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《食う寝る宇宙》64  ソロリソロリと3時半起床

【コラム・玉置晋】まずは御報告。2020年4月12日、宇宙ビジネスサロンの一般社団法人「ABLab」において、宇宙天気プロジェクトを発足させました。プロジェクトメンバーがキックオフミーティングの様子をまとめましたので、こちらをご覧ください。

プロジェクトのコンセプトは「宇宙天気キャスタ・宇宙天気インタプリタが活躍する近未来社会を創造する」です。「宇宙天気キャスタ」は読んで字の如くですが、「宇宙天気インタプリタ」って何?という人は、コラム49コラム50をご覧ください。昨年末に鹿島神宮でうけた神様のお告げ(コラム51)を、しっかり実践しておりますよ。

このプロジェクトは、ABLabと僕がお世話になっている茨城大学理学部・野澤研究室(宇宙天気防災)の協力により、「教育・研究」「社会ニーズの醸成」「利用・防災」の3つの柱をつなげていきます。

愛犬のご飯は僕の担当

さて、上記の宇宙天気プロジェクトを推進するために、僕は「会社勤めの宇宙エンジニア」と「宇宙天気防災を研究する社会人大学院生」の二足のわらじを履いています。時間のやりくりが大変なのですが、どのような1日を送っているのか紹介します。

朝3時半にムクっと起き出し、ソロリソロリと椅子に座ってパソコンを開く。「ガタ」という椅子のきしむ音、カチャカチャというキーボードの音。これらの音で家族を起こすわけにはいかない。一挙一動を慎重に行う必要があります。

就寝前に仕掛けたプログラムの出力結果を確認したり、解析結果をドキュメントにまとめたり、プレゼン資料を作ったり、クリエイティブな仕事は早朝の3時間が勝負となります。

朝7時から8時半は家事の時間です。風呂掃除とゴミ出し、愛犬の「べんぞう」さんのご飯の準備は僕の担当です。この行程を忘却すると奥さんに怒られるので、必死です。

僕は会社勤めの宇宙エンジニアです。基本的には、9~18時の日勤帯は本業の人工衛星を見守る仕事をしています。研究で得た知見は、仕事にフィードバックさせるよう、意識しています。仕事と研究を分離しないことがコツだと思います。

また、担当する人工衛星で問題が発生したり、宇宙天気が異常に荒れたりといったクリティカルな状況にならない限り、定時には退勤するように心がけています。

夕飯の準備は夫婦で連携

先に奥さんが帰宅して、夕飯の準備をしてくれていることが多いので、まずは「べんぞう」の散歩などのお世話をしつつ、人間の夕飯の準備を交代します。夫婦共働きなので、その辺りの連携が生活をやりくりするポイントなのでしょう。ただし、主導権は奥さんにあります。

メール処理などの管理作業、明日の準備で2時間ほど費やします。そして、今日も1日が終わる。

以上は平日の様子なのですが、これだけではとてもタスクはこなせません。残りは、週末にまとめて行うことにしています。また、大学院通学や学会発表では、会社で有休を取得して対応することになります。家族、会社、大学の皆さんの御協力のおかげで、宇宙天気プロジェクトの遂行が可能になっています。心より感謝いたします。(宇宙天気防災研究者)

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