次々に奇妙な野心作を作り、大学生に熱狂的に支持された。私は清順作品の中でも『東京流れ者』(1966)が好きで、繰り返し見た。

やくざから堅気になった倉田が所有する倉田ビルを奪おうと、大塚組が謀略をめぐらし、倉田組の不死鳥の哲(渡哲也)を痛めつけ、反応をうかがう。

義理人情を重んじる不死鳥の哲は倉田を信じ我慢するが、大塚組の罠(わな)にハマった倉田は「哲を殺れ」と指示を出す。裏切られた哲が倉田の運営するクラブ「アルル」に乗り込み、白い壁際沿いの狭い通路やってくる。哲は、寝返った倉田に「それが親分という者の正体だったのか、サカヅキは返すぜ!」と絶縁宣言する。

こう書くと、ただのやくざ映画にしか思えないだろうが、奇妙なカット割り演出と赤や黄色の照明で安っぽいセットを面白く見せ、ポップな仕上がりなのである。

中でも、クラブの壁際沿いの通路が「co-en」の感じと似ている。『東京流れ者』に夢中になった当時の大学生は、現在80代だ。「co-en」をどう見るだろうか。いや、東京からつくばに流れて来た新住民は、「3つの公園」問題に何を感じるのか。

今、つくば市民は「3つの公園」問題に巻き込まれている。問題の根は深く、「筑波研究学園都市」が誕生して以来、つくば市は史上最大の岐路に立っている。不死鳥の哲が、つくばに流れて来る日も近い。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

地方の企業が絶対にやってはいけないこと 《地方創生を考える》23

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ダイヤモンド筑波

【コラム・中尾隆友】先日、つくば市において、近隣の企業経営者や市町村幹部の方々に対して、「2020年代における企業の経営戦略」という題目で講演をさせていただいた。要約すると、以下の通りとなる。

これから、日本には3つの大きな波、すなわち、「人口減少」「デジタル化」「脱炭素化」の波が訪れる。

1つ目の人口減少については、日本の2045年の人口は2015年と比べて16.2パーセント減少するのに対して、茨城県は23.4パーセント減少とかなり大きい。TX(つくばエクスプレス)沿線を中心に人口が増える県南地域と、人口が激減する県北地域の、2極化が進む見通しだ。人口減にどう対応していけばいいのか? 今から考えておく必要がある。

2つ目に、日本では人手不足が進む中で、デジタル化によって効率性を上げなければならない。しかし地方は、大都市圏よりも中小零細企業の割合が多く、デジタル化が遅れがちだ。企業の商品・サービスの商圏を広げる上でも、地方の企業こそ創意工夫をしてデジタル化を進めるべきだ。

3つ目の脱炭素化は、環境にとって必要不可欠だが、企業にとっては大きな負担となる。特に日本は、脱炭素化の国際的ルール作りにうまく関わることができていないので、長期的に見て、国際競争で不利になる可能性が高い。加えて、脱炭素化に関連する法律や商慣習が固まってくるのはまだ先のことで、不確実性が大きい。

自分が成長できるか」「やりがいがあるか」

これら3つの流れを踏まえた上で、経営者が最もやってはいけないのは、根性や気合いといった、マンパワーに依存することだ。従業員が疲弊し、採用ができなくなってしまうからだ。地方ではこの手の経営が多いので注意が必要だ。

とりわけ、今の若者は、仕事に対して「自分が成長できるか」「やりがいがあるか」を重視する。優秀な人材ほど、この傾向が強い。その意味では、若者に仕事の裁量権をある程度与えたうえで、モチベーションを引き上げたり、下からの意見を吸い上げたりする仕組みをつくることが求められる。

近年、野村ホールディングスや電通といった業界最大手の企業でさえ、マンパワー依存の経営に頼り過ぎたために、危機の一歩手前まで追い込まれた。企業の価値は「最後は人」になる。経営者にとって重要なのは、国や自治体のアシストを受けながら、デジタル化が進んでも職を失わない、スキルを持つ人材を育てることだ。(経営アドバイザー)

サイクリング事始め《夢実行人》9

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【コラム・秋元昭臣】友人から譲リ受けたママチャリのスポーツタイプは車齢25歳超の貴重品です。ヨット仲間の友人が毎月15回も、「つくば霞ケ浦りんりんロード」の土浦~岩瀬を自転車に乗っていると聞き、私もやる気が出ました。

サイクリングを始めた昨年5月は、土浦~筑波休憩所の片道20キロ。これは土浦~岩瀬の半分です。ある日調子がよかったので、終点の岩瀬まで完走。その後は、筑波、真壁、雨引休憩所で休んで、岩瀬休憩所で折り返しています。

多少風が吹いても、往復80キロを5時間で走れるようになりました。坂道は、上れば下りますが、行きが向かい風だから帰りが追い風とは限りません。自然の気まぐれは「本職」のヨットと同じですから、最近は風を楽しんでいます。

友人の話では「マイペースが一番」とのこと。それがわかるまでの1年間、「尻が痛い」「腕が痛い」「手がしびれる」「肩がこる」「足がパンパン」などを経験。ベテランのアドバイスでサドル高さを調整したり、姿勢やこぎ方を変えて改善しました。

「暴走老人」と言われながら

転倒、パンク、チェーン切れ、タイヤバースト、サドル金物破損などもありましたが、一つ一つ、自転車屋さんの指導を受けました。工具も持つようになり、前後輪が同時パンクしたときは、パンク修理を楽しみながらやりました。

着るものも、夏の暑さは何とかなりましたが、真冬の手指やつま先の冷たさには苦戦。手袋はミントの下に毛糸のもの。靴下は2枚で対応しましたが、15キロ先の小田休憩所でようやく温もりが。首にはネックウォーマー。体は薄くて軽いカッパで、冷えないように。

夏はペットボトル3本飲んでも、汗をかき、WCいらず。しかし冬は、1本でも飲んだ分は出てしまいました。これでわかったことは、体幹の温度調節は下半身でできること。

手の指が暖まるのは最後ですが、そこを温めたり冷やすことは効果があります。夏は水に浸したタオルを首に巻き、軍手には水をかけました。冷たい手で顔を拭うのは快感です。

皆さんには「暴走老人」との言われましたが、「つくば霞ケ浦りんりんロード」が、サイクリング、ランニング、ウォーキング、通勤通学、生活道路などとして役立っていることも実感しました。(元ラクスマリーナ専務)

魅力的なアイルランド音楽 つくばソトカフェにて《遊民通信》42

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【コラム・田口哲郎】

前略

5月15日、つくば駅そばの「トナリエ」に用事があり、帰りにセンター広場のソトカフェでコーヒーを飲んでいたら、心地よい音楽が聞こえてきました。「音の宝箱つくば2022春」という音楽イベントが行われていたのです。音楽家が野外で美しい音を奏でるというもの。センター広場は広いペデストリアンデッキより低いところがあり、そこで演奏されるので、音が広場全体によく響いていました。

どの曲も素晴らしい演奏でしたが、印象に残った曲がひとつありました。アニー・ローリーのようなアメイジング・グレイスのようなダニー・ボーイのような懐かしいメロディで、どこかで聞いたことがあるような、でも初めて聞いたな、この曲!という感じで、曲名が思い浮かびません。

スマホに聞かせて判別すればよいと気づいたときは、次の曲になってしまっていました。そこでグーグルに「アニー・ローリー アメイジング・グレイス ダニー・ボーイ 似た曲」と思い浮かんだまま入力して検索をかけますが、いまいちピンとくるものがヒットしませんでした。

あれはなんだろう、あのバイオリンの旋律の郷愁をかき立てるなんとも言えない、ゆったりとした良い音楽は! 知りたい欲はつのります。スマホとしばらく格闘していて、ふと気づきました。広場に通じる階段の上に、看板とチラシが置いてあることに。

チラシにバッチリと曲名が書いてありました。「ピムキーン」というアイルランド・ミュージックだそうです。「ピムキーン」とはアイルランド語でカボチャという意味と知りました。アイルランドか! そういう曲相だったなあ。

タイトルがアイルランド語なんてエンヤみたいだなあと思い、アマゾン・ミュージックにあるのだろうかと、また検索をしましたが出てきません。どこかのCDに収録されているかもと検索しますが、見つかりません。わたしの探し方がまずいのかもしれませんが、この曲はまだ音源化されていないのではないでしょうか。

YouTubeで、演奏者と思しき方々が「ピムキーン」を奏でる動画が掲載されていました。ソトカフェで聞いたままです。とても素晴らしい。

ケルト音楽はどこかなつかしい

ところでアイルランドの曲は魅力的なものが多いですね。さきほど名前をあげたエンヤの曲は世界中でヒットし、日本でも人気です。情緒豊かで心に響くメロディがアイルランドの曲には多いです。

アイルランドにはケルト文化が残っていて、これはキリスト教以前の古いものです。アニミズムみたいに木に精霊が宿ると考えたり、海の向こうに極楽のような場所があると考えたりする文化ですので、日本の古来の文化と相通じるところがあるのかもしれませんね。だからどこかなつかしい。

新しい都市つくばの真ん中で、思いがけず「エモい」曲を聞けたことに感謝です。「ピムキーン」。音源化されていないのでしたら、ぜひしていただきたいと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

8050問題と労働者協同組合法 《ハチドリ暮らし》14

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自宅畑の今

【コラム・山口京子】仲間内の勉強会で話をすることになりました。テーマは自由に決めてよいということでしたので、「8050問題と労働者協同組合法」という題にしたいとお伝えしました。

「8050問題」の呼び方は「はちまるごーまるもんだい」です。80代の親が50代の引きこもりの子を抱えている家庭、そこから派生する問題を指します。80代の親の介護や認知症、生活困窮などにより、親子の共倒れや孤立化が社会問題になっています。

数年前、引きこもりの子を持つ家族の会から「これからのライフプラン」で話をしてほしいと言われ、調べ始めました。

「引きこもりの評価・支援に関するガイドライン」によると、「引きこもり」の定義は、「様々な要因の結果として、社会的参加(就学、就労、家庭外での交友など)を回避し、原則的には、6カ月以上にわたって、おおむね家庭にとどまり続けている状態を指す現象概念(他者と関わらない形での外出をしていてもよい)」となっています。

引きこもるきっかけとしては、学校でのいじめ、親の教育虐待、就職の失敗や病気、働いていたものの様々な事情で退職し、その後働こうとしても再就職口が見つからない―などが挙げられます。

引きこもる期間は長期化していて、7年以上が5割近くになっています。30年以上も約6パーセントいると推定されています。内閣府の調査では、100万人以上の引きこもりがいるとされていますが、200万人を超えるという指摘もあります。

社会的引きこもりには居場所づくりが必要

引きこもりは、精神疾患、発達障害、社会的引きこもり―に大別されます。精神疾患であれば医療ケア、発達障害なら教育的・福祉的ケア、社会的引きこもりには安心できる人間関係や居場所づくりの支援が必要です。

私としては、就職関連の挫折から社会的引きこもりになった人を対象に、安心できる居場所づくりと、自分のペースで働ける場が生まれたらいいな、それには労働者協同組合法が使えるのではないか、という思いがありました。

市民が主体者として、協同・連帯して働く「労働者協同組合」(ワーカーズ・コープ)に法人格を与える「労働者協同組合法」が、2020年12月、参院本会議で成立。今年10月から施行されます。

この組合の基本は、組合員が出資し、意見を反映させ、そして働くことです。「多様な就労の機会」を創り出すとともに、「地域における多様な需要に応じた事業」が行われ、「持続可能で活力ある地域社会の実現」に資することが目的です。注目してほしいと思います。(消費生活アドバイザー)

ウクライナ戦争の行方 《雑記録》36

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【コラム・瀧田薫】「金言耳に逆らう」ということわざがある。他人からの忠告や諫言(かんげん)というもの、たとえ正しいとは思っても、なぜか反発してしまうという意味だが、古くは、中国戦国時代の韓非の書「韓非子」に出てくる。戦国時代は治国用兵の術を説く諸子百家が活躍した時代であり、韓非もその1人であった。

日本においては「矛盾」や「逆鱗」という言葉を用いたことで知られる。彼は君側にあって諫言や忠告を口にする際、主の逆鱗にだけは触れぬようにしていたが、それでも、秦王(後の始皇帝)によって投獄され、獄中で自殺したそうだ。

ところで、ウクライナ戦争が始まってもう3カ月になる。「戦争は始めるより終えることの方がはるかに難しい」と言われるが、その通りの展開だ。ウクライナ側もロシア側も戦争のこう着化を望んではおらず、この戦争を自軍有利な形で停戦あるいは休戦に持ち込みたいとの思いは両軍に共通したものだろう。

ただ、国益を損ねる安易な妥協はできないから、交渉条件を徹底的に吟味・検討するだろう。ロシア側の検討プロセスは独裁者プーチンの決断が全てで、彼に助言する者はいても、諫言できる幕僚が存在するとは思えない。

これに対して、ウクライナのゼレンスキー大統領の場合は、国益だけでなく、ウクライナを支援してくれる米欧諸国の意向への配慮も欠かせない。たとえば、5月26日に閉幕したダボス会議における元米国務長官・キッシンジャー氏の発言など、不愉快ではあっても無視はできない。

キッシンジャーの提案

キッシンジャー発言の要点は2つある。ウクライナ政府に対しては、クリミア半島とロシア軍が実効支配しているウクライナ東部をロシアの領土と認めて停戦交渉を妥結にもっていく、いわゆる「ウクライナ領土分割論」を提案した。他方、西側諸国に対しては、ウクライナ戦争を長引かせれば、NATOとロシアの新たな戦争の引き金を引くことになると警告した。

ゼレンスキー大統領は領土分割論を、第2次世界大戦の惨禍を招いた英仏の対独融和政策を引き合いに出して激しく非難したが、自国の国益を損なう提言であることを直感したのだろう。

一方、キッシンジャー氏が停戦にこだわり、NATOのウクライナ戦争への深入りに反対する理由だが、ロシアを徹底的に追い詰めることはせず、戦後もロシアが大国としての存在感を一定程度維持できるよう配慮することが米欧側の利益につながると見ている節がある。

つまり、ロシアを痛めつけて中国の側に追いやる愚策は避けたいのだ。冷戦時代、彼は対ソ連戦略の鍵として中国を利用するアイデアを当時のニクソン大統領に進言した。今回はロシアを対中国戦略の手駒として利用したいと考えても不思議はない。

さて、ゼレンスキー大統領はこれからどうするだろうか。地元テレビのインタビューで、ロシア軍を2月24日侵攻開始より前の位置まで押し返せば、ウクライナの勝利だとの認識を示し、クリミア半島や東部2州の領土回復は交渉を通じて実現したいと述べたという。(茨城キリスト教大学名誉教授)

県営の洞峰公園、つくば市が買い取ったら?《吾妻カガミ》134

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グランピング施設などが計画されている洞峰公園野球場=つくば市二の宮

【コラム・坂本栄】茨城県が改修しようとしている県営・洞峰公園(つくば市二の宮)。つくば市は了解したのだと思い、改修を進めようとしたら、市民から計画の目玉と進め方に疑問の声が。当然、市は市民の側に立ち、県と市はバトル状態に。いっそ、市が公園を県から買い取り、市民に現状のまま利用してもらったら?

県と市のバトルに市民運動が参入

県の改修計画のあらましは「…4社グループに決定…洞峰公園の整備事業…」(2021年11月30日掲載)に出ています。学園都市にふさわしい、レクリエーションも楽しめる、にぎわいを創り出すエリアにする―という考え方で、野球場をつぶし民営のグランピング(宿泊用具が備わった豪華テント)や、バーベキュー施設を設けるのが目玉です。

県の内外からたくさんの人に来てもらい、おカネを落としてもらうだけでなく、公園運営に民間会社も加わってもらい、その上がりを公園管理費の足しにしようという、大井川知事らしいアイデアです。県の魅力度アップ作戦の一環でしょう。

この計画に対し、そんなものは要らないとの声が市民の間から上がりました。自然公園の形が壊され、宿泊者の騒音・酒・たばこ、バーベキューの煙・臭いは迷惑だ、と。市側の懸念は「26項目で(市と県が)やりとり」(5月4日掲載)に詳しく出ています。市民運動も起き、2000人を超える署名を集め、県の計画策定作業に参加したいと言っています。そのいきさつは「県に協議の場設置を要望…」(5月13日掲載)をご覧ください。

県営公園は合併前の谷田部に開園

県にとって、洞峰公園改修は、水戸偕楽園改修(現在策定中)、大洗水族館改修(知事はジンベエザメに執心)、石岡フラワーパーク改修(昨春完了)と同じ、観光振興策です(小粒ではありますが)。市の懸念に配慮し、「騒音、酒、タバコ、煙、臭い」に極力対処することはあっても、改修そのものにはこだわるでしょう。

そこで提案。公園管理費を減らしたい県の立場を考え(魅力度アップの方は勘弁してもらい)、同時に市民の疑問や反対に応えるためにも、洞峰公園を買い取って市営にするのも一案です。

洞峰公園が1980年に開園したとき、つくば市はありませんでした。谷田部町、豊里町、大穂町、桜村が合併して生まれたのは1987年ですから、場所は谷田部町でした。事情通によると、学園都市にふさわしい公園が必要と考えた県が、町の財政力では無理と考え、代わりに造ったそうです。それから42年。市が管理するのは自然ではないでしょうか。

洞峰公園は20ヘクタール、総合運動公園用地が45ヘクタール。運動公園は66億円ですから、土地単価が仮に同じとすると、洞峰公園は29億円になります。これをどれだけ下げてもらうかは、市の交渉力にかかってきます。市と県のバトルが続くことは好ましくありません。それは市と県の関係の泥沼化を意味するからです。(経済ジャーナリスト)

悪いものを取り除くと良くなるか? 《続・気軽にSOS》110

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【コラム・浅井和幸】かなり昔の学園ドラマで、「腐ったミカンがあるとその箱の中の他のミカンも腐るから早めに取り除かなければいけない」というニュアンスのセリフがありました。主人公の先生は「〇〇(生徒の名前)は腐ったミカンじゃない」と突っぱねていたような気がします。

ネットで検索したら、もう40年以上前のドラマのようですね。いやはや、よく覚えていないわけだ。

さて、実際問題ではいかがでしょうか。やはり、職場などで問題を起こす人物にやきもきさせられ、どうやって辞めさせようかと考えている人も少なくないでしょう。

確かに問題を起こす1人を辞めさせると、一気にチームのパフォーマンスが上がりより良い職場になっていくということもあり得ることです。しかし、1人を変えても、また別の人材が足手まといに感じて、悪口の対象になる人間関係というのは少なからずあるものです。

その腐ったミカン・ポジションの人を排除しても、また別の腐ったミカンが現れる。そう感じたときは、実はその場自体に腐ったミカンを作りだすメカニズムができている可能性があります。

どんなに優秀な人が集まった大学でも職場でも、必ず落ちこぼれは出るものです。「経済学者のヴィルフレド・パレート」とか、「パレートの法則」とか、「80:20の法則」とか、「2:6:2の法則」などで検索してみると、面白い情報が出てきますよ。

くず材料でおいしいラーメンを作る

優秀か優秀じゃないかという一つだけの定規、もしくは自分の好き嫌いの判断で、嫌いなものを取り除くことが、結果、自分の望まない方向にその場を動かしてしまうこともあります。そもそも、その「悪いもの」を排除することが難しい場面もあるでしょう。

そんなときは、その「悪いもの」の評価の善悪を抜きに、どのような性質があるかを洗い出し、それを生かすリフレーミングをすることをお勧めします。頑固者は意志が固いとか、お節介は面倒見が良いとか、声が小さいは控えめ―など。

それら短所だと思えるものを特徴としてとらえ、長所にしていける方法や組み合わせを考えて試してみるのです。

例えば、くず材料でおいしいラーメンを作るイメージでしょうか。他の料理では使えそうもないくず野菜や鳥や豚などの骨。これらを味見して、まずいから取り出しちゃえとなったら、おいしいスープが取れなくなるかもしれません。

毒は薄めると薬になることもあるものです。もともと渋柿は甘柿よりも糖度が高いといいます。物事は全てつながっていて影響を与え合っています。個々を良いもの悪いものに分けるのではなく、うまく組み合わせることでより、大きな効果を狙えるかもしれないと意識すると、違う景色が見えてきます。(精神保健福祉士)

老人食のむずかしさ 《くずかごの唄》109

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】「今日のぬかみそはナスにしてくれ」。ナスのぬかみそ漬けくらい難しい漬物はない。色がすぐに変わってしまう。それなのにうちの亭主は、食べたくなって叫んだら、2~3分のうちに色のよいナスを出さないと怒る。

亭主が製薬会社の研究所に勤務していたころ、日仏薬学会の事務長をやっていた。フランスのシラク大統領が来日した時も握手してもらったらしい。

当時の日仏薬学会の会長は東京理科大・薬学教授の辰野高司先生。辰野先生は、おじい様が東京駅を設計した辰野金吾氏。父上は東大のフランス文学者・辰野隆先生で、フランスに対する思いがハンパな人ではなかった。

亭主は高司先生に、フランス人との付き合い方を手に取って教えていただいたおかげで、ワインの選び方、フランス料理に使うチーズの種類などにも詳しくて、私も彼に教わって、家でフランス料理風のニセ料理をせっせと作ったものだった。

仏壇はしょうゆつぎの隠し場所

そのフランス通が85歳を過ぎてから、自分が幼いころ食べていたものだけが食べ物だと思い込むようになってしまった(幼いころの食べ物だけが食べ物と思い込む老人は多いらしい)。味付けはしょうゆとみそ。昔の人がよく食べた、ぬかみそ漬けが大好きで、白いご飯に漬物、半熟の卵があればいいと言う。

昔、あれほど好きだった牛肉のステーキも、食べてくれない。しょうゆを入れてすき焼き風にすれば少し食べてくれる。タンパク質を、どこでどうやって食べさせたらいいか、私は困ってしまった。幸い、霞ケ浦医療センター病院で栄養指導を受けることができた。

私が「塩分制限で塩分は1日6.5グラムですからね」と言うと怒ってしまう彼も、「栄養指導の時に、先生に言われたでしょう。1食2グラムなのよ」と言うと、怒らないで聞いてくれるので助かる。しかし、敵もさるもの。悪知恵を働かせて抵抗するので始末が悪い。

私がこの家に来た時に、近所に住む親戚のばあさんたちから、仏壇の掃除の仕方が悪いとよく叱られた。バラの花を供えた時も怒られた。私は今でも、仏壇の中だけはあまり見たくない場所になってしまった。

亭主は、私が見たくない仏壇の引き出しにしょうゆつぎを隠して、私が苦心して用意した減塩の料理にも、こっそりとしょうゆをかけていたらしい。(随筆家、薬剤師)

こどもと一緒に本を読むということ③ 《ことばのおはなし》46

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【コラム・山口絹記】娘とふたりで山を登っていた時のことだ。娘に昔のことを聞かれ、「うーん、なんだっけ。思い出せないな」と答えると、「パパは何か望みをかなえちゃったのかもしれないね」と言われてハッとしたことがある。 この、「何か望むものを得た代わりに、大切な記憶を失くす」という設定は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』で主人公のバスチアンが体験するものなのだ。 娘と私の会話には、一緒に読んだ物語の登場人物がたびたび現れる。彼らは私たちにとって、よく知る共通の知り合いや友人のようなものなのだ。 そして彼らが会話に登場するたびに、私と娘の間で彼ら自身やその背景にある物語に対する印象が大きく異なっていることに驚かされる。 ひとつの物語でも、それを受け取った人によって抱く感情や印象が異なるのは、なぜなのだろう。質量のないことばが、私たち一人ひとりに届いたとき、それぞれに違った影響を与えるというのは、当然のことのようで、とても不思議な現象ではないだろうか。 私にもたれかかりながら、私の読む物語に耳を傾ける娘の身体からは、自然と感情が伝わってくる。緊張してこわばったり、笑ったり、身体が熱くなったり。私が気にもとめなかった場面に喜んだり、悲しんだり。私はそんな娘の変化にいちいち驚きながら本を読む。

誰かの物語を体験する行為

物語というのは、それに関わった人の数だけあり、そしてまた、それを受け取る人の数だけ存在する。私たちは、自分自身のひとつの物語しか生きることができないが、本を読むというのは、一時的にせよ、今、ここではないではないどこかで、誰かの物語を体験する行為だ。 そして、そんな物語を誰かと一緒に読むというのはとても特別な行為なのだと思う。きっと娘は、私と一緒に読んだ物語を忘れてしまうこともあるだろう。少しさみしい気もするが、それはそれでよい。 様々な物語が営まれる場所や登場人物というのは、いずれ彼女にとっての何か大切なものに置き換わるスペースになるのだと思う。だから、よいのだ。 一緒に本を読んでいるとき、ふと娘の顔をのぞくと、見たこともないような真剣な表情で挿絵をじっと見ていることがある。自分も大好きな場面で娘が興奮していると、ついつい夜遅くまで一緒に読みふけってしまう。 「まだ読みたい」と言いつつ眠ってしまった娘を抱えて寝室に運んでいると、こんな時間がいつまでも続いてくれたらいいと思ってしまうのだが、娘との読書を卒業しなければならないのは、私の方なのかもしれない。(言語研究者)

生存確認 《短いおはなし》3

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

嫁が来たよ。40過ぎてようやく結婚した長男の嫁だ。
杓子(しゃくし)定規で生真面目な、なかなかの変わり者だ。

嫁は、毎週土曜日の13時きっかりにチャイムを鳴らす。
そして玄関先で必ず言うんだ。
「お義母さん、こんにちは。生存確認に参りました」
「はいはい。ご苦労さん。この通り生きてるよ」

嫁は背筋を伸ばして、茶室に招かれたようにお茶を飲む。
「つつじが美しいですね」
庭を愛(め)でることも忘れない。マニュアルがあるのかね。いつも同じだ。

「洋一は元気? ちっとも顔を見せないけど」
「洋一さんは、公私ともに順調です」
「職場の挨拶(あいさつ)みたいだね」
「お義母さん、あの葉っぱは紫陽花(あじさい)ですね」
「そう。うちの紫陽花は近所でも有名だよ。まるで虹の国に迷い込んだみたいにきれいだよ」
「虹の国ですか? すみません。比喩は苦手で、全く想像できません」
「まあ、見たらわかるよ。来月には咲くからさ。生存確認のついでに見たらいいよ」

嫁は急に目線を落として、深々と頭を下げた。
「すみません。私がここへ来るのは今日が最後です」
「ええ、なに? どういうこと?」
「洋一さんからお話があると思いますが、私たち、離婚することになりました」
「噓だろう? まだ1年も経っていないじゃないか」
「私たちは、恋愛をせずに結婚しました。婚期を過ぎて互いに焦っていたのです」
「上手(うま)くいかなかったのかい?」
「洋一さんに、好きな人ができました。私と結婚した後に、運命の人に出会ったそうです」
「何だい、それ。ひどいじゃないか。親の顔が見てみたい…って、あたしか!」
「彼は悪くありません。早まって、私と結婚してしまっただけです」
「だけど、あんたはそれでいいのかい?」
「私、別れを告げられても悲しくなかったんです。契約が終わったくらいにしか感じませんでした。つまり、それが答えです」嫁は表情を変えずに、きれいな姿勢のままお茶を飲みほした。
「生存確認は引き継ぎますので、ご心配なく」
「バカだね。そんなのどうだっていいよ」

嫁は立ち上がって庭を見た。
「虹の国の紫陽花、見たかったです。それだけが心残りです」
少し丸まった背中が微(かす)かに震えている。
たった数ヶ月の付き合いだけど、嫁と庭を眺める時間は嫌いじゃなかった。
紫陽花、一緒に見たいよ。

「ねえ、生存確認は、やっぱりあんたにお願いしたいよ。ダメかね?」
嫁が振り向いて、微かに笑った。
「承知しました。では、これからは嫁ではなく、茶飲み友達として伺います」
「茶飲み友達か。いいねえ」

嫁は、深々と頭を下げて帰っていった。
石畳を歩く歩幅が少しだけ乱れている。
可愛くないね。素直に泣けばいいのにさ。

(作家)

写真が好きになる写真 《写真だいすき》8

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天聖寺如意輪観音(筆者撮影)

【コラム・オダギ秀】もう半世紀ほども昔の話だ。1枚の写真に衝撃を受けた。小さな本の表紙の写真だ。野の花に、小さな石仏がほほ笑みかけていた。何てすてきな写真なんだと、ボクはその写真の虜(とりこ)になり、以来半世紀、写真を職業にしながら、野の石仏を撮ることになった。

そのころは、まだ石仏などあまり注目されておらず、その撮影者は作家だったが、野の石仏の魅力を普及させた先駆者だった。

後に、同じ石仏を何度もその作家が撮ったのを見たが、それらの写真には魅力を感じなかった。同じ石仏なのに、他の写真にはほほ笑みがないのだ。そのことから、写真を撮るときの心情と写真技術がいかに大切かをボクは学んだ。

写真屋さんが撮った記念の集合写真に、感銘を受けたこともある。ボク自身は、何の関係もない写真だ。

同窓会だそうだ。10人ほどの年配の男女が、庭に椅子を並べて掛けている。なかに2脚、誰も座っていない椅子が置いてある。参加したくて、でもどうしても来られなかった2人の席だそうだ。素晴らしい写真屋さんの配慮に感銘を受けた。

欠席された方は、自分がいない椅子だけ写った記念写真を、いつまでも大切にするだろう。関係のない者でも、空席の写った写真を見たら、心に残るだろう。その場に存在しない人も撮れるのだと学んだ。

土浦の医者だった 平本のじいさん

住井すゑさんが、牛久でお元気だったころ、住井さんの裏に住んでいた平本じいさんを紹介してくれた。じいさんは写真がすごく好きだから、と。ボクは、平本さんというじいさんは元医師で、それ以外の素性は知らずにいた。

じいさんはボクに、大切そうに写真集を拡げ、「ブラッサイ(ハンガリー出身の写真家)はいいなあ」と何度も何度も何度も言った。その時のじいさんの表情と、ブラッサイが撮った夜のパリの裏街の写真が忘れられない。医者だった平本じいさんは、ブラッサイのモノクロ写真に、何を見ていたのだろうか。自分の人生に、何か共鳴するものがあったのかも知れない。

そのころ、若いアンチャンのボクは、ブラッサイなんて知らず、適当に相づちを打つだけだったが、じいさんの中のロマンは、人生を振り返る大切なものだったのだろうか。平本じいさんは、自分がやっていた医院を土浦市に寄贈し(今の土浦一中地区公民館)、新治協同病院(今の土浦協同病院)の2代目の院長だったと、ずいぶん後になって知った。

心に残っているだけで価値があり、大切な写真が、たいていの人にある。1枚の写真が、半世紀もの人生を動かすこともあれば、写真を見ることで人生のその時の心情がよみがえり、あらたな活力になることもあろう。どんなに古くなってはいても、写真によってよみがえるのは、断片ではあるが、人生そのものなのではなかろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会長)

平和の象徴「アンネのバラ」 《令和楽学ラボ》18

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キアラ館の前に咲くアンネのバラ

【コラム・川上美智子】ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月。戦闘が長期化し、終わりが見えない深刻な状況になっています。21世紀。平和が当たり前のようになっている日本では、戦場の悲惨さは写真やテレビを通じてしかわかりません。

昨年、国際ロータリー第2820地区(茨城県)では、高校生や大学生を対象とする研修で、平和の大切さを考えてもらうため、戦場カメラマンの渡部陽一さんにZoomで講演してもらいました。写真の中の紛争地域の子どもたちの悲しい目や、被害を受けた女性や子どもの悲惨な姿に思いをはせ、ロータリーが目指す恒久的平和と人道支援の大切さを学ぶ機会となりました。

我々、第2次大戦直後に生まれ、戦争の無い恵まれた時代に人生を送れた世代は幸せです。子どもたち、孫たち、そして子々孫々が、日本を決して戦場にしないよう願ってやみません。

私が勤務していた茨城キリスト教大学(日立市)にも、命の尊さと平和を象徴するアンネ・フランクのバラがあります。5月に満開となり、赤、黄、ピンクと開花とともに色を変えていきます。アンネの父親オットー・フランクが、野バラが好きだったアンネの形見として、友人から譲り受けたこのバラに、「Souvenir d’Anne Frank(アンネの形見)」と名付けました。

先日、久しぶりに大学を訪れ、教会のキアラ館の前に咲くアンネのバラに出会いました。茨城キリスト教学園では、平和を願い、このバラの花を広く知ってもらうため、接ぎ木をして育て、毎年、県内の養護施設、保育園、幼稚園、小中学校に贈っています。その先は400施設に上ります。

園児たちに平和の大切さを語り継ぐ

つくば市鬼ヶ窪の「みらいのもり保育園」でも、2年前に苗木をもらい育てましたが、残念ながら枯らしてしまいました。今年、このバラを育てていた、つくば市議の方とご縁があって、苗木を分けてもらい育て始めました。園児たちに平和の大切さを語り継げられるよう、今度こそ大切に育てます。また、我が家の庭でも育てたいと思っています。

さて、ウクライナのことでは、避難民支援について茨城県国際交流協会から声がかかり、茨城キリスト教大文学部現代英語学科でウクライナ出身のジャブコ・ユリア先生が教鞭(きょうべん)を執っていることもあり、県と大学が連携するお手伝いをしました。

また、茨城キリスト教大は、ウクライナのイワン・フランコ記念リヴィウ国立大学と留学提携を結んでいます。今月、ヨーロッパを経由してようやく留学生が1名、日本に到着しました。彼女は平和な日本で勉学を進められる幸せを感じていることでしょう。今後は日本とウクライナ復興の架け橋になってもらえればと願っています。(茨城キリスト教大学名誉教授、みらいのもり保育園長)

みんなで楽しく田んぼづくり 《宍塚の里山》89

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「田んぼの学校」の田植えの様子

【コラム・阿部きよ子】私たち「宍塚の自然と歴史の会」では、1995年から里山の中の休耕地となった谷津田で稲作りを開始し、1999年以降、子どもから大人までを対象とした「田んぼ塾」を開いてきました。そして、2015年からは、新たな稲作方法を研究開発する「自然農田んぼ塾」と子ども中心の「田んぼの学校」に分かれて、谷津田の稲作に取り組んできました。

田んぼの学校は、年度ごとに家族単位で「生徒」を募集し、①稲作と稲作に伴う伝統文化を学ぶ食農教育、②里山の自然や田んぼの環境について学ぶ環境教育―をしています。

今年度は、定員越えで数家族お断りしましたが、33家族で発足しました。豊かな生態系を持つ宍塚の里山の入り口の休耕田を地主さんからお借りし、機械化以前の方法で、肥料は米ぬかだけ、完全無農薬で稲を育てています。伝統行事の「ならせもち」用に、白、赤それぞれ1種類の餅米の品種と藁(わら)細工用の品種を栽培しています。

子どもが田植えや稲刈りに参加する「田んぼの学校」は各地にありますが、私たちの学校には、以下のような特色があります。

a.子どもも大人も主体的に取り組む、b.種まきから食べるところまで継続して稲と関わる、c.里山の四季の変化の中で感性や知性を駆使し、自然環境を体験しながら学ぶ、d.毎回、作業の意味や稲作の変化について学習し、日誌もつけ、ときには「宿題」もする、e.経験も知識も出身地も異なる老若男女、大人子どもが交流し学び合う―。

子どもは泥んこを楽しむように

参加者が増え、出席率も高いので、種まき、しろかき、田植え、草取り、稲刈り、脱穀(足踏み脱穀機使用)と選別(唐箕=とうみ=)などの作業は、5~6回に分けて実施しています。かかし作りの竹の準備、かかしとお別れする「かかし送り」、正月の伝統行事「ならせもち」(昨年度は餅の代わりに紅白団子を枝につけました)などは、担当係の家族を中心に、準備から片付けまで皆で取り組んでいます。

子どもも大人も、よく働き、よく学びます。最初は泥に入るのが怖くて泣いた子も、他の子の様子を見ながら勇気を出せるようになり、泥んこを楽しむようになっていきます。泥だらけの服を自分で井戸水で洗って着替える子もいます。

子どもたち同士が刺激し合いながら、頼もしい働き手になっていく姿から、親たちもスタッフもエネルギーをもらっています。昨年度は「トム・ソーヤスクール企画コンテスト」に応募し、努力賞をいただきました。

コロナ禍で、皆が一同に集まる機会が減ったこともあり、HP担当の親御さんたちが、作業や行事の様子がわかるHPと、子どもたちの日誌や絵のHPを開いています。皆さまも、私たちの会の田んぼの学校のページを開いてみてください。大人のスタッフはすべて無償ボランティアですが、随時募集中です。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

幻の「筑後氏」から脱し、正しい「小田氏」に 《ひょうたんの眼》49

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特別展のパンフレット(左)と展示図録の一部=土浦市立博物館発行

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家と名門常陸小田氏」(3月19日~5月8日)では、小田氏の初代・八田知家(はった・ともいえ)が「八田氏」から「筑後(ちくご)氏」に名乗りを変え、「小田氏」を名乗るのは、4代目の時知(ときとも、1250年ごろ)からと説明されていました。

私は、八田氏の名乗り(今でいえば苗字)を「筑後」に変えたとする説明は誤りと思うから、訂正すべきだと、特別展前に博物館宛てに出した文書、それから本コラム47(4月20日掲載)で指摘しました。しかし、博物館の本サイトへの「お応え」寄稿(4月27日掲載)では誤りでないとの論拠が示されず、特別展のシンポジウム(5月1日)でも、参加者から質問があったのに、「筑後の件は置いておく」と、取り上げられませんでした。

博物館などが「八田知家」が「筑後」に名乗り(苗字)を変えたとする根拠は、歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」の中の記述で、知家の子供たちが「筑後太郎」「筑後六郎」などと名乗ったとしていることです。

吾妻鏡の人名表記は、名(苗)字に太郎とか七郎などの生まれ順ないし家における順序が示され、さらに実名からなるのが基本とされ、八田右衛門尉(うえもんのじょう)知家、北条小四郎義時(ほうじょう・こしろうよしとき)、結城七郎朝光(ゆうき・しちろうともみつ)などとされています。さらに、本人が五位以上の(朝廷が任ずる)官職に就くと、官職名だけとなり、相模守(さがみのかみ=北条義時)、筑後守(八田知家)などと表記されています。

その子息たちは、親の官職名の後に、名字を省略して、自分の官職や通称と実名が表記されています。北条泰時(やすとき、義時の嫡男)は相模(さがみ)太郎、八田知重(ともしげ、知家の嫡男)は筑後左衛門尉(さえもんのじょう)知重結城朝廣(ゆうき・ともひろ、上野介朝光=こうずけのすけ・ともみつ=の嫡男)は上野七郎左衛門尉朝廣などと表記されています。

いずれも、吾妻鏡の編者が、多くの御家人の人名を記述するにあたって、家系や官位などを整理・判読できるように、ルールに従って記述したと考えられます。つまり、筑後左衛門尉知重、の「筑後」は「筑後守の子息の…」という意味であり、名字を表記しているわけではありません。「相模」太郎も「上野」七郎左衛門尉朝廣も同じ表記ルールです。

「筑後氏」の採用は各種の歴史にも影響

さらに、吾妻鏡の成立は、源氏3代の将軍記が1270年代前半、それ以降の将軍記は1300年ごろとされており、八田氏が名字を変えたとされる時期から70年後にならないと、「筑後知重」という表記は見ることができないのです。名乗りを変えたとする知家は、「筑後」を子息の名乗りの前に表記されることを、いつ認識できたのでしょうか?

今回の特別展やその際に出された図録では、発掘調査の結果、小田城あるいは居館が八田知家の時代に小田に存在したことを否定できない、と報告されました。知家が建立したとされる極楽寺も同様です。小田を名乗ったのは4代目時知からとされる根拠の宝治合戦(ほうじがっせん、1247年)での3代・泰知(やすとも)失脚説も、誤りの可能性が大きいとされました。

近年のつくば・土浦地方の市町村史や歴史展示では、「筑後氏」説の採用を受けて、小田城と八田・小田氏の登場を、従来の通説より70年ほど遅れた年として説明しています。これは鎌倉時代の約半分の年数になり、考古学や交通史、文化史、宗教史などにも影響を与えます。幻の「筑後氏」から脱し、出版物や展示などが訂正される必要があります。(地図と歴史が好きな土浦人)

絵になる散歩、鎌倉の養老先生、洞峰公園の市民《遊民通信》41

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つくば市の洞峰公園

【コラム・田口哲郎】

前略

先日、最近話題の洞峰公園(つくば市二の宮)を散歩しました。遊歩道が、洞峰沼、野球場、サッカー場、テニスコート、子ども広場、温水プール、体育館の周りを巡っています。広々とした良い公園です。先日このコラムでも、都市の中のこの公園にも「自然」があるのだと書きました(3月24日付)。さて、今回はつくば市での「散歩」について考えたいと思います。

2020年から1年近くNHK・BSで放映された「まいにち養老先生 ときどき まる」は『バカの壁』で有名な解剖学者養老孟司さんと18歳の愛猫のまるののんびりとした暮らしを紹介するドキュメンタリーです。

養老先生は鎌倉に住んでいます。まるは老猫なので、先生の家の庭から外に出ませんが、養老先生は毎日散歩します。谷が多い鎌倉は起伏が多く、高齢の先生が歩くのは大変そうですが、風情のある坂をゆっくり登ります。先生の行く先は建長寺や覚円寺などの古いお寺です。

年季の入った木造のお堂で宗教観を語ったり、苔(こけ)に覆われた古い墓場をめぐって死生観を語ったりします。時には、奥さまと二人、近所のおしゃれなモダン中華のレストランで優雅にディナーというような、地位も名誉もある先生らしいハイソな生活も出てきますが、大体は「散歩してる」の印象です。

寺院巡りの次に先生は、北鎌倉駅近くのカフェでタバコをくゆらせながらコーヒーを飲み、プリンを食べる。その映像を見ながら、鎌倉は散歩も絵になるなと思いました。

「使う」から「愛でる」街へ

散歩くらい私もします。その間に哲学的なことを考えたりもします。カフェだって、一昔前までは東京都心にしかなかったけど、もう茨城県南でもおなじみになったスター・バックスでカフェ・モカとスコーンを頼みます(タバコは吸いませんが)。やっていること自体は先生と変わりません。もちろん、養老先生の足元にも及ばないというか、比べるのも申し訳ない私なのですが。

もし養老先生がつくば市に住んでいて、洞峰公園を散歩して、近くのカフェでコーヒーを飲む光景を放映するとしたら、それはそれで素敵だと思うのです。でも、養老先生がそれを鎌倉ですると、1足す1が2になる以上のなにかが付け加えられるような気がします。

1000年近く歴史がある鎌倉と、都市化したのがまだ40年くらいの学園都市を比べてもね―と言われるのはごもっとも。でも、隣りの芝生は青く見えるではないですが、鎌倉に対するあこがれは、逆に街の文化をつくる原動力になるのではないでしょうか。

養老先生が巡っている鎌倉は寺社仏閣が立ち並んでいます。それは人々が「利用」もする場所ですが、心から「尊ぶ」場所でもあります。土地をどう使うかも大切ですが、その土地がどうしたら尊くなるのか。市民の想いを大切にする街になれば、学園都市はいずれ古都になるでしょう。鎌倉も源頼朝が幕府を開いたときは新しい街だったのですから。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

野菜作りへの道、一歩ずつ《菜園の輪》4

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ジミーさんが貸し出している菜園

【コラム・古家晴美】つくば市における様々な菜園の在り方について触れてきたが、今回はそれを脇で支える方から話をうかがった。32年間続けた教員を5年前に早期退職し、農家へと転身された、つくば市在住のジミーさんこと、柳下浩一朗(60)さんだ。長年、多くの子どもたちと接してきたジミーさんが野菜作りを通して目指すのは、子どもに「豊かな体験と素晴らしい出会い」を持ってもらうことだと言う。

その第一歩として、つくば市が募集する農産物オーナー制度の参加農園として手を挙げた。パパイヤとサツマイモの11回の農業体験やイベントを開催。その中で、より興味を持った参加者に貸し農園(菜園)への参加を呼び掛けた。オーナー制に応募した40組120名のうち、6組の家族が現在、フカフカの土に緑が映える菜園で様々な野菜を栽培している。

来年度から有料で本格始動する予定だが、本年度はお試しということで、無料で20平方メートルの菜園を貸し出している。

運営側として、様々な心遣いをしている。菜園へ自動車でやってくる利用者は多い。地元の農家の方の通行に迷惑がかからぬよう、菜園の路肩に防草シートを張ってパーキングスペースを確保した。車を菜園の脇に横付けできるという利点もある。また、自宅からホースで水を引き、菜園の近くで利用できるように工夫した。トイレは仮設を2セット用意したが、利用者が少ないことから、現在は菜園から徒歩1~2分の自宅トイレを開放している。

その他、スコップや鍬(くわ)、マルチシートも無料貸与している。ジミーさんの後ろに付いて畑の中に足を踏み入れると、ホロッと崩れるケーキの上を歩いているような感触だった。3年間、パパイヤを栽培した跡地だそうで、この土なら何を作ってもうまくいく、とのこと。

畑は作り手の個性が出る

「畑は作り手の個性が出る」とよく言われるが、菜園を見ていてそうかもしれない、と感じる。雑草がたくましく生い茂り、作物名を書いた腰高の竿(さお)を目印に、ようやく野菜の存在を確認できる畑。整然と畝が並び、しっかりとかぶせたマルチの苗を植え込む穴が几帳面(きちょうめん)に正円に切り取られている畑。

子どもの手書きと思われるネームプレートとカラフルな風車が立てかけられた畑。まだ、6区画だけだが、様々な畑がある。しかし、ジミーさんはそれがよいのだという。それぞれの個性が出ているから菜園は面白い。

オーナー制で、土や虫、カエルを見たことも触れたこともなかった子どもたちが、数回の農業体験で、みるみる間に成長する。さらに自分の菜園を持つことにより、土との関わり、野菜づくりの体験を深掘りする機会ができる。野菜づくりへの道をゆっくり一歩ずつ前進している。(筑波学院大学教授)

半径1キロの黄金週間 《続・平熱日記》110

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【コラム・斉藤裕之】テレビでは高速道路の渋滞が復活したことをうれしそうに報道している。カーボンフリーだとかガソリンが高いとかコロナがどうとかということは、久しぶりの行動規制のない連休を目の前にしては無粋ということか。

それにしても1年で一番いい季節。ご近所では、草むしりに精を出すご婦人や庭木を見上げて剪定(せんてい)の算段をするご主人の姿をよくお見掛けしたし、ホームセンターに行けば、野菜の苗や土をカートいっぱいに載せた人々でごった返していた。

夫婦2人の我が家では、食べきれないキュウリやナスはよして、ささやかなミニトマトの苗を買って帰った。それから、気になっていたホーロー製の小さなバスタブ型の水槽を掃除することにした。毎年かわいらしいスイレンを咲かせるこの水槽。昨年はここにホテイアオイを入れてみたところ、水面いっぱいに増えて、冬を迎えたころに全部枯れてみっともない様子になってしまった。

実はボウフラ除けのためにメダカを入れてあるのだが、この体では全滅かと思いながら水を捨ててみたところ、「生存者1名、いや1匹発見!」。しかし1匹というのはさすがに寂しかろうと、ホームセンターに赴いた。昨今は、残念ながらメダカの学校は川の中ではなくホームセンターにあるのだ。「12匹で〇〇円!」という特価品を見つけて、1ダースの仲間と水草を買って帰った。

木っ端で箸を作ってみた

薪(まき)を作るのにもちょうどいい季節だ。玉切りにしてあるものを割って、軒下に積んでいく。渾身(こんしん)の力でヨキを振り下ろす無酸素運動。すぐに心拍数も上がり汗も噴き出す。近ごろ何かと耳にするSDGsという言葉。最近、私なりのひとつの答えが見えてきた。それは「美」だ。事実、目の前に積み上がっていく薪のなんと美しいことか。

それから、ふと思い立って久しぶりに箸(はし)を作ってみた。適当な木っ端で斜めのガイドを作る。そこに1センチ角ほどの棒状の木をセットしてカンナで削っていく。30分ほどで出来上がった。水に沈むと言われるほどの密度があって、「鉄刀木」と書いて「タガヤサン」と読む木の箸。他に花梨(カリン)や月桂樹(ゲッケイジュ)の端材もあるので、娘夫婦にも作ってやった。

そして、犬の散歩の道すがら出会った面白い光景。竹林を背負った民家なのだが、そこに立っている樫(かし)の木を伐(き)っている。恐らく重機も入れないのだろう。はしごをいくつもつなげて木に縛り付けている。高さは電柱よりも高いので15メートルはあろうか。遠目には、はしごがいっぱいくっ付いている木に見える。

アート作品のようでもあり、なんだか久しぶりに心が躍る光景だった。半径1キロ内で過ごした今年の連休。(画家)