金曜日, 4月 26, 2024
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場所を選んだ太陽光発電促進を望む《宍塚の里山》100

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工事着手後に設置された太陽光発電看板

【コラム・佐々木哲美】思い起こせば、認定NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」の里山保全活動は太陽光発電設備業者に好きなようにやられてきました。たった一つの成功例は、2年前、約2.7ヘクタールの事業が計画されている情報をいち早くつかみ、止めさせた事例です。その土地は5名の方が所有し、1名は断固として応じなかったのですが、2名は承諾し、揺れ動く2名を会が説得したことにより、開発業者は諦めて撤退しました。

ところが、今年1月中旬、突然、森林の伐採が始まりました。数日後に看板が立てられ、太陽光発電設備と判明しました。今回の開発計画は、先に計画された1画で5004平方メートルです。登記簿を調べてみたら、つくば市に住む所有者から太陽光発電業者に転売されていました。しかも、千葉銀行から1億4500万円の抵当権が設定され、融資されています。

土浦市に確認したところ、「土浦市太陽光発電設備の適正な設置に関する条例」に基づく設置届が事業者から出されたということでした。

市は詳細を明らかにしませんでしたが、いくつか条例違反があることは明らかです。条例によると、看板は太陽光発電設備事業に着手する60日前に設置するとなっていますが、着手後に設置されました。また、近隣関係者に対する説明報告書を提出すると定められていますが、隣接地主は説明を受けていませんでした。明らかに条例違反ですが、中止させることはできないという見解です。

巨大な里山環境破壊システム

そこで、千葉銀に「太陽光発電施設への融資に関する質問状」と題して、これまでの経緯と宍塚里山の重要性の説明、下記の3つの質問事項を送りました。

①貴行の融資決定基準で「生物多様性の保全に積極的に取り組むこと」は具体的にどのように位置づけられているのか?

②生物多様性に富む森林を伐採し太陽光発電所を建設する事業に対し融資をすることについて、どのような見解を有しているか?

③融資した事業が条例を順守しない場合、どのように対処されるのか?

千葉銀からは回答拒否の連絡がありました。千葉銀は、「環境保全」をマテリアリティ(重要課題)と位置づけ、「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)フォーラムへの参画」を2023年2月21日に表明し、生物多様性の保全に積極的に取り組むことを宣言しています。図らずも、言行不一致を露呈しました。

里山を組織的に破壊するシステムが動いていきます。▽土地を持て余している地主▽小遣い銭欲しさの情報を集める係▽資金がなくても開発できる業者▽評価額が数十万円の土地に数億円を融資する銀行▽建設に大した許認可や技術も要らない業者▽発電した電力を確実に購入してくれる国の政策―です。加えて、▽役に立たない条例▽無関心な市民の存在―もあります。

残念ながら、今のところ我々にできることは限られていますが、里山を組織的に破壊するシステムのどこかを分断することが必要です。(宍塚の自然と歴史の会 顧問)

「宗教」とはなにか? 《遊民通信》63

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【コラム・田口哲郎】

前略

宗教とはなにか? この問いは人類の歴史の始まりからあるようで、そういうわけでもないのです。もちろん、太古の昔から宗教はありました。古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』は壮大な神話ですが、それゆえに人びとの信仰の書でもあります。ヘブライ語聖書のなかの『雅歌』は男女の恋愛詩ですが、それが神と人間のあいだの愛として読まれて、ユダヤ教、キリスト教の聖典に組み込まれました。

こうして人間はその始まりから宗教をつくり、信じてきました。そして、むかしからの宗教は身のまわりの共同体で育まれて、そこで生まれた人は祖父伝来の宗教を信じるというのが当たり前の時代が長く続きました。ヨーロッパのキリスト教とは事情は違いますが、日本も江戸時代までは、家に氏神があり、村に神社と寺があり、小さな共同体での宗教がありました。

実は新しい「宗教」という考え方

でも、近代になると状況が変わります。社会が変化して、いわゆる国民国家が成立すると、共同体をたばねていた宗教がわきに追いやられ、全国区の「宗教」が打ち立てられます。空気みたいに当たり前だった宗教を人びとははじめて、客観的にとらえるようになります。

そのときに「宗教」という言葉が新しい意味を持ち、国民に広く普及するようになりました。ですから、宗教とはなにか?という問いも実は、何千年の人類の歴史のなかでは、せいぜい200年程度のものですから、新しいものといえるでしょう。

さらに現代はむかしと違って、信教の自由がありますから、人びとは意識的に「宗教」に自由に入ったり出たりできるはずです。そうは言っても、信仰の問題となると、トレーニングジムに入って出るという具合に簡単にはいかないものです。それは信仰が人間の本質にかかわるものであり、じつは政治・経済よりも重要だからでしょう。

キリスト教のイエスは「人はパンだけで生きるのではない」と言いました。つづく部分は「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」です。これは、信仰さえあればお金なんていらないという話ではありません。人間にはパンがどうしても必要だけれども、それだけではなく信仰も必要だということです。

なぜ信仰が必要なのか? それは信仰とは身も心も神にゆだねることで、明日のパンを心配する必要はない、必要なものは与えられるよ、という安心感を与えるためです。「宗教」は人間がしあわせになるためにあるべきですし、それは不安を少しでもやわらげることでもあるでしょう。

人間が長い年月をかけてつくってきた「宗教」が時代とともに変わるべきところは変わり、変わるべきではないところは変えずに、より多くの人びとをしあわせにできることを神(あるいは超越者)は望んでいるに違いありません。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

尽きない77歳のチャレンジ 《菜園の輪》12

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小島さんの畑と宝篋山

【コラム・古家晴美】昨年10月、つくば市在住の小島幹男(77)さんの畑を訪ねたときには、筑波連山の宝篋山(ほうきょうさん)を背景に、畑の入り口にマリーゴールドや菊などが植え付けられ、青空に鮮やかに映えていた。今の時期は、種から育てたネモフィラが小島さんの畑を飾る。

夏野菜の苗の植え付けは、4月半ばに8割方終えたとのこと。「苗はほとんど購入しますよ」と、控えめな答えが返ってきた。が、話を聞くと、自分で種から仕立てた苗が多い。カボチャ、赤パプリカ、ズッキーニ、トウモロコシなど、なじみのある野菜が多い。「苗を仕立てることは楽しい」と言う。

このほか、この時期に植えたのは、ナス、トマト、スイカ、ズッキーニ、ハグラウリ、ピーマン、トウガラシなどだ。ナスは、昨年3種類植えたが、今年は白ナスの苗も購入した。知人から白ナスをもらい、自宅で食べたのを思い出し、苗を買ってみたくなった。

その知人も、別の知り合いから白ナスをもらったというから、まさに《菜園の輪》だ。ナスとトマト類の苗には、手作りの風よけ兼寒さよけを立てた。苗の周囲に4本の枝を立て、それをすっぽり囲むような形で、底を抜いたビニールの肥料袋をかぶせてある。家庭菜園ならではの光景だ。

土を介してお孫さんと交流

今年3月上旬には、昨年の5種類のほか、もう1種類のジャガイモを植えてみた。小島さんはこの機会をとても楽しみにしている。お孫さんと一緒に畑仕事をするからだ。「多少のお小遣いをやるんですがね」と、照れながら話されてはいたが、言外に伝わるものがあった。

作業の後、共通の話題で盛り上がり、共に食事を取る。日々忙しい現代っ子との、土を介した貴重な交流の場に違いないだろう。畑や自然に少しでも興味を抱いてほしいという願いもある。

しばらく経てば、サツマイモ、豆類、ゴボウ、ゴマをまく予定だ。小島さんの1年は忙しい。

小島さんが指さす先には、宝篋山の藤の花が見事に咲き誇っていた。少し前は「山笑う」というくらい、コブシの花やヤマザクラなどが咲き乱れ、見事だったと言う。夏は畑仕事の合間に、栗の木陰で、宝篋山を見ながらお茶を飲むのが日常だ。

小島さんの次なる目標は、スイカを自分でカボチャに接ぎ木して育てること。現在は接ぎ木の苗を購入しているが、以前から、今までやったことがないことを試してみたいと思っていた。77歳の大人のチャレンジは尽きない。(筑波学院大学教授)

津和野の清流に沿って《続・平熱日記》132

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筆者が描いた絵

【コラム・斉藤裕之】春らしいすっきりしない空だけど、伐採の仕事に行く弟を横目に、義妹のユキちゃんと津和野方面に出かけることにした。まずは錦川という川が見えてくる。清流として知られ、「錦川清流線」という鉄道が流れに沿って走り、下流には有名な錦帯橋が架かっている。東京では桜が満開というのに、ここ山口の瀬戸内側ではやっと開花をしたばかり。

しかし、山に入って行けば行くほど不思議なことに桜の花が目立つ。広瀬という街に至ってはほぼ満開だ。その広瀬の道の駅で見つけたのが、「鶏卵せんべい」。この数日、出かけるたびに探していたが出会えなかった。名産というわけでもなく、とてもシンプルなお菓子なのだが、卵の利いた優しい味わいと庶民的な価格が魅力。

迷わず、数袋を手にレジに向かった(その後お土産に渡したほとんどの人から鶏卵せんべいを絶賛された)。

すれ違う車も少なく島根に入る。すると桜の花は消えた。六日町という山間の町で次の道の駅に。そこでは「麦ころがし」という和菓子?を買ってみた。ユキちゃんはガニメというワサビの新芽を買った。今度は高津川という清流に沿って走る。「ゴギの里」と書いたのぼりが立っている。後で弟に聞いたら、この辺りの川にしかいないイワナの一種でゴギというのがいるそうだ。次の道の駅では、次女に白あんのお菓子を買った。

「モクズガニラーメン」というのも見つけた。実は別の日に、別の道の駅で網に入ったモクズガニを買って食べてみたところだった。食べたことがないのでわからないが、上海ガニに似ているという。味はとてもよく泥臭さもなかった。

ガニメのしょうゆ漬け

それから、日原という天文台のある街を通って津和野へ。2年前訪れたときと同じように、周りの山々は深い霧に包まれていたが、満開の桜が車窓を彩る。

ユキちゃんのお勧めで、今回は街から少し離れた「旧畑迫病院」を訪ねてみることにした。大正時代に実業家によって建てられたという、木造の立派な病院が復元されていて、少し生々しい器具や調度品、診察室や手術室を見ることができる。併設のレトロな雰囲気のカフェで、ランチも楽しめる。

お昼は津和野の道の駅で。ここでユキちゃんは「ザラ茶」を買う。カワラケツメイという植物が原料で、独特の風味があって病みつきになる。私もお土産に1袋買った。

夕餉(ゆうげ)時、ユキちゃんがガニメのしょうゆ漬けを作ってくれた。辛みがとばないように、70度くらいのお湯で軽くゆでるのがコツだそうだ。食後には麦ころがしを食べてみた。甘さのちょうどいい餡(あん)が入った素朴な味わいで、一同及第点を付けた。

清流に沿って桜の花を追うような、追われるような春の1日。そして、のどかに見える風景は、時代に追われているのか、時代と共にあるのか…。少し前に、弟が伐採された山桜の枝を軽トラの荷台にいっぱい積んで帰ってきた。ユキちゃんがその枝を生けた甕(かめ)が桜の花で春色になった。(画家)

瓜連小で再びゲストティーチャーに《邑から日本を見る》134

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教壇に立つ筆者

【コラム・先﨑千尋】3月下旬のある日、私は地元の瓜連小学校で再び教壇に立った。相手は5年生全員だ(といっても60人弱)。テーマは「倭文織に魅せられて―しづ織とは何か」。

私が住んでいるすぐ近くに常陸二ノ宮静(しず)神社がある。近頃は、神社に隣接する静峰(しずみね)公園の2000本の八重桜の方が知られているが、「桜田門外の変」で井伊大老を討った一人、斎藤監物(さいとう・けんもつ)の墓もあり、歴史に関心のある人はそちらに引き付けられる。

静神社の祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)。織物の神様だそうだ。古代、神社の周辺には倭文部(しどりべ)という職業集団がいた。倭文(しどり、しづおり)とは「楮(コウゾ)や麻、からむしなどを素材として、その緯(い)を青、赤などに染め、文(あや)に織った布」と言われている。『万葉集』には、防人(さきもり)に行った倭文部可良麻呂(しどりべのからまろ)の長歌が収められている。

この織物は『常陸国風土記』や『延喜式』など多くの文献に出てくるが、現物が発見されていないので、こういうものだと断定はできないが、調べる価値のある織物だ。

地元にこのような貴重な歴史遺産がある瓜連町では、約30年前に楮や木綿などを使ってしづ織の復活を試み、小学校にも「しづ織クラブ」が誕生した。今の子どもたちは第2世代になる。私もこのクラブの誕生に関わっており、小学校から「しづ織とは何かを話してほしい」と頼まれたのだ。

楽しみながら学ぶ、楽しいことを学ぶ

私は当然、しづ織の素材や用途などについて基本的なことを話したが、その前に、歴史とは何か、どうして歴史を学ぶのかについて、私が日ごろ考えていることを伝えた。学校で教わる歴史とは、年表を覚えることと有名な人や事件などを知ること。だから面白くない。私はその壁を破りたかった。

長い長い人類の歩みの中で、数え切れない人々の暮らしや生活があり、事件や事故、自然災害なども起きた。その中から何をつかみ取るのか。自分が生きている今と違う世界がある。そこを旅するのが歴史だ。過去に学ぶことは、これからの自分や地域、国の将来を考えることだ。そう前置きし、次のようなことを話した。

しづ織を織っていた倭文部の人たちは、どんな暮らしをしていたのだろうか。何を食べていたんだろうか。他の人たちとの交流はどうしていたんだろうか。静神社の近くに前方後円墳があるが、しづ織と関係あるのだろうか。一つのことに興味を持てば、調べたいことが次々に浮かんでくる。それを調べるのが歴史の旅なのだ。

この地域には、奈良・平安時代には「倭文郷(しどりごう)」という大きなムラがあり、最近墨書(ぼくしょ)土器も見つかった。鎌倉・室町時代は、東西南北の交通の要所で、東海村辺りから栃木那須方面への塩の道が通っていた。

私は当日、わが家の田んぼで見つけた旧石器時代の小さな石斧(おの)を持参した。皆それを手に取り、目をキラキラ輝かせていた。楽しみながら学ぶ、楽しいことを学ぶ、それが子どもの教育に大事なことなのではないか。そう考えた。(元瓜連町長)

四半世紀前のモンゴル訪問で思ったこと 《文京町便り》15

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】1996年10月末~11月初め、モンゴル国を初めて訪れた。外務省の対モンゴル知的支援プログラムで、同国の税制調査を依頼されたからである。そもそもは、同国が日本との租税条約(二重課税の調整)を求めていたことにある。日本としては、その要請の課題を専門家に調査してもらい、その報告に基づいて判断したいという趣旨だった。

現地では、政治体制が変わり市場経済が導入されたばかりで、基本的な社会インフラは旧体制(社会主義)のままだった。

訪問先の官庁街やウランバートルホテルは市の中央広場に面する中層ビル群で、建物内には羊肉の匂いも感じられたが、建物それ自体は風格もありしっかりした造りだった。実はこれらのビル群は、日本人捕虜により1945年から2年間の抑留生活で多くの犠牲を出しながら建設されたもので、ソ連の指導で建設した建築物よりきちんとした出来だ、と現地の人も口々に語っていた。

そんな中での現地での税制調査だが、基本的な情報収集にはかなり難渋した。そもそも、紙が貴重品なのである。したがって、現地担当者は数字を挙げて説明するのだが、その資料(紙)の余部は無い、コピーはできない(そもそもコピー機が無い)、と言う。

したがって、当方は先方の説明を書き留めるしかしない。この時の報告書は、同行した大田弘子さん(当時:埼玉大学助教授、経済財政担当大臣2006年~08年などを経て、2022年9月以降は政策研究大学院大学学長)が、帰りの機中でパソコン相手に手際よく整理してくれたおかげで、何とか記憶と印象が消え去る前にまとめることができた。

携帯電話がすでに日本以上に普及

結論は、日本とモンゴルの間の彼我の差も大きく、経済交流が不十分な中での租税条約は時期尚早、だった。

その後、国際協力機構(JICA)が1998年から20年余にわたって近代的な徴税システムの基盤づくりに協力し、その結果、フレルスフ・モンゴル大統領が来日時(2022年11月)に、岸田首相との間で取り交わした「戦略的パートナーシップのための共同声明」Ⅱ(経済・経済協力)2(投資・ビジネス環境の整備)に、1項目「両国の租税条約締結に向けた意見交換の実施」が入っている。四半世紀前の調査事項がなお継続していることに、ある種の感慨を覚えた。

当時の私にとって印象的だったウランバートル市街の風景は、携帯電話がその時点ですでに(日本以上に)普及していることだった。固定電話は設置されていたが、公衆電話はほとんどなかった。当時の私の印象では、日本では公衆電話網・ボックスが全国に設置されていて、テレホンカードで電話をかけることができた。そうした観点からは、携帯電話の必然性は相対的に低かった。

翻って、公衆電話網が普及していないモンゴルなどでは、携帯電話の利便性は高いし、普及に弾みがついていると想像できた。ちょうど、銀行口座の無い低開発国の一般庶民にとって、携帯電話(スマホ)による決済システム(キャッシュレス決済など)への親和性が高いのと同じである。他方、銀行による決済システムが定着している日本ではデジタル通貨などへのチャレンジが今なお停滞気味であるのと、対照的である。

社会インフラの整備状況、テクノロジーの可能性と普及の交錯・逆転を実感した次第である。(専修大学名誉教授)

老人医療の先駆者、牧野富太郎先生 《くずかごの唄》126

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】90歳の牧野富太郎先生。お会いしてみて、お見かけは60歳くらいに見えたが、話が植物独特の形のことに触れてしまったら、トタンに20歳の青年のようになってしまう。

「カタクリの花。見ていてもあきない、独特の、いい形ですね…」
「葉もいいですよ、紫色がかった緑色。しかし、あの色は、標本に作るのが難しい。あの色はですね…」
興奮すると、話はどんどん植物標本の作り方に飛んで行ってしまう。よほど標本の製作に関心があるらしい。

植物標本作りは全くの根気仕事である。古雑誌・古本をたくさん集めてきて、標本にしたい植物の形を整えて挟む。それを積み上げて、上から重石(おもし)をのせ、植物の水分を抜く。毎日1回、形を整えながら、古紙を取り替える。

植物の種類によって違うが、4~5日、紙を取り替えて、きれいに乾いてきたら、最後に白い和紙や障子紙に挟んで、色の変化、葉の形、種のこぼれ具合などを、丁寧に確かめる。根気と、検体への愛情のいる作業なのである。

生涯に作った植物標本は40万点

先生の家の畳が腐って、根太(ねだ)が折れてしまったのも、標本作りの重石と古本を家の中に置き過ぎたせいだという。

先生が生涯に作った植物標本は、40万点もあったと言われている。東大は牧野先生の植物標本が欲しくて、職員に採用したという噂(うわさ)も流れていた。

<参考>前回コラムも牧野富太郎先生を取り上げました。

愛宕山の「天狗伝説」 《写真だいすき》19

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仙境異聞:暗黒の闇の寂寥感のなかに朝日が射してくると、光がどんなにうれしいものかを知った。撮影筆者

【コラム・オダギ秀】天狗(てんぐ)への憧れがあったので、撮影に励んだことがあった。岩間の町(現笠間市)近くに愛宕山(あたごやま)という小さな山があり、天狗が棲(す)んでいたと言い伝えられている。

自分たちが住む世界とは異なる世界への憧れは、多かれ少なかれ、誰しもが持っている感情かも知れない。まして、それが摩訶不思議な異界ともなれば、一層の興味が津々となる。「仙境異聞(せんきょういぶん)」という古文書があった。それは、まさにその知的好奇心と、野次馬的心情と、本能的畏敬とを表現した、江戸時代爛熟(らんじゅく)期の文書である。

十五歳の寅吉という少年が、文政三年秋、突然江戸の町の知識階級の前に現れて、天狗とともに過ごしたと語った。彼が、その日々を語り始めると、神秘性を重視していた国学者平田篤胤(ひらた・あつたね)は、その少年寅吉に会い、彼が天狗とともに見聞きしたという世界や天狗から学んだことを聞き書きし、「仙境異聞」としてまとめた。

だが、この際、「仙境異聞」が、何を伝えようとしたかは重要ではない。ボクは、平田篤胤が、少年寅吉の語ることに心動かされ、異界の存在を信じたことに憧れた。ボクも、異界を見たいと思ったのだ。

幽界にいるような恐怖が増した

天狗の世界は、笠間の東、岩間の愛宕山にあった。愛宕山には、十三の天狗が棲み、修行していたと伝えられている。愛宕山頂には、「仙境異聞」に書かれているように、今も十三天狗の小さな石の祠(ほこら)があり、天狗の行場と言われる岩場がある。

ボクは、天狗の残滓(ざんし)を求めてカメラを担ぎ、深夜、愛宕山に登った。夜の闇の方が、天狗が棲む山に相応(ふさわ)しい撮影ができると、単純に思ったからだ。愛宕山は、標高300メートルほどの小高い山に過ぎないが、それでも古木生い茂る森林の中に立つと、暗黒に包まれる寂寥(せきりょう)感は、予想以上のものがあった。微(かす)かな葉擦(はず)れにも、木の実が落ちる音にも、幽界にいるような恐怖が増した。

だが、やがて空が明らみ鳥たちが目覚めると、自分が闇夜を恐れたことさえも愛(いと)おしくなり、この天狗や動植物の棲む世界こそが現実の世界であり、四季の移ろいを忘れ、おののきを知らず、微睡(まどろ)みよりもテクノロジーをモノの価値の尺度とする自分の住んでいる世界は、なんと実感のない、非現実的な異界であろうかと思えてきた。

時の流れがうねるような季節感

以来、ボクは、幾度となく愛宕山に登った。冷たい雨の日もあった。途方に暮れるような霧の朝もあった。だが、様々な表情を見せる仙境は、やがて、ボクにとっては、妙に懐かしい、心和む世界となった。現世を乾ききった世界などと単純な括(くく)りをするつもりはない。だが、愛宕の山中に立つと、潮の満ち干にも似た空気感や、時の流れがうねるような季節感に、これこそが実体のある世界であると感じないわけにはいかなかった。

なぜ、闇を恐れないのですか
なぜ、雨に笑わないのですか
なぜ、霧に惑わないのですか
なぜ、明ける空を見上げないのですか
なぜ、見上げる自分が悲しくはないのですか
なぜ、眼に見えぬものを信じられるのですか
なぜ、触れられないものを信じられるのですか
なぜ、鳥が啼(な)くのに歌わないのですか
なぜ、寒さを肌で感じないのですか
なぜ、緑の臭いに咽(む)せないのですか
なぜ、言葉で語るのですか
なぜ、いまそこに、命が輝いていることを知らないのですか
(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

地元で話す 子ども時代の経験 《電動車いすから見た景色》41

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小学校時代の運動会 同級生に交じって、歩行器で行進しているのが筆者

【コラム・川端舞】来月、故郷の群馬で、とあるプレゼンテーション大会に登壇し、子ども時代のことを話す。多くの障害児が特別支援学校に通うなか、重度身体障害のある私は小学校から高校まで、障害のない同級生と同じ学校に通った。しかし、特に中学時代は、介助員からトイレ介助を拒否されるなど、つらいことが多かった。

私は中学時代の介助員や、介助員からの虐待に気づかなかった担任教員だけが悪いとは決して思っていない。

どんな障害があっても、健常児と同じ学校に通う権利があると国連は認めている。障害児を含めた全ての子どもが過ごしやすいように、環境を整えるのは学校全体の責任だ。それなのに、障害児には介助員さえ付けておけば、必要な支援はすべて介助員に任せておけばいいと思われていたことが、当時の介助員を孤立させ、虐待に追い込んだ。

学校全体に流れていた「重度障害児はこの学校にいるべきではない」という空気が、虐待に気づかないほど、担任教員の目を曇らせたのだろう。「どんな障害があっても、普通学校に通うのは権利で、それを保障するのは学校の責任だ」と教育全体が思わない限り、おそらく同じ悲劇は繰り返される。

自分のような経験は誰にもさせまいと今までも様々な場所で自分の経験を話してきた。

障害児が同じ教室にいるのは当たり前

しかし、子ども時代の自分を直接知る人も多い群馬で、自分の経験を話すことはないと思っていた。地元の普通学校で育った障害者が、受けてきた教育を否定しているとなれば、「だったら、特別支援学校に行けばよかったのに」と思われ、普通学校から障害児を一層追い出そうとするかもしれない。それが怖かった。

そんな私が子ども時代の経験を故郷で話すことになったのは、高校時代の友人が「川端に群馬で話してほしい」と言ってくれたからだ。私は彼に自分の過去を話した。その話をすると、多くの人は「そんなにつらいのに、なぜ普通学校に行ったのか」と私に問う。だが、友人は「なぜ大人が子どもを守らないのか」と反応した。

どうやら、高校3年間、障害のある私が同じ教室にいるのが日常だった彼にとっては、私が普通学校に通ったのは当たり前のようだ。障害児だった私を「普通の子ども」と捉え、その子が学校で傷つけられたことを、自分のことのように怒ってくれる。常に例外として扱われた私にとって、友人の反応は泣きたくなるほど心地よい。

友人が近くで聞いてくれるなら、群馬でも話せるかもしれない。どんな障害があっても普通学校に通うのが当たり前の社会になることを祈りながら、話してこよう。(障害当事者)

世界のつくばで子守唄の旅 《映画探偵団》63

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】『木枯し紋次郎』は、マカロニウェスタンに刺激を受けた作家、笹沢左保が1971年に股旅(またたび)小説として発表。翌1972年、アメリカのニューシネマ調の股旅時代劇を構想中だった映画監督、市川崑によって映像化され、フジレビで放映が始まった。

峠道を三度笠(さんどがさ)姿の旅人が、画面奥から黙々とこちらに向かって歩いてくる。フォ一ク調の主題歌「だれかが風の中で」が流れ、旅暮らしの日々が短く挿入されるタイトルバック。それまでの股旅時代劇を一変する演出に、多くの視聴者がくぎ付けになった。

つくばセンタービルは間もなく40周年を迎える。ラテン語で新星を意味するノバホ一ルと、水の広場との関係が新生児(赤ちゃん)を象徴していると考え、『世界のつくばで子守唄/海のシルクロード・ツアー 2023』というコンサートを企画した。

①インド②スリランカ③バングラディシュ④ミャンマー⑤タイ⑥マレーシア⑦シンガポール⑧ベトナム⑨中国⑩香港⑪台湾⑫日本(沖縄)⑬筑波(つくば筑波山麓)には、インドの金色姫が継母の迫害にあい、うつろ舟に乗り筑波に流れついて、養蚕を伝えた伝説が残されている。

金色姫の航海ルート、海のシルクロード地域の子守唄を現地の言葉で歌ったら、世界とつくばを結ぶのにふさわしい企画かと思えた。

外国人と一般市民との交流の場がない

140カ国、約1万人の外国人がつくばで暮らしている。多角的に活動している実行委員が集まれば、歌い手はすぐ見つかるだろうと思ったが、それが間違いだと気付かされた。世界のつくばだから、外国人と交流しているグループがあると思ったが、これもはずれだった。

結局、歌い手探しの旅が始まる。ツテをたどって実行委員と1人ずつ当たるしか方法はなかつた。

つくばの森にあるインターナショナルスクールの先生。下妻市の外国人支援組織の代表。日本に帰化したタイ人が経営するお店。筑波大学出身者を中心にしたスリランカ人が集うお正月まつり。野口雨情の歌を愛する中国人のカフェマスターなどなど。

そうした人たちとの出会いを重ねるうちに、つくば市には外国人と一般市民との交流の場がほとんどないことを知った。つくばに住んで30年。私はもっと交流があるものだと勝手に思いこんでいた。実行委員の1人は、外国人の「いっぱい知っているから紹介してあげるよ」との言葉から、何度もカレーを食べに行ったが、結果にはつながらなかった。

外国人に会いに出かけるときには、『木枯し紋次郎』の主題歌が思い起こされた。「どこかで だれかが きっと 待って いて くれる」「きっと おまえは 風の中で 待って いる」

初めは、紋次郎になった気分でいたが、今では、つくばに暮らす外国人が、金色姫であり、紋次郎だと思えるようになった。私は歌い手よりも、金色姫と紋次郎を探していたのかもしれない。歌い手はあと一地域残すのみとなった。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

閉店してしまった「珈琲俱楽部なかやま」 《ご飯は世界を救う》55

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左から2012年11月13日、2018年2月4日、2013年9月12日のスケッチ

【コラム・川浪せつ子】今回は3月に閉店してしまった「珈琲俱楽部なかやま」さんです。なくなったお店の絵を掲載するのは初めてです。絵を見て行きたくなられた方、すみません。いつ開店したのか正確にはわかりませんが、たぶん40数年前。まず土浦に新店舗を構え、その後そのお店を閉め、35年前、先日閉店した本店(つくば市古来)を開いたようです。

私が初めて「なかやま」さんに行ったのは、本店ではなく、友朋堂書店の斜め前にあったお店(つくば市吾妻)でした。このときの感動は忘れません。あまりにもオシャレだったからです。そのときは保育所に子供を預けた後の時間。若い私にとってコーヒー500円はとても高く、その後は一回も行けませんでした。

その後、西武百貨店(クレオ)の斜め前に、新しいお店が出来ました。そのときも、まだ子育てに手間とお金がかかるころ。お茶するのなら、隣のハンバーガーショップでよいと思っていました。ある日、年上の絵のお友だちが「ここに入りましょ」と誘ってくださったとき、私のちょっと渋った様子を見て、「私がごちそうするから!」

そして、優雅で素晴らしい空間を初めて体験して、いつかきっと私も自分のお金でここにランチに来ようと思いました。

私とお店のストーリーが同時進行

時が過ぎ、私は「なかやま」さんでランチし、スィーツを食べ、たくさんの絵を描かせていただきました。店内のギャラリーコーナーで、展示会も数回開催させていただきました。ですが、西武がなくなった後、ここも閉店されました。古来の本店だけになってからは、我が家から少し距離があるため、あまりお伺いできなくなり、閉店を知ったときはショックでした。

初めコーヒーの値段に躊躇(ちゅうちょ)したことが、今思えばおばかさんだったなぁ、と。コーヒーの値段は、フラワーコーディネート、いろいろな調度品、そんな空間を大切に慈しみ、心が満たされる空間を演出するお値段だったのだ、と。

書きたいことはたくさんあり、全部はお話しできません。私自身のストーリーはお店と同時進行していました。あの時間が私の生きてきた道とリンクしていたと、「なかやま」さんの閉店で思い出されます。感謝です。お店を守ってきた方、まだ行き先が決まっていないとか。どうかステキな道を見つけられますように。

「なかやま」さんで修業された方が、今は自分のお店を持たれています。志は永遠に。古民家カフェ「ポステン」(つくば市北条)と炭火焙煎珈琲「ぬまもと」(牛久市さくら台)です。(イラストレーター)

TX土浦駅延伸 次の焦点は工事費分担 《吾妻カガミ》155

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土浦駅東口のコンテナヤード TXがここに入ってくる?

【コラム・坂本栄】茨城県の第三者委員会がTX延伸先をJR土浦駅に絞り込みました。識者の提言通りTXがJRと土浦駅で交われば、両ラインの使い勝手はよくなります。提言を超要約すると、「土浦駅につなぐのが一番安上がりで開通後の採算性も一番よい」ということですが、「実現可能性が優先され地域開発の夢が見えない」(土浦の経済人)といった声も聞こえます。

実現性に重きを置いた絞り込み

3月末公表された知事への提言書と補足書「TX県内延伸調査の結果」は県のホームページにアップされています。検討視点やデータが載っており、とても勉強になります。その概要は本サイトの記事「TX…は土浦方面…知事に提言」(3月31日掲載)をご覧ください。

延伸先を4候補(土浦、茨城空港、水戸、筑波山)から絞り込む作業で、第三者委は▽延伸実現の可能性▽県ビジョンとの調和▽将来を見据えたまちづくり▽公共交通の利用促進―を念頭に置いたそうですが、どうやら「延伸実現の可能性」が重視されたようです。

補足書にある事業費概算は、土浦=1400億円(直線距離8.4キロ)、茨城空港=2400億円(同28.5キロ)、水戸=4800億円(同45.5キロ)、筑波山=1400億円(同13.5キロ)―となっています。これらに予想運行収支(土浦=年3億円の赤字、茨城空港=年50億円の赤字、水戸=年58億円の赤字、筑波山=年22億円の赤字)を重ねると、延伸先は土浦駅方向しかなかったでしょう。

土浦の経済人が「夢が見えない」と嘆いているのは、JRとの共存や実現性が優先された結果、鉄道敷設が周辺開発を促すというTX沿線(茨城県内では守谷市、つくばみらい市、つくば市)の「成功体験」があまり期待できない、ということです。

全工事費地元負担というプラン

第三者委の絞り込みは、147「TX…延伸…シナリオ」(2022年12月19日掲載)でも指摘したように、県が進める「延伸工事費を県外自治体にも負担してもらう」作戦の準備作業です。国土交通省の関係審議会で土浦駅延伸を東京駅延伸とセットで決めてもらい、東京都、埼玉県、千葉県はもちろん、できれば国にも工事費を分担すると約束してもらわないと、県内延伸は難しいと考えているからです。

事情通によると、現TXが計画されたときの竹内藤男知事(故人)は、TXをつくば市まで引っ張ってくるため(当初計画は千葉県止まり)、延伸する場合は地元で工事費用を負担する旨の文書を1都2県に差し出したそうです。3知事がこの念書を大井川知事の前でヒラヒラさせるような流れになると、県の費用分散作戦(プランA)は行き詰まります。

その場合、現在価格1400億円の工事費を茨城県と通過2市(土浦市内とつくば市内はほぼ同距離)が負担し、年3億円の区間収支赤字を土浦市が補てんすれば(費用地元負担=プランB)、第三者委の提言は即実現します。例えば工事費は、県50%、土浦25%、つくば25%といった割合に。

第三者委提言は、1都2県にはチャーミングさに欠けるように思います。JRとの交差で終わっているからです。プランBでなくプランAで行くには、県は提言を踏まえた計画策定で、第1期=つくば駅~土浦駅、第2期=土浦駅~茨城空港、第3期=茨城空港~水戸駅―と範囲を広げるなど、1都2県が振り向くような計画にする必要があるでしょう。(経済ジャーナリスト)

湖のほとりを紡ぐ花火の話 《見上げてごらん!》13

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湖畔の花火=「土浦の花火」~後世に伝える匠の技~2022年2月(土浦全国花火競技大会実行委員会提供)

【コラム・小泉裕司】今年、茨城県内に新たな花火大会が1つ誕生する。小美玉市は、霞ケ浦高浜入りに面した「大井戸湖岸公園」周辺をメーン会場とし、10月7日(土)、約5000発を打ち上げるための費用1300万円を予算化した。

同公園付近は、すでに3月18日、小美玉市商工会青年部がサプライズ花火を打ち上げた実績がある。同市商工観光課によると、毎夏恒例の「ふるさとふれあいまつり」でフィナーレ花火を打ち上げてきたが、コロナ禍の3年の中止を経て、「おみたま花火大会(仮称)」として、新たな魅力創出を図るという。

ということで、今回は、花火シーズンを前に、霞ケ浦のほとりの花火大会を「つくば霞ケ浦りんりんロード」の霞ケ浦1周コース沿いに、北浦を加え、土浦市から時計回りにアラウンドする。

土浦市は、1925年に湖畔で開催した第1回土浦全国花火競技大会が最古となるが、その後、会場を桜川河畔に移し、湖畔では小規模な打ち上げが不定期に行われている。

かすみがうら市は、7月下旬の「あゆみ祭り」(歩崎公園)のエンディング花火。行方市は、8月上旬に「サンセットフェスタ IN 天王崎~なめがたの湖上花火~」(天王崎公園)。鉾田市は、8月中旬に「鉾田花火大会」(鉾田川下流)を2年に一度、北浦の北端で開催。

北浦の南端では、「鹿嶋市花火大会」(北浦湖上)が昨年11月下旬、3年ぶりの開催となった。潮来市では、8月中旬の「水郷潮来花火大会」(水郷北斎公園)。稲敷市は8月下旬、「いなしき夏まつり花火大会」を、古渡(ふっと)の入り江に注ぐ小野川沿いで開催している。

花火と自転車のコラボはいかが?

過去の実績を参考に紹介してきたが、本稿のきっかけは「久しぶりの土浦は、『花火の街』から『自転車のまち』に変貌しつつある」という東京在住の写真家のつぶやきを知ったから。初見、少々張り合い抜けしたが、プラス思考に転じ、WIN-WIN(ウインウイン)を構築できないものか瞑想(めいそう)したところ、春の妄想に至った。

土浦の花火を紹介する「花火館」を湖畔に建つ「りんりんポート土浦」に併設・整備して、花火と自転車のコラボはどうだろう。

「花火館」には、先に紹介した各花火大会のコーナーを設けながら、年に一度、リレー形式で「霞ケ浦湖畔一斉打ち上げ」を行う。その際は、土浦港での花火大会の恒例化が前提だが、石岡市、阿見町や美浦村のフルエントリーになれば、なおさらにうれしい。

この「花火館」整備については、昨年3月、土浦商工会議所が土浦市長に提言した「花火のまち土浦の発展に向けて」(2022年3月25日掲載)の柱の1つ。12月の土浦市議会定例会においても、一般質問で「花火ミュージアム」の新設が要望された。

さかのぼること27年前の1996年9月の定例市議会で、当時市議会議員であった安藤市長が「花火博物館の新設」として執行部に提案した経緯がある。

とはいえ、今どきの厳しい財政状況を思えば、公益施設とは言いがたい施設整備など、時代錯誤も甚だしいとしかられそうだ。ましてや前職、いわゆるハコモノ行政からの脱却など行財政改革に携わった身としては大いに心苦しい限りではあるが、エイプリルフール月にあやかって、春の妄想をお許し願いたい。

脱稿後、先の提言書を読み返し、最終ページ最終項の提案にあぜんとした。「りんりんロードの利用実績を踏まえ、霞ケ浦周辺の自治体と連携した湖上での打ち上げや、広域花火大会の可能性を研究されたい」とある。

入稿直前で改稿きかず。妄想でも瞑想でもなく、すべてがコピペの迷走となってしまった、あんぽんたんな提案をご容赦願いたい。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

<参考>創立75周年記念提言「花火のまち土浦」の発展に向けて:土浦商工会議所(2022年3月)

怒らないから言ってごらん《続・気軽にSOS》131

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【コラム・浅井和幸】怒らないから言ってごらん。そう言われて、怒られないなら正直に言っちゃおう、とはなりませんよね。というのも、怒らないからと言っている時点で、すでに怒る準備が出来ていて、正直に言おうが、黙っていようが、うそをつこうが、怒られることが確定しているからです。

かなり前のことですが、発達障害の方たちのために活動をしている発達障害のKさんに、子どものころの話を聞いたことがあります。同年代のKさんの、その時の話がとても面白くて印象に残っています。といっても、大人になって振り返っているから面白いのであって、その当時はとても恐怖を感じた経験だったでしょう。

小学校のころ、学校に持っていく教科書をよく忘れていたKさん。いつも先生に怒られていました。あるとき先生から「忘れ物をしない方法を一緒に考えよう。怒らないから、何でもいいから言ってごらん」と言われました。Kさんは、それなら正直に言おうと、「自分は忘れ物をしないのは無理なので、教科書などを家に持ち帰らずに、学校に置いておけばよいと思います」と言ったら、とても怒られたとのことでした。

四半世紀以上前の話です。今なら、家と学校に教科書を置いておくのは一般的にあることですが、当時としては先進的過ぎたのでしょう。怒らないと言った先生は、真面目に答えたKさんの案をふざけていると思って怒ったのです。

正直に答えたら怒られるから正直に生きてはいけない。うそをつくなり、ニコニコして「わからないから教えてください」とか、うつむいて「ごめんなさい」と言った方がよいということを学んだそうです。

問題解決にはペース配分が大切

上の話はわかりやすい例ですが、多くの方が、日常会話の中で悩んでいるとき、あまりよい状況でないときは、そのような状況を招いた自分が悪いと、周りから責められる経験を重ねます。そうすると、悪い状況のときに質問されるのを恐れるようになります。

悩み相談で、その方と関係性をつくる前に、私が現状を知ろうと質問をすると、回答に躊躇(ちゅうちょ)される方が多いのはこのような理由によります。質問を矢継ぎ早にしてしまうと、恐怖感を与えてしまいます。現状を知りたいと聞いているのに、相談に来られた方が「私が悪いというのですか」と怒り出すこともあります。 悩んで苦しんでいるのに、さらに責められている、悪者にされていると感じてしまうからです。問題解決を先延ばしにすると悪循環になる可能性はありますが、逆に急ぎ過ぎると前に進まなくなることがあり、ペース配分がとても大切なのです。(精神保健福祉士)

大江健三郎がのこしたこころ《遊民通信》62

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【コラム・田口哲郎】

前略

先日、ノーベル賞作家の大江健三郎さんの訃報が飛び込んできました。88歳の大往生とはいえ、驚きましたし、悲しいですね。

大江さんがノーベル賞文学賞を受賞されたのは1994年で、当時、私は高校生でした。日本はバブル景気がはじけて、失われた10年に突入し始めたころです。高校生の私は呑気(のんき)で、世情に疎いタイプでしたので、それから世界や日本の社会が劇的に変わってゆくなんて、夢にも思っていませんでした。

先日、大江さんを追悼する番組がNHKで再放送されました。ノーベル賞受賞の記念講演とそのときのスウェーデンへの旅に密着したドキュメンタリーでした。

大江さんは受賞直前に小説の執筆を止めると公言していました。周りは再び書くよう勧めますが、大江さんは小説よりももっと直接的に人びとの魂に救いをもたらすような、小説ではない何かを生み出したいとおっしゃっていました。

多様性、ケアの思想を先取り

スウェーデンには長男の光さんを同伴されていました。光さんは障がいを持ちながら、クラシック音楽の作曲をして、そのCDは20万枚売れたそうです。私もよく聴いていました。

今になると、大江文学の中心的な主題である、障がいを持つ息子との交流は、ケアの思想を先取りしていたのだなと思います。いのちある者はみな互いに尊重し合い、弱きを助ける考え方です。大江文学は弱者により添います。インタビューで大江さんは、「ダイバーシティ」という言葉をつかって、多様な価値観を受け入れ、尊重できる社会をめざすべきだとおっしゃっていました。

現在、さまざまなところでダイバーシティが言われ、多様な社会の実現のための努力がおこなわれています。それを大江さんは30年近く前に先取りしていたのですね。

現実と虚構が一体の世界を創作

さて、ノーベル賞受賞理由は「詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」です。大江文学は文体のすばらしさ、その文体がつくる世界観の奥深さ、それを写実的ではなく幻想的に描き出したことです。

しかし、大江作品の魅力は、現代人が持つ苦しみにより添う姿勢だと思います。たとえば、社会はダイバーシティを推進するために、積極的に前進することを強調します。大江さんはその活動の根本にある原因、人間の悲しみを癒やすこころを静かに、そして丁寧に書き残したのだと思います。

大江さんという偉大な賢人が残してくれた言葉をじっくり味わいたいですね。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

母の遺族年金の手続きを済ませました《ハチドリ暮らし》24

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長ネギの植え付けと、手前にほうれん草が生えてきました

【コラム・山口京子】父が1月に亡くなり、今月、母の遺族年金の手続きを済ませました。母は厚生年金に加入したことがないので、老齢基礎年金しかありません。父は厚生年金に30年以上加入していました。そのため、父の厚生年金(報酬比例部分)の4分の3を遺族厚生年金として母が受け取れます。

また、経過的寡婦加算というものがあり、これは妻本人の生年月日で支給額が段階的に決められています。昭和8年(1933年)生まれでは年額で約42万円となり、この経過的寡婦加算と遺族厚生年金を合わせた額と自身の老齢基礎年金が、これからの生活を支えてくれます。

ちなみに、経過的寡婦加算は昭和31年(1956年)4月2日以降生まれの妻には支給されないため、自分としては他人事でしたが、母の遺族年金は予想していた額より多く支給されることになりました。

元々、日本の年金制度は雇用される夫と専業主婦の妻を想定した制度設計で、遺族年金は妻にあつい仕組みですが、2014年、遺族基礎年金は「子のある妻」から「子のある配偶者」とされ、夫も対象になりました。今後、遺族年金の男女の偏りが是正されていくのでしょう。

一方、働く女性の半数以上は非正規で働いており、年収が低く老後に受け取れる年金額も少ないので、雇用環境の改善が不可欠ですし、賃金の引き上げは喫緊の課題です。女性のみでなく、男性にも非正規雇用が広がっています。正規と非正規の壁をなくし、収入に応じた保険料を納付する仕組みを作り、高齢期の生活保障の安心を構築してほしいと願います。

おだやかに無理をしないで暮らす

年金制度も、これから改正が続きます。そうしたことにアンテナをはり、家計にどういう影響がでるのかに注意したいと改めて感じました。

高齢期の家計管理にあたって、公的年金制度の仕組みを知ることが大事です。そしてわが家では、どういった年金がいつから、いくらくらい支給されるのかを事前に見積もることです。夫婦で暮らす期間の年金の額と、「おひとりさま」になった際に年金がどうなるのかを調べておきたいものです。家族の形は多様化していますので、自分のケースではどうなるのかを確認しましょう。

そのときにならないと分からないこともありますが、事前に算段することで、慌てなくて済むこともあります。働き続けることを想定し、定年以降の就労に向けて、50代から計画し行動に移す人が増えていると聞きます。自分も65歳となり、少し働くことと社会的な活動に参加すること、母の世話とのバランスをとれたらいいな、と。おだやかに無理をしないで暮らしていきたいと思うこのごろです。(消費生活アドバイザー)

「宇宙の部屋」宇部にて 《続・平熱日記》131

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筆者が描いた絵

【コラム・斉藤裕之】弟の家は山口県の山の中にある。3月の半ば、ここに来てから薪(まき)ストーブのある山小屋風の母屋はとても暖かく、麓より少し遅い春も快適に過ごせている。今日は午後から雨の予報が出ていて、弟の嫁のユキちゃんは地域の奥様方と予定していたベーコンとハムの薫製作りを延期した。そこで、宇部という街にユキちゃんと出掛けることにした。大学の後輩がグループ展をしているというのをたまたまSNSで見かけたのだ。

着いたところは元病院だったという建物。いつもは絵を描いている後輩の作品はインスタレーション(場所や空間全体を作品として体験させる芸術)によるものだった。階段を上っていくと、3階はGLYCINES(グリシーヌ)」というギャラリースペース。

実は本当に偶然なのだが、つい2週間ほど前まで、この場所でユキちゃんの長女、つまり姪(めい)のナオちゃんが展覧会をしていたのだ。ナオちゃんはカナダに住んでいて、この冬の数カ月間を山口で過ごすため帰国していた。随分前からイラストを描いていたのは知っていたが、今回は日本で知り合いになった写真家の女性に誘われて、急きょここGLYINESで二人展をすることになったそうだ。

ナオちゃんはボールペンで絵を描く。その緻密なイラストは、友人の書いた「ごちそうの山」という昨年出版された本の表紙にもなっている(広島の山奥でマタギとして生活する若い女性のエキセントリックな日常を描いたこの本はお勧め)。

藤の花のような文化の拠点

ちょうど昼時になったので、併設のカフェでカレーをいただきながら、オーナーの涼子さんにユキちゃんはお礼方々、私達が今日ここにきた経緯など話しているうちに、涼子さんと私は同時期にパリにいたことが分かってきた。

例えば、涼子さんが大変お世話になったというある高名な絵描きさん。その方は芸大ラグビー部の大先輩で、私もパリのご自宅でご馳走(ちそう)になったことを思い出して…。縁は異なもの、先ほど1階で見てきた作品の作者も実はラグビー部の後輩でもあるのだ。

涼子さんは3年前に東京からこの街に帰られて、ご実家である病院を文化の拠点とするべく、頑張っておられるという。GLYCINESとはフランス語で「藤」という意味で、かつてここの地名に藤という字が使われていたことに因(ちな)んだそうだ。3階にオープンしたギャラリー、2階の元病室はシェアハウスに、1階にはレコード店が入り、そして間もなくカフェもオープンの予定だという。

なるほど。上から下へと咲いていく藤の花のように、建物の上から下へ涼子さんの思いも開花しているかのようだ。

すると、そこに女性が1人現れた。涼子さんの友人で、2階のシェアハウスに滞在中のジェニーさん。職業は占い師。「どちらからですか?」と聞かれたので、「牛久です」と答えたら、なんと以前、阿見町の会社に勤務されていたという。今日の偶然ともいえる出会いをしきりに不思議がるユキちゃんに、ジェニーさんは「宇部は宇宙の部屋ですから」と、さらりと答えた。

帰り道、山あいにコブシだけが白く咲いていた。結局、雨は降らなかった。(画家)

有機農業運動のトップリーダーを偲ぶ 《邑から日本を見る》133

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大和田さんと金子さんを偲び、有機農業の未来に向けて語る会

【コラム・先﨑千尋】昨年、わが国の有機農業運動をけん引してきた2人が相次いで亡くなった。鹿児島市の大和田世志人さん(73)と埼玉県小川町の金子美登さん(74)だ。その2人を偲(しの)び、有機農業の未来に向けて語る会が去る3月30日、東京・永田町の憲政記念館で開かれ、有機農業の生産者や消費者、国会議員など2人と親交のあった約150人が参加し、2人の人柄や功績などを語り合った。主催したのは、2人が理事長を務めた全国有機農業推進協議会(全有協)。

大和田さんは鹿児島県生まれ。学生時代に水俣病患者の支援活動で熊本県水俣市に行き、「水俣の闘いは人間の生き方を問うている」と考え、そこで出会った岩手県陸前高田市出身の明江さんと鹿児島県で有機農業運動を始め、1978年に鹿児島県有機農業研究会を立ち上げ、84年には有機農家を束ねた有機生産者組合を結成し、消費者との提携を広めていった。

現在は160人の生産者が参加し、約100品目の野菜と20品目の果実、有機米、雑穀、茶などを出荷している。店舗は鹿児島市内に3店舗、レストランもあり、直営農場も運営し、年間の販売高は8億円を超えている。

金子さんは、1971年に農林省の農業者大学校第1期生として卒業し、就農。学生時代に北海道酪農の父・黒沢酉蔵の「土地からとったものは土地に戻す」という還元農法に魅(ひ)かれ、有吉佐和子さんや一楽照雄さんらと交流し、食を通して日本の未来に貢献したいと考え、有機農業に取り組んだ。金子さんは、自分の経営だけでなく、集落全体に広げ、地場の豆腐店や酒造会社などとも提携し、地域循環型農業を確立、後継者の育成も図ってきた。

今後10年が日本農業再生の好機

集会では、呼び掛け人の1人である篠原孝衆議院議員が「金子さんの人生は、日本の有機農業の歴史そのものだ。国会にもファンがいっぱいいた。さまざまな苦労があったが、埼玉で地道に取り組んでこられ、ようやく国も意欲的な目標を立てるまでに至った」と話した。

また、呼び掛け人代表の枝元真徹前農水事務次官は「大和田さんの故郷、鹿児島県の先輩後輩の仲。彼から人としての生き方を学んだ。有機農業が人類の本来の営みであるという信念を貫き、仲間のために昼夜を問わず働いていた。2人の遺志を受け継ぎ、有機農業の未来を語る場にしたい」とあいさつした。

さらに、全有協の下山久信理事長は「有機農業推進法制定の時は2人と共に農水大臣室に通った。法律が出来てから16年たつが、有機農業は思ったほど拡大していない。しかし、みどりの食料システム戦略が国の政策となり、これからの10年が日本農業再生のチャンスとなる」と述べた。その後、2人と親交のあった国会議員や生産者や消費者、農水省関係者ら約30人が2人の思い出を語った。

集会は約3時間半。思い出話だけでなく、これからのわが国の農業のあり方や有機農業運動の取り組み方など幅広い問題提起もなされ、「有機農業の未来に向けて語る」というテーマにふさわしい集まりだった。有機農業の拡大のためには、先駆者のノウハウを踏まえ、担い手の育成、技術の継承、販路の確保などの課題を乗り越えていく必要があると考えた。

話を聞いていて、私は中国の文学者魯迅の「もともと地上に道はない。人の歩く所が道になるのだ」という言葉を思い出した。(元瓜連町長)

「つくばサイエンス0.3倍」のメッセージ 《竹林亭日乗》3

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【コラム・片岡英明】今年からつくば工科高校は2学級増の理科専科のつくばサイエンス高校となった。しかし、定員240名に対し志願者は72名(0.3倍)であった。昨年は160人に対し133人(0.83倍)だったので、志願者・倍率ともに低下した。

サイエンス高の説明会には約700人の生徒保護者が参加し、高い関心があったというが、なぜだろう。「0.3倍」に示された受験生からのメッセージを読み取ってみたい。

県立高必要地区での定員割れ

サイエンス高があるつくば市谷田部地区は、合併時4万の人口が11万を超えているが、県立高はつくば工科1校のみである。県立高5校の取手、同4校の筑西よりも人口は多く、つくば市の中でも最も県立高(特に普通科)が必要な地区である。

つくばエリアには、TXが開通した2005年以降、こども増の中で県立高が逆に削減され、県立高不足という構造的な問題が発生している。一方、子ども増の中での県立高の定員割れという、もうひとつの課題も浮上している。この2つの課題を混同せず、それぞれ独自に解決を図る構えが必要である。

サイエンス高の場所を考えると、通学利便性も重要で、説明会でも通学に対する質問が多かった。利便性が従来のままで、定員割れの解消、さらに学級増まで2ステップ前進をねらった今年のサイエンス高新設は、当初より設定目標が高かった。

説明会参加の多さは新しい高校への期待である。その根底に新設校の豊かな学び・青春・進路への受験生の期待がある。生徒・保護者約700人が、ある意味校門まで来たのだ。楽しさや青春のある学園像を示し、受験の決断を促すもう一押し「祭りのステップ」が必要だった。

4学級理系・2学級文系では?

文系理系という日本独特の狭い分類に縛られている点も気になる。生徒がテーマを持って探求活動、つまりサイエンスを行えば、理系大学やマイスターへの道に加え、文系大学への可能性も当然広がる。そんな学びの深まり方も知らせてほしい。

高校受験段階で理科一本に決めかねている生徒も受けとめる柔らかさ、学びながら進路を考える安心が高校には必要である。あえて文理で考えるなら、4学級を理系、2学級を文系ではどうだろう。今後、時間をかけて評価を高め、谷田部地区の中学生がたくさん入学する地元の人気校になってほしい。

前回コラム(3月8日掲載)で扱った、つくばエリアの現時点での15学級、2030年までさらに10学級―合計25学級の県立高不足の解決が急がれる。特に普通科の学級増が急務だ。

今年のサイエンス高の2学級増に続いて、私たちは2024年入試での学級増と「今後の学級増の計画提示」を県に求めている。4月中に要望書を提出し、担当者と懇談したい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会・代表)

90歳で恋人のいた牧野富太郎先生 《くずかごの唄》125

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】NHKの朝ドラに植物学者の牧野富太郎氏が出現して、うれしくなってしまった。牧野先生は小学校すら卒業していないのに、東大の先生になった人と噂(うわさ)された人物である。

「どんな方なの? 私、会って、お話してみたいの」
「私の家の近くだから、連れていってあげるわ」

私が大学3年生のときだった。友達の案内で予告もなしに会いに行ってしまった。焼け野原だった戦後の東京にも、このような鄙(ひな)びた場所が残っていたのかと思われる広い庭の中に、昔風の古民家があった。

表札もなし、玄関と庭の境目にぎっしり木が植えてあって、案内の人がいなければ、どこから入っていいのかわからないたたずまいの家である。

「こんにちは、牧野先生いらっしゃいますか? 会いに参りました」
「どうぞ、お上り下さい。私が牧野です」

奥の方から女の人が飛び出してきた。

「お上り下さいなんて言って… そこは、ネダ(根太)と畳が腐っていて、危ないのよ。こちらから回って、入ってください」

先生は60歳くらいかと思った

後で調べてみたら、先生は当時90歳だった。平均寿命が40歳。70歳で死ぬと長生きしてオメデタイといって紅白のお饅頭(まんじゅう)を出した時代である。当時60歳以上の老人と、あまり話をしたことがない私は、先生を60歳くらいかと思ってしまった。

「学生さんかい?」
「薬科大学の学生で植研に入っています」
「ショッケン? 食券?」
「植物研究部です、薬用植物の観察をしています」
「山へいくの?」
「この間は、筑波山へカタクリの花を見に行きました。いつまで見ていても飽きない形をしていました」

話が弾んで、なぜか、とても楽しかった。先生は自伝に「私の恋人は植物です」と書いている。90歳になっても恋人のいる人は、さすがに若くて溌剌(はつらつ)としていた。(随筆家、薬剤師)